01:記憶の淵に沈む都市
石畳を濡らすのは雨ではない。ただ、磨かれた黒曜石のように鈍く光を反射する路面に、古びた瓦斯灯の頼りない灯影が揺らめいている。ここは記憶図書館都市「スクリプトリウム」。忘れ去られた夢と、決して忘れ得ぬ後悔が「記憶本」という形を取り、巨大なドームの天蓋の下に堆積する場所。世界から切り離された、沈黙と囁きの都。
頭上を覆うドームは、恒常的に鉛色の薄明かりを街路に落とし、昼と夜の境界を溶かして久しい。その所為か、都市全体が覚めない微睡みの中にいるような、あるいは水底を歩むような、奇妙な現実感の希薄さに満ちている。ゴシック様式を模した建物のファサードには、書物を象ったレリーフが執拗に繰り返され、壁面を蛇行する古びた配管からは、時折、甘くも饐えたような記憶インクの芳香が漏れ出す。それは過ぎ去った日々の残り香か、それとも未来の腐臭か。
街の中心には、天を衝かんばかりに尖塔が聳え立つ。あれが都市の心臓、「記憶の泉」。尽きることなく湧き出る原初のインクは、秘匿された工房で幾重もの工程を経て精製され、選ばれた記憶術師の手によって、誰かの人生そのものである記憶本へと姿を変えるのだ。
「……また、夜が来るのか、昼が終わるのか」
埃の匂いが染みついた書斎の奥、革張りの椅子に深く身を沈めたまま、私は独りごちた。窓の外の光景は、一日のうちでほとんど変化を見せない。古書店「忘却書房」――皮肉を込めた屋号だが、事実、ここには忘れられるべきだった記憶、忘れられてはならなかった記憶が、静かに眠りについている。私はこの店の主であり、そして、望むと望まざるとに関わらず、「記憶透視者」という特殊な力をその身に宿していた。
いつからだったか、思い出せない。気がつけば、私はこの都市の片隅で古書店を営み、そして、理由の定かではない喪失感を抱えて生きていた。過去の記憶の一部が、まるで乱暴に引きちぎられたかのように欠落している。その空白が、不意に冷たい風となって胸の奥を吹き抜け、言いようのない不安を掻き立てる。失われたものは何なのか。それを取り戻すことは、果たして祝福なのか、それとも――。
記憶透視。それは、記憶本という物質に込められた思念の残滓に触れるだけで、持ち主の五感や感情の奔流を、断片的な映像として追体験する力。人の喜びや悲しみに触れることは、時に温もりを与えてくれる。だが、それは同時に、他者の心の最暗部を覗き見る行為でもある。嫉妬、憎悪、狂気、絶望――精製されていない生の感情が濁流となって流れ込み、私の精神を容赦なく侵食していく。この力は祝福などではなく、むしろ枷であり、呪詛に近いものだった。
特に、ここ最近は眠りが浅い。微睡みと覚醒の狭間で見る夢は、常に他者の記憶の断片に彩られている。見知らぬ風景、聞き覚えのない声、そして…皮膚を灼くような激しい痛み。それは単なる悪夢ではない。あたかも私自身の記憶が、得体の知れない何者かに上書きされ、侵食されていくかのような、生理的な嫌悪感を伴う感覚だった。
失われた過去の空白と、悪夢に見る他者の記憶。二つの影が、私の内で不協和音を奏でている。
(…俺は、何を忘れた? そして、この悪夢は何を告げようとしている…?)
答えの出ない問いが、思考の淵で渦を巻く。
その時、古びた真鍮の鈴が、乾いた音色を響かせた。店の扉が開いた合図だ。このような、昼とも夜ともつかぬ時間に客とは、極めて稀なことだった。立ち昇る埃を払い、私は軋む椅子からゆっくりと腰を上げた。そして、重厚な樫の扉へと向かい、それを押し開いた。
「いらっしゃい……」
扉を開けた先に立っていたのは、影そのものが形を取ったかのような人影だった。深く被った黒いローブが、その顔貌はおろか、性別や年齢さえも覆い隠している。ただ、フードの僅かな隙間から覗く数条の銀髪が、街灯の希薄な光を受けて、白銀の糸のように微かに輝いていた。異様なまでの静謐さと、張り詰めた気配を纏っている。尋常の客ではないことは明らかだった。
「……記憶本を、探しに来た」
低く、掠れた声が静寂を破った。それはまるで、長年使われなかった楽器が初めて音を発したかのような、どこか不自然な響きを帯びていた。その声色からは、やはり性別を判別することは難しい。だが、言葉の端々に、切実とも言えるほどの強い意志が滲んでいた。
「どのような記憶を、お求めで?」
警戒心を露わにしながら、私は問い返した。スクリプトリウムにおいて、特に未登録の記憶本の取引は、記憶管理局によって厳しく禁じられている。迂闊に危険な記憶に関われば、この店も、私自身も、ただでは済まない。
「……失われた、記憶だ」
黒いローブの人物は、そう囁くと、ローブの内側から一冊の古びた本を取り出した。何の装飾もない、ただ黒い革で装丁されただけの、無地の本。しかし、それが姿を現した瞬間、書斎の空気が質量を伴って重くなったかのように感じられた。本そのものが、異様なほどの冷気を放っている。それは物理的な冷たさではなく、魂に直接触れるような、根源的な寒気だった。
「これは……?」
抗いがたい引力に導かれるように、私はその本へと手を伸ばした。指先が古びた革の表紙に触れた、その刹那――。
全身の肌が粟立ち、視界が白く染まる。否、それは光ではない。脳髄の奥底で、何かが強制的に点火されたかのような、暴力的な感覚の奔流だった。燃え盛る炎。耳を劈く絶叫。そして、鼻腔を刺す、生々しい血の匂い……!
(……違う、これは俺の記憶では――いや、まさか、これも俺の、失われた記憶の一部だというのか!?)
激しい眩暈と吐き気に襲われ、私はよろめいた。混乱の極みにある私を、黒いローブの人物は、フードの奥から静かに見据えていた。その双眸は、まるで深淵そのものが覗き込んでいるかのように、どこまでも暗く、そして…なぜか、深い悲しみの色を湛えているように見えた。