03:束の間の邂逅、残された謎
「選ばれた……」 その言葉の響きは、私の空虚な胸の内を虚しく叩いた。何に選ばれたというのか。記憶を失い、ただ古書店の埃の中で日々を過ごすだけの私が?
黒いローブの人物は、それ以上語ることはなかった。役目を終えたかのように静かに踵を返し、書斎の出口、そして店の扉へと向かう。その動きには一切の無駄がなく、まるで影が壁を滑るかのようだ。
「待ってください!」
私は反射的に呼び止めていた。あまりにも多くの謎を残したまま、この人物を去らせるわけにはいかない。
「せめて、あなたの名前だけでも教えてほしい……!」
扉に手をかけたところで、黒いローブの人物は動きを止めた。ゆっくりと、しかし僅かに振り返る。フードの奥、深い影の中に、先ほどと同じ、悲しみを湛えたような双眸が微かに光った気がした。
「……私の名は……とうに失われた。ただ……かつては、この街で……記憶守護者と呼ばれていた……それだけだ」
記憶守護者――スクリプター。それは、記憶管理局の中枢に属し、都市の秩序と記憶の整合性を守護するエリートたち。強力な記憶術や戦闘技術を修めた彼らが、なぜ、管理局に追われる身であるはずの私に接触し、こんなものを託すのか。理解が追いつかない。疑問は雪だるま式に膨れ上がるばかりだ。
「守護者が、なぜ……?」
私の問いは、再び掠れた声にかき消された。
「……もう、時間がない。……遠からず、記憶の……激しい共鳴が……始まるだろう……」
共鳴? それは何を意味する? 問い返す間もなく、黒いローブの人物は今度こそ躊躇なく扉を開け、スクリプトリウムの薄闇の中へとその姿を溶け込ませていった。残されたのは、扉の閉まる重い音と、私の手の中にある、不気味なほどに冷たい黒革の記憶本だけだった。
しばし呆然と立ち尽くした後、私は意を決して、その記憶本に向き直った。表紙にはやはり何も記されていない。だが、頁を繰る指先に、微かな抵抗と温もりのようなものが感じられた。そして、そこに現れたのは――。
インクで綴られた、流れるような筆跡。それは紛れもなく、鏡に映る自分を見るように見慣れた、私自身の文字だった。
「(……これは、俺の日記……なのか?)」
震える指で頁をさらに捲る。そこには、断片的にしか思い出せない、あるいは完全に忘却の彼方にあったはずの、過去の日々が詳細に記されていた。他愛のない日常、友人たちとの語らい、そして……あの忌まわしき「記憶透視」の力が、初めてその兆候を見せた日の記述まで。
しかし、ある時点を境に、日記の雰囲気は一変していた。穏やかな日常の記録は影を潜め、代わりに「記憶汚染」「禁断の記憶本」、そしてスクリプトリウムという都市が隠蔽してきた、暗い秘密に関する記述が現れ始める。
「(記憶汚染……禁断の記憶本……? いったい、俺の身に何が起こっていたんだ……?)」
言いようのない不安と、失われた過去への強い好奇心に突き動かされ、私は憑かれたように日記の頁を読み進めていった。自分が、想像以上に重大な事件の渦中にいたこと。そして、その事件が、このスクリプトリウムの未来そのものを、根底から揺るがしかねないものであることを、まだ知らずに――。