04:日記が示す追われる理由と暗号
日記の頁を捲る指が、微かに震える。そこに記された私自身の過去は、平穏な古書店主としての今の自分からは、到底想像もつかないものだった。几帳面なインクの文字は、私が記憶管理局から「危険因子」として追われる身であることを、淡々と、しかし克明に告げていた。具体的な理由は判然としない。だが、キーワードはやはり「禁断の記憶本」だった。私は、何らかの形でその存在に関わり、管理局にとって不都合な真実を知ってしまったらしい。
「(禁断の記憶本……一体、どんな記憶が……? そして、なぜ管理局はそれを隠そうとする?)」
疑問が頭をもたげる。失われた記憶の断片が、ジグソーパズルのピースのように散らばっているが、全体像は見えてこない。私は、日記の中に更なる手がかりがないか、焦燥感を覚えながら頁を繰った。
そして、ある頁の中程で、私の目は奇妙な文字列に釘付けになった。それは、通常の文章の流れとは明らかに異質で、特定の法則に基づいて並べられたかのような、不可解な記号の羅列――暗号だった。直感が告げる。これは、単なるメモではない。おそらくは、あの「禁断の記憶本」の在り処を示すものだろう。
「……これか」
私は息を呑み、その暗号を指でなぞった。解読しなければならない。失われた記憶を取り戻し、そして、この街に迫るという「記憶の共鳴」の正体を知るためにも。
書斎の奥、埃を被った書棚から、私は数冊の資料を引き出した。スクリプトリウムの詳細な地下構造を示す古地図、そして、管理局が発行している(とはいえ、その情報は極めて限定的だが)記憶本の分類目録。日記の記述とこれらの資料を照らし合わせれば、あるいは解読の糸口が見つかるかもしれない。
窓の外は、相変わらず変化のない薄明かりが漂っている。だが、私の内には、これまで感じたことのない焦りと、そして微かな興奮が渦巻き始めていた。失われた過去への扉が、今、目の前で軋みを立てて開こうとしているのだ。
一方、スクリプトリウムの中枢、記憶管理局の厳格なオフィスの一室。冷たい金属とガラスで構成された空間に、一人の記憶守護者が立っていた。彼は、デスクに置かれた端末に表示される情報――古書店「忘却書房」の店主に関するデータ――を、感情の窺えない瞳で見つめている。
「対象『コードネーム:リーダー』、依然として潜伏中。しかし、昨夜、未確認の接触者ありとの報告。対象の持つ『記憶透視』能力は、放置すれば我々の計画に重大な支障をきたす可能性がある」
報告を受けていたのは、記憶管理局の中でも特に冷徹さと有能さで知られる幹部、セバスチャンだった。彼は指先でデスクを軽く叩きながら、思考を巡らせる。
「未確認の接触者……まさか、『彼女』が動いたとでもいうのか? いや、考えすぎか……。いずれにせよ、リーダーは危険因子だ。速やかに確保、あるいは……『処理』する必要がある。追跡部隊に、監視レベルの引き上げと、必要であれば実力行使も許可すると伝えろ」
セバスチャンの声には、一片の躊躇もなかった。彼の瞳の奥には、スクリプトリウムの「秩序」を守るという、歪んだ使命感だけが宿っているようだった。古書店主の知らないところで、彼を巡る包囲網は、確実に狭まろうとしていた。
***
その頃、「忘却書房」の書斎では、私はインクの染みと格闘していた。古地図に記された地下水路の経路、記憶本目録に記載された分類コード、そして日記に隠された暗号。それらを複雑に組み合わせ、照合していく作業は、予想以上に難航した。それは、まるで製作者の悪意すら感じるような、入り組んだ知恵の輪のようだった。
蝋燭の灯りが揺らめき、壁に私の影を長く踊らせる。焦りと疲労が蓄積していく中、私は諦めずに思考を巡らせ続けた。なぜ、これほどまでに厳重に隠す必要があるのか。禁断の記憶本には、管理局がそれほどまでに恐れる何が記されているというのか。
そして、何時間経過しただろうか。不意に、バラバラだったピースが、音を立てて組み合わさる感覚があった。特定の水路の名称、古代の分類コード、そして日記に繰り返し現れる数字のパターン。それらが一つの地点を示し始めたのだ。
「……ここだ。スクリプトリウムの下層階層……『忘れられた記憶の回廊』……間違いない」
呟きは、確信に変わっていた。下層階層――そこは都市の最下層であり、価値を失った記憶本が廃棄され、記憶汚染に蝕まれた者たちが徘徊すると噂される、最も危険な区域。だが、行くしかない。失われた記憶と、この街の真実を知るために。私は震える手で地図を畳み、立ち上がった。覚悟は、決まった。