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第1話 響かない魂

 大神殿の聖堂に、午後の陽光が降り注いでいた。ステンドグラスを通った七色の光が、白い大理石の床に複雑な模様を描いている。双月祭の最終日――今日は、王国中の十八歳が集う、運命の日だった。


 私は祭壇前の長い列の中央付近に立っていた。左手首に巻いた黒い革の手袋の下で、生まれつきの痣がじくじくと疼いている。周囲の同い年の令嬢たちは、期待と不安に頬を染めていた。誰もが今日、自分のたまゆら(ソウル・レゾナンス)の相手を見つけることを夢見ている。


 私だけが違う。胸の奥で、何か冷たいものが渦巻いていた。


「次、アスティス家の、リーナ・アスティス」


 大神官の声が響く。私は深く息を吸い込み、列から進み出た。貴族席を見上げると、父ヴィクトールがこわばった表情で私を見つめている。その隣の王族席では、エメラルドグリーンの瞳をしたセレスティア王女が、すでに嘲笑を浮かべていた。


 祭壇の前に立つ。目の前には、人の頭ほどもある巨大な響晶石(きょうしょうせき)が安置されている。魔法の触媒やたまゆらの探索に使われる鉱石で、これほどの大きさはあまり見ない。透明な水晶の内部に、虹色の光が揺らめいていた。


 大神官が厳かに告げる。


「手を」


 私は震える右手を、響晶石の上にかざした。


 一秒、二秒、三秒……。


 何も起こらない。


 響晶石は沈黙したまま、何の光も放たなかった。会場がざわめき始める。私の頬が熱くなる。左手首の痣が、熱い鉄を押し当てられたように燃え上がった。


 大神官の顔が青ざめていく。彼は何度か口を開きかけ、そしてついに宣告した。


無響者(アノモス)


 その瞬間、会場の空気が凍りついた。



 無響者――魂が響かない者。この国で、それは死刑宣告にも等しい言葉だった。


 私は祭壇の前に立ち尽くしていた。頭の中が真っ白になり、周囲の音が遠のいていく。


「まさか、アスティス家の令嬢が無響者だなんて」

「これで婚約は破棄ね」

「当然でしょう、誰が無響者なんかと」


 貴族席から聞こえてくる囁き声が、針となって私の心を突き刺す。


 私の婚約者、ダリウスが立ち上がった。ローレンツ伯爵家の嫡男。整った顔立ちの、誰もが羨む好青年。三年前に父同士が決めた政略結婚の相手だ。


「リーナ・アスティス」


 彼の声は冷たく、汚物でも見るような目で私を見下ろしている。


「私はここに宣言する。貴女との婚約を、この場で破棄する」


 会場がどよめいた。公の場での一方的な婚約破棄――それは、相手の家に対する最大級の侮辱だった。


「無響者と結ばれるなど、ローレンツ家の恥だ。そもそも、魂を持たない欠陥品と婚約していたことすら、私の人生の汚点だ」


 私の膝が震えた。涙が込み上げてくるのを必死でこらえる。泣いたら、負けだ。


 すると、王族席からセレスティア王女が立ち上がった。彼女の美しい顔に浮かぶのは、勝ち誇った笑みだった。


「あら、可哀想なリーナ。でも仕方ありませんわね」


 セレスティアがゆっくりと私に近づいてくる。エメラルドグリーンの瞳が、残酷な光を宿していた。


無響者(アノモス)は、人として不完全な存在。魂が欠けているのですもの。そんな貴女が、まともな人間のふりをして生きてきたこと自体が間違いでしたのよ」


 彼女は私のすぐ前で立ち止まり、その白い指で私を指差した。


「貴女のような穢れた存在が、この神聖な場にいること自体が冒涜ですわ。さあ、とっとと消えなさい。二度と、まともな人間の前に姿を現さないで」


 会場から、くすくすと笑い声が漏れる。私を憐れむ視線、蔑む視線、好奇の視線。すべてが私を押しつぶそうとしていた。


 左手首の痣が、激しく脈打つ。何か別の存在が、私の中で目覚めようとしているかのようだった。


 ――なぜ、私だけが。

 ――なぜ、私には魂が響かないの。


 怒りが、悲しみが、屈辱が、私の中で渦を巻く。それは次第に大きくなり、もう抑えきれないほどに膨れ上がっていく。


 私は震える声で、やっと言葉を絞り出した。


「私は……私だって……」


 その瞬間だった。


 私の中で、何かが弾けた。



「あああああああっ!」


 あたしの叫びが、大聖堂に響き渡った。


 同時に、左手首から熱い何かが溢れ出す。それは目に見えない衝撃波となって、会場全体に広がっていった。


 次の瞬間、異変が起きた。


 会場にいたたまゆらカップルたちが、次々と苦痛の声を上げ始めたのだ。互いの手を取り合っていた恋人たちが、火傷でもしたかのように手を離す。魂脈(ソウル・ヴェイン)で繋がっているはずの夫婦が、お互いから距離を取ろうともがき始める。


「な、何が起きている!?」

「魂脈が……乱れて……」

「痛い、痛い!」


 悲鳴と混乱が会場を包む。あたしは自分が何をしているのか分からないまま、ただ感情を爆発させ続けていた。憎い、悔しい、悲しい――すべての感情が、見えない力となって周囲を破壊していく。


 響晶石が不規則に明滅し始めた。安定しているはずの虹色の光が、激しく乱れ、ひび割れていく。


 セレスティアが顔を歪めて後ずさった。


「な、何をしているの!? やめなさい、この化け物!」


 でも、もう止められない。あたしの中の何かが、完全に制御を失っていた。


 大神官が杖を掲げ、呪文を唱え始める。でも、彼の魔法も、あたしから溢れ出す力の前では無力だった。


 会場がパニックに陥る。人々が出口に向かって走り始め、悲鳴が響き、祭壇の装飾品が次々と倒れていく。


 あたしは、その混沌の中心に立っていた。


 ――誰か、止めて。


 心の奥で、そう叫んでいた。でも、身体が言うことを聞かない。力が、止まらない。


 視界が歪み始めた。意識が遠のいていく。このまま、すべてを壊してしまうのか――。


 その時だった。


「少し、黙ってろ」


 低く、冷たい声が耳元で響いた。


 誰かが、背後からあたしを支えている。強い腕が、崩れ落ちそうなあたしの身体を抱き留めていた。


 漆黒の髪が視界の端に映る。金色の瞳が、あたしを見下ろしていた。


 カイゼル・ヴァルトハイム公爵。


 ヴァルトハイム家の若き公爵。あたしと同じく、無響者(アノモス)として知られている青年だった。


 彼が何かをした。何をしたのかは分からない。ただ、彼の冷たい声と同時に、会場の混乱が嘘のように静まっていく。


 あたしから溢れ出していた力も、彼の腕の中で急速に収束していった。左手首の痣が、ゆっくりと熱を失っていく。


 彼の金色の瞳。その瞳の奥に、一瞬だけ、蒼い光が宿ったような気がした。


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