第10話 獣人族の誇り
朝の訓練を終え、カイゼルと朝食を取っていた時だった。執事のセバスチャンが慌てた様子で食堂に入ってきた。
「カイゼル様、お客様がお見えです」
「客? 約束はないはずだが」
「獣人族の……イザベラ・クリムゾン様と名乗られております」
カイゼルの表情が険しくなる。私は聞き覚えのある名前に首を傾げた。クリムゾン。確かアルテミシアの姓だ。
「族長自ら、か」
「族長?」
「獣人族ベスティアの統治者だ。アルテミシアの母親でもある」
カイゼルは「わざわざ王都まで何の用だ」と言いながらが立ち上がる。
「応接室に通せ」
「かしこまりました」
セバスチャンが退室すると、カイゼルは私を見た。
「一緒に来い」
「私も?」
「お前は俺の婚約者だ。会わせておく必要がある」
応接室への廊下を歩きながら、カイゼルが小声で説明する。
「イザベラは強硬な反人間派だ。俺の血のことも知っている」
「知っているって……」
「昔、母と面識があったらしい。だから俺を『許されざる存在』と見ている」
「そんな……」
応接室の扉の前で、カイゼルは一度深呼吸をした。そして扉を開ける。室内には、二人の獣人族が待っていた。
一人は仲良くなったアルテミシア。赤茶色の髪に狼の耳と尻尾。もう一人は、明らかに彼女の母親だと分かる女性だった。
イザベラ・クリムゾン。赤銅色の髪を複雑に結い上げ、琥珀色の瞳には鋭い光が宿っている。立っているだけで、圧倒的な存在感を放っていた。
「ご無沙汰しております、イザベラ殿」
「カイゼル・ヴァルトハイム。相変わらず、忌まわしい血の匂いがするな」
「母さん!」
「黙っていなさい、アルテミシア」
イザベラの視線が私に向けられる。
「この娘が、噂のリーナ・アスティスか」
「私の婚約者です」
「ふん。人間の、それも無響者と聞いたが」
見下すような口調に、頭に血が上る。でも、ここは我慢だ。カイゼルの立場を悪くしたくない。
重苦しい空気の中、私たちはテーブルを挟んで向かい合った。イザベラとカイゼルが中央に、私とアルテミシアがその横に座る。
「今日は何の用だ」
「妾の娘が、この娘と親しくしていると聞いてな」
「それが?」
「獣人族が人間と馴れ合うなど、許されることではない」
「時代は変わっている」
「変わらぬものもある。血の記憶は」
イザベラの瞳が、一瞬悲しみを帯びる。でもすぐに、冷たい光に戻った。
「カイゼル・ヴァルトハイム。お前の母親のことは覚えている」
「……」
「美しい精霊族だった。だが、人間の男に恋をして、身を滅ぼした」
「母は幸せだった」
「幸せ? 追われ、隠れ、最後は命を落として、それのどこが幸せなんだ?」
カイゼルの拳が震える。私は思わず、その手に自分の手を重ねた。カイゼルが驚いたように私へ顔を向ける。
「過去の話はもういいでしょう」
私は立ち上がってイザベラを真っ直ぐ見つめた。
「イザベラ様。私はカイゼル様の婚約者として、あなたに申し上げます」
「ほう?」
「カイゼル様は、血で人を判断するような方ではありません」
「何も知らない小娘が口を出すな」
「知っています。この方は、出自に関係なく、人を公平に見る方です」
イザベラの目が細められる。
「そして、私もです」
言い切った。アルテミシアが息を呑む音が聞こえる。
「私は無響者です。でも、それが私の全てではありません」
「強がりか?」
「事実です」
私はぐっと顔を近づけた。
「獣人族だから、精霊族だから、人間だから。そんな理由で人を判断するのは、愚かなことです」
「愚か、だと?」
イザベラの声に、怒気が混じる。
「はい。血筋や種族で全てが決まるなら、この世界に希望なんてありません」
一触即発の空気が流れる。イザベラの魔力が高まり、部屋の温度が下がったような気がした。
でも、私は引かない。ここで引いたら、カイゼルを守れない。
「リーナ! あんた、母さんになんて事を……」
驚きと怒りの混じった表情でアルテミシアが立ち上がった。
「本当のことを言っただけよ、アルテミシア」
私は友人を見つめる。
「あなたは私の大切な友達。それは、あなたが獣人族だからじゃない。あなたがあなただから」
アルテミシアの目が揺れる。
「リーナ……」
「それと同じ。カイゼルが精霊族の血を引いていても、私にとっては関係ない」
イザベラが立ち上がる。その威圧感に、息が詰まりそうになる。でも、負けない。
「小娘。お前に何が分かる」
「分かります」
「何が」
「愛する人を、血筋のせいで失う苦しみが」
イザベラの動きが止まった。
私は続ける。
「あなたも、経験があるんでしょう? 愛した人と、引き裂かれた経験が」
室内が凍りついたように静まり返る。
