第15話 青い光
オリバー・ブランシュ、たまゆら理論研究室。この前と変わらず、薬品と古書の匂いに満ちていた。午後の陽光が、棚に並んだ試験管を虹色に染めている。
私とカイゼルは、昨夜の出来事をオリバーとミラベルに説明し終えたところだった。二人の反応は、研究者らしいものだった。
「理論上あり得ない……逆響の力が、精霊の魔力を鎮める? 小生の知る限り、そんな現象は知らないし、記録にもない」
オリバーが眼鏡を押し上げながら、首を傾げる。白衣についたインクのシミが、彼の没頭ぶりを物語っている。
「でも、現象は実際に起きたのですわ!」
「ミラベル、君は興奮しすぎだ」
「だって師匠! これは歴史的発見かもしれませんのよ!」
ミラベルの紫の瞳が、好奇心で輝いている。
「たまゆらでもない、新しい共鳴……わたし、似たような記述を古文書で読んだ気が……」
「本当か?」
「ええ、確か『調律の書』に……」
ミラベルが本棚に駆け寄ろうとした、その時だった。
研究室の空間が、突然歪んだ。
空気が水のように波打ち、光が屈折する。そして次の瞬間、テーブルの上に小さな人影が現れた。
ノエル・シルバーレイク。
銀色の長い髪が、存在しない風に揺れている。オッドアイ――右の銀色と左の金色の瞳が、私たちを見下ろしていた。
「古い物差しじゃ、新しいものは測れないよ」
中性的な声が、研究室に響く。
「何者だ!」
「ノエル・シルバーレイク。運命の観測者、とでも呼んでもらおうか」
「いつから見ていた?」
「ずっとさ。君たちは面白いからね」
ノエルが軽やかにテーブルから飛び降りる。音もなく着地すると、オリバーの前に立った。
「君の理論は間違っていない。ただ、前提が違うんだ」
「前提?」
「たまゆらは『世界の調律』に従った現象。でも、リーナとカイゼルは、その調律から外れた存在」
「つまり?」
「彼らは世界のルールに縛られない。だから、新しい音楽を奏でられる」
ノエルの言葉を、オリバーが必死にメモを取っている。ミラベルも息を呑んで聞いている。
私には、その言葉の真意が掴めなかった。
ノエルがゆっくりと私たちの方を向く。その歩み方は、地面を歩いているというより、空中を滑っているようだった。
私の前で立ち止まり、左手の痣を指差す。
「それが君の楽器だよ、リーナ」
「楽器?」
「逆響の力。世界の音を乱す、不協和音を生み出す楽器」
次にカイゼルの方を向く。
「そして君の青い光。精霊と人間の血が混じり合った、二重奏の楽器」
「俺たちが、楽器……」
「そう。君たちは二人で一つの音楽を奏でる運命にある」
ノエルの瞳に、一瞬だけ寂しさが宿った気がした。
「君たちは『世界の調律』から外れた音。だから、君たちだけの新しい音楽を奏でられる」
「それは良いことか?」
「さあね。でも……」
その表情が、急に真剣になった。カイゼルをじっと見つめる。
「古い音楽は、新しい音を不協和音として嫌うんだ」
「どういう意味だ?」
「もうすぐ分かるよ」
不吉な言葉と共に、ノエルの姿が薄れ始める。
「待て!」
「また会おう。君たちの音楽が、どんな結末を迎えるのか、楽しみにしているよ」
カイゼルの言葉を無視し、ノエルは現れた時と同じように消えた。
研究室に重い沈黙が落ちた。
オリバーがメモを見返し、ミラベルが困惑した表情で私たちを見ている。
「世界の調律から外れた存在……」
「師匠、どういうことでしょう?」
「調律。音楽。何かの比喩か? だが、あの者の知識は本物だ。小生の理論に当てはめると……穴が埋まる」
その時、研究室の扉が激しく叩かれた。
「カイゼル・ヴァルトハイム様! 至急のお知らせです!」
オリバーが扉を開けると、王宮からの使者が立っていた。豪華な制服に身を包み、巻物を手にしている。
使者は恭しく一礼すると、巻物を広げた。
「ユリウス・エステリア第一王子殿下より、カイゼル・ヴァルトハイム様への書状にございます」
「ユリウスから?」
カイゼルが巻物を受け取り、読み始める。その表情が、みるみる険しくなっていく。
「どうしたの?」
「……決闘の申し込みだ」
「決闘?」
「王家の名において、俺に決闘を申し込んできた」
使者がかかとを鳴らして敬礼する。
「ひと月後、王立闘技場にて、正式な決闘を執り行います。これは王家の名による申し込みゆえ、拒否は許されません」
「理由は?」
「詳細は存じません。ただ……」
使者が言いよどむ。
「ユリウス殿下は『真実を明らかにする』とおっしゃっておりました」
カイゼルの瞳に、一瞬青い光が宿る。それはすぐに消えたが、その光には覚悟が込められていた。
「分かった。受けて立つ」
「カイゼル!」
「大丈夫だ、リーナ」
カイゼルが私の手を取る。温かい手の感触が、不安を少しだけ和らげてくれる。
「ユリウスは親友だ。きっと、何か理由がある」
「でも……」
「信じてくれ」
使者が深く一礼して、研究室を後にする。
窓の外を見ると、空が夕焼けに染まり始めていた。赤い光が不吉な予感を運んでくる。
ノエルの警告が、現実になった。
――古い音楽は、新しい音を不協和音として嫌う。
王子による決闘の申し込み。それが意味するものは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、私たちの前に、新たな試練が立ちはだかったということだった。