第13話 刻印の提案
ヴァルトハイム公爵邸の廊下は、夜の静寂に包まれていた。壁に掛けられた燭台の炎が、私たちの影を長く伸ばしている。
カイゼルと並んで、マグナスの私室へと向かう。学院でのルシウスの一件は、既に報告済みだった。マグナスは「話がある」とだけ言って、私たちを呼び寄せたのだ。
重厚な扉の前で立ち止まる。カイゼルがノックをすると、中から威厳のある声が響いた。
「入れ」
扉を開けると、暖炉の火が部屋を暖かく照らしていた。マグナスは革張りの椅子に腰を下ろし、杖を両手で支えながら、じっと炎を見つめている。
その横顔には、深い憂慮の色が浮かんでいた。
「座るがよい」
促されて、マグナスの前に用意された椅子に腰を下ろす。カイゼルも隣に座った。
マグナスがゆっくりと顔を上げる。灰色の瞳が、私たちを射抜くように見つめた。
「ルシウス・ダークホルムか。厄介な相手に目をつけられたものじゃな」
「すみません、祖父上。俺の不注意で……」
「お主の責任ではない。奴は最初から、力を誇示する相手を探しておったのじゃろう」
マグナスが深くため息をつく。
「じゃが、問題はそこではない」
「と言うと?」
「お主たちの『たまゆらしない婚約』は、ああいった輩につけ入る隙を与える」
胸がチクリと痛む。確かにその通りだった。私たちは偽りの婚約者。本物のたまゆらカップルではない。
「社交界では、既に噂が広まり始めておる。『本当にたまゆらしたのか』『偽装ではないか』とな」
「……」
「このままでは、お主たちの立場は危うくなる一方じゃ」
その言葉は重く、否定することができなかった。
マグナスが立ち上がって書棚へと歩いていく。そこから古い革装丁の本を一冊取り出し、埃を払った。
表紙には、見慣れない古代文字が刻まれている。不思議と、その文字を見ているだけで背筋が冷えた。
「これを知っておるか?」
「……いえ」
「ふむ。これは『刻印の誓い』じゃ」
その名を聞いた瞬間、カイゼルの表情が変わった。
「祖父上、まさか……」
「聞け、カイゼル。そしてリーナ殿も」
マグナスが本を開く。黄ばんだページに、複雑な魔法陣と呪文が記されていた。
「これは、擬似的なたまゆらを作り出す禁術じゃ。期間は限定的じゃが、本物と見分けがつかぬほど完璧なたまゆらを生み出せる」
「禁術を使うんですか?」
「世界の秩序を乱す危険な術。じゃが……」
マグナスの瞳に、複雑な感情が宿る。
「毒をもって毒を制すことも、時には必要じゃろう」
「でも、代償があるんでしょう?」
「ああ。術者と対象者は、互いの記憶を失う。正確には、最も大切な記憶を一つずつ、永遠に失うのじゃ」
部屋が急に冷えたような気がした。
「それでも、偽りのたまゆらがあれば、お主たちは守られる。ルシウスも、他の者たちも、手出しはできまい」
「つまり……」
「この術を使い、お主たちに偽りのたまゆらを与える。それが儂の提案じゃ」
マグナスが本を差し出す。その重みが、選択の重さを物語っていた。
沈黙が部屋を支配する。パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いていた。
本を見つめながら、私の心が激しく揺れ動く。
――偽りでもいい。普通の繋がりが欲しい。
その誘惑は、想像以上に強かった。たまゆらがあれば、もう無響者と蔑まれることもない。カイゼルとの関係も、世間から認められる。
「私は……」
言いかけた時、カイゼルが立ち上がった。
「冗談じゃない!」
「カイゼル?」
「運命に縛られるのも、偽りの絆に縛られるのも、同じことだ!」
カイゼルの声には、今まで聞いたことのない激しさがあった。
「俺たちは、たまゆらに頼らない関係を築こうとしてるんだ。それなのに、偽物のたまゆらで誤魔化すなんて……」
「でも、このままじゃ……」
「リーナ、お前もそう思うのか?」
金色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「偽りの絆で満足するのか? 俺たちの関係は、そんなに脆いのか?」
「そうじゃない、でも……」
「確かに俺たちは偽りの婚約者だ。でも、この数週間で築いてきたものは本物だろう?」
胸が熱くなる。カイゼルの言葉が、迷いを吹き飛ばしていく。
「お前が俺を信じてくれたことも、俺がお前を守りたいと思ったことも、全部本物だ。たまゆらなんかなくても」
「カイゼル……」
「だから、偽りのたまゆらなんて要らない。俺たちは、俺たちのやり方で本物になる」
少しでも迷った自分が恥ずかしい。よし決めた。立ち上がってカイゼルの隣に並んだ。
「マグナス様、申し訳ありません。でも、私たちはこの提案をお断りします」
「ほう?」
「私たちは、私たちのやり方で本物になります」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「偽りのたまゆらに頼るくらいなら、困難な道を選びます。それが、私たちの選択です」
「たとえ、世間から認められなくても?」
「はい」
「ルシウスのような輩に、狙われ続けても?」
「それでも」
カイゼルと顔を見合わせる。彼も同じ決意を込めて頷いた。
「俺たちは、たまゆらに縛られない新しい形を作ります。それが無謀だとしても」
「逆響者と精霊族の血を引く者。確かに、お主たちなら……」
マグナスが何か言いかけて、止まった。そして次の瞬間、厳しかった表情が一変した。皺だらけの顔に、満足げな笑みが広がる。
「ふぉっふぉっふぉっ! それでこそ儂の孫じゃ!」
「え?」
「そして、ヴァルトハイムの嫁に相応しい!」
マグナスが本を閉じ、書棚に戻す。その動作には、もう迷いがなかった。
「実を言うとな、これは試練じゃったのじゃ」
「試練?」
「お主たちの覚悟を試した。安易な道に逃げるか、それとも困難でも真実の道を選ぶか」
マグナスが振り返る。その瞳には、深い慈愛が宿っていた。
「見事じゃった。お主たちは、儂の期待を超えた」
「祖父上……」
「じゃが、忘れるな。お主たちが選んだ道は、確かに困難じゃ。これからも多くの試練が待っておる」
マグナスが私たちに歩み寄り、それぞれの肩に手を置いた。
「それでも、儂は信じておる。お主たちなら、必ず新しい道を切り開けると」
温かい手の重みが、祝福のように感じられた。
窓の外を見ると、紅月が昇り始めていた。不思議な赤い光が、部屋を照らし始める。
新たな試練の予感と共に、私たちの絆がまた一つ、深まった夜だった。