イザベラの顔が、怒りから驚きへ、そして……悲しみへと変わっていく。
「……何故、それを」
「分かるんです。あなたの目を見れば」
本当は、カイゼルから少し聞いていた。でも、それ以上に、イザベラの瞳に宿る深い悲しみが、全てを物語っていた。
「だから、繰り返さないでください」
「……」
「カイゼルから、大切な人を奪わないでください」
長い沈黙が流れる。
やがて、イザベラが口を開いた。
「……面白い娘だ」
「え?」
「無響者の小娘が、妾に説教とはな」
でも、その声に怒りはなかった。むしろ、どこか懐かしむような響きがある。
「昔、妾にも同じようなことを言った人間がいた」
「それは……」
「もういい」
イザベラは踵を返す。
「アルテミシア、行くぞ」
「え? もう?」
「用は済んだ」
アルテミシアが慌てて立ち上がる。イザベラは扉の前で立ち止まり、振り返った。
「リーナ・アスティス」
「はい」
「その瞳の光が偽りでないことを、見届けさせてもらう」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ」
イザベラは薄く笑みを浮かべた。それはとても柔らかく感じた。
「カイゼル・ヴァルトハイム」
「何だ」
「いい女を見つけたな」
「……ああ」
カイゼルの返事に、私の頬が熱くなった。
*
イザベラとアルテミシアが退室した後、応接室には私とカイゼルだけが残された。
どちらも口を開かない。さっきの緊張が解けて、急に疲れが押し寄せてきた。
「……よくやった」
「え?」
「イザベラに、あそこまで言い返せる人間は少ない」
「つい、カッとなって……」
カイゼルが立ち上がり、窓際へ歩く。
「俺のために、怒ってくれたんだな」
「それは……」
否定できない。イザベラがカイゼルの血を「忌まわしい」と言った時、本当に腹が立った。
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃ……」
「いや、礼を言わせてくれ」
カイゼルが振り返る。その表情は、いつもより柔らかい。
「俺の血のことで、面と向かって擁護してくれたのは、お前が初めてだ」
「カイゼル……」
「母さんでさえ、俺を守るために、この血を封印しようとした」
カイゼルの肩の封印を思い出す。愛ゆえの行為。でもそれは、カイゼル自身を否定することでもあった。
「でも、私は封印なんて必要ないと思います」
「リーナ?」
「だって、それもカイゼルの一部でしょう?」
私は立ち上がり、カイゼルに近づく。
「精霊族の血も、人間の血も、全部がカイゼルを作っている。それを否定したら、カイゼル自身を否定することになる」
「……」
「私は、全部受け入れます。カイゼルの全てを」
とんでもないことを言った気がして顔が熱くなる。
「あ、いや、その……契約として、という意味で……」
「分かってる」
カイゼルが「ふふっ」と笑う。本当に心から笑っているように見えた。
「嬉しいな」
「カイゼル……」
窓の外から、風が吹き込んでくる。カーテンが揺れ、光と影が交わる。
「リーナ」
「はい?」
「彼女は『見届ける』と言っただろう? あれは本気だ」
「え?」
カイゼルの言葉に、少し不安になる。
「大丈夫ですかね……」
「大丈夫だ。今日、お前は合格した」
「合格?」
「イザベラの試験に」
そういうことだったのか。イザベラは、私を試しに来たのだ。カイゼルの婚約者として相応しいかどうかを。
「でも、これで終わりじゃない」
「まだ何か?」
「アルテミシアとの友情も、試されるだろう」
「アルテミシアと?」
カイゼルが頷く。
「獣人族と人間の友情。それを本物だと証明する必要がある」
「……望むところです」
私は決意を新たにする。
アルテミシアは大切な友達。それは変わらない。たとえ種族が違っても、たとえ世界が反対しても。
「強くなったな」
「え?」
「前のお前なら、怯えていただろう」
「……そうですね」
確かに、昔の私なら、イザベラの威圧感に押し潰されていた。でも今は違う。
守りたいものがある。守りたい人がいる。
それが、私を強くしてくれる。
「さあ、訓練の続きをしよう」
「まだやるんですか?」
「当然だ。今日の分が終わってない」
応接室を出ていくカイゼルに私も後に続く。
廊下を歩きながら、ふと思う。
イザベラが最後に見せた、あの柔らかい笑み。もしかしたら、彼女も心の奥では、種族を超えた絆を信じたいのかもしれない。
ただ、過去の傷が深すぎて、簡単には信じられないだけで。
――いつか、分かり合える日が来るといいな。
そんなことを考えながら、訓練場へと向かった。