02:託された記憶と己の筆跡
脳裏に焼き付いた鮮烈な残像――炎と悲鳴、そして血の臭い――が、現実の薄暗い書斎の光景と混じり合い、視界を歪ませる。私は壁に手をつき、荒い息を整えながら、目の前の謎めいた人物を睨みつけた。あの本に触れただけでこれほどの衝撃を受けるとは。あれは単なる記憶本ではない。何か、禁忌に触れるような力が込められている。
「……あなたは何者だ? この本は一体……どこでこれを手に入れた?」
声が僅かに震えるのを抑えられなかった。混乱と、得体の知れないものへの警戒心がない交ぜになった問い。この人物は、私の失われた過去を知っているのか?あるいは、この本こそが、私を蝕む悪夢の根源なのだろうか?
しかし、黒いローブの人物は、私の切迫した問いかけにも動じることなく、ただ静かに首を横に振るのみだった。フードの影が深く、その表情を窺い知ることはできない。沈黙が、まるで質量を持ったかのように書斎の空気を圧迫する。
「……言葉で語ることは許されていない。ただ、この記憶を……あなたに託さねばならない」
掠れた声が、重々しく響く。託す? それはどういう意味だ。単に譲渡するという響きではない。もっと重い、運命的な響きを伴っていた。
そう言うと、黒いローブの人物は、再びあの黒革の記憶本を私の目の前に差し出した。本から放たれる冷気は、先ほどよりも強く感じられる。まるで、それが持つ記憶の重さに耐えかねているかのようだ。
「託す、とは……どういう意味だ?」
思わず問い返す。この本を受け取ることが、何を意味するのか。直感が、安易に受け取るべきではないと警告を発していた。
「この記憶本は……あなたの失われた記憶の、最も重要な断章。……そして、このスクリプトリウムの行く末をも左右する、鍵となるものだ」
スクリプトリウムの未来を左右する鍵。大仰な言葉だ。だが、この人物の纏う異様な雰囲気と、先ほどの鮮烈な記憶の奔流を体験した後では、単なる戯言とは思えなかった。混乱は深まるばかりだが、同時に、心の奥底で何かが疼くのを感じる。失われた記憶への渇望か、それとも、この街に関わるという漠然とした使命感か。私は、無意識のうちに、差し出された本を見つめていた。
「……なぜ、それを私に?」
絞り出すような声で尋ねた。なぜ、名も知らぬ古書店の店主である私が、これほどのものを託されねばならないのか。
黒いローブの人物は、僅かに身じろぎした。そして、まるで古の神託を告げるかのように、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。
「……あなたは、選ばれたのだから」