第三話
ギャザバーン軍の中央――
総大将ガイヤールは、静かに戦況を見つめていた。
「左翼はどうしました?」
その声は柔らかく、穏やかだった。
しかし、その場の空気は一瞬で凍りつく。
「左翼は……総崩れです。ドン様は……」
報告に来た兵が、かすれた声で首を横に振った。
それだけで十分だった。
「……ふふふ。困りましたねぇ」
ガイヤールは細い目で戦場を掃いた。
そして見つける。――巨大な斧を肩に担ぎ、悠然と歩いてくる影。
「ほほう……ついにご登場ですか。龍神鬼さん」
ガイヤールはふわりと手を挙げ、最前列の兵を一人呼び出す。
「そこのあなた、名前は?」
「ミュ、ミュートです!」
「ミュートさん……いい名前ですねぇ。では、ちょっとしたお仕事を」
ガイヤールはまるで昼下がりの散歩に誘うような口調で言った。
「前方の大男の方へ……十三歩、進んでください」
「え、じゅ、十三歩……?」
「ええ。ちょうど目印になります。その場で手を挙げて、こちらに合図を。動かないでくださいね?」
ミュートは顔面蒼白のまま、一歩、また一歩と足を運ぶ。
十三歩目で止まり、震える手を挙げた。
「そのまま動かないでください。動くと……どうなるか、わかりますよね?」
ミュートは泣きそうな顔で必死に頷く。
「さぁ、皆さん、道を開けましょう。龍神鬼さんのお通りです」
ガイヤールが両手を広げると、兵たちは左右に散り、中央にはミュートだけがぽつんと残った。
――そして。
龍神鬼はゆっくりと進んでくる。
左右に割れた敵兵の列、その中心に、突っ立った一人の兵士。
彼は足を止めると、首をかしげた。
その目は、ミュートではなく、その先のガイヤールを見ていた。
次の瞬間。
「邪魔だ」
低くつぶやくと、平手でミュートを叩き伏せる。
ミュートはつんのめるように倒れ、足元に転がり、気絶した。
龍神鬼は彼の鎧の胸当てを片手でつかみ、まるで布団でも扱うかのように持ち上げ、ミュートごと尻の下に敷いて、どっかりと腰を下ろした。
鉄甲が軋む音が、妙に生々しく響いた。
やがて、龍神鬼は正面のガイヤールを見据え、薄く笑って言った。
「ここが……おまえの距離か」
それは、戦場に慣れた者ならすぐにわかる。
勝者の声だった。
ガイヤールの細い目がさらに細くなり、口元には狂気を帯びた笑み。
「ふふふ……やはり、ただ者ではありませんねぇ、龍神鬼さん。しかし、近づくことが出来なければ、無力ってことですよね――」
彼は余裕の笑みを返すが、目は決して笑っていない。
「悲しいですね、龍神鬼さん。そこから、一歩でも近づいたら、私は全力で、最大火力の攻撃魔法をお見舞いしますよ」
ガイヤールの言葉を、龍神鬼は黙って聞いている。
「あなたの魔法防御バフは切れていますよね。クリティカルなら即死です。たとえ生き残っても、スタンと鈍足が付与されますので、あなたが到達する前に、私はもう一発、詠唱できます。それくらいのMPは、わたしにも十分にありますので……」
「あっははは……」
龍神鬼が突然、大声で笑い出した。兵たちが困惑し、首を傾げる。
「おれは話が長いと覚えてらんねぇんだ。もういいか」
そして、ゆっくりと立ち上がると、無防備なまま歩き出した
「非常に……残念ですよ。龍神鬼さん」
それをみて、ガイヤールは詠唱を始めた。最上位魔法。詠唱はやや長い。
右手に杖、左手の指先は龍神鬼を捉える。
兵たちが固唾を呑んで見守る中――
――ガッッツーン!
轟音。地面が揺れた。
誰もが何が起きたのか理解できなかった。
だが、はっきりしていたのは――
ミュートの立っていた場所から数歩先に、無傷の龍神鬼が立っていたこと。
そして遥か後方に、ガイヤールが吹き飛ばされていたこと。
その額は真っ二つ。
鮮血が、地面に咲く紅蓮の花となる。
――誰も詠唱の結末を聞くことはなかった。
ギャザバーンの二枚看板――
総大将ガイヤール。秒殺。
城内の盟主ジル・ド・レオは、報せを受けた瞬間、沈黙した。
そして、わずか十秒後に白旗を命じた。
――龍神鬼とやり合える将は、もうここにはいない。
こうして――
ブリザック城の戦いは、わずか二時間で幕を下ろした。
次なる戦場は、グルーディオ城。
そこには、弱いくせに破天荒な男がいる。
自由を掲げ、鎖に縛られることを拒むクラン――
《ネオフリーダム》の盟主、レイジ・アギャルド。