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忍の傘

作者: 門松


   一  


 分厚い雲がどんよりと夜五ツ(二十時頃)の空のほとんどを覆い、あるはずの星も三日月も見えない。すでに人気のない横町の暗闇を足取り重く歩く男がひとり。名は義助、歳は二十二。目の下に大きな隈が浮かび、顔色は今にも倒れてしまいそうなほど悪い。義助は、謀反の疑いのある御家人の素行調査を今し方終え、四谷よつやの住まいへと戻っているところだ。当初の予定より三日も早く素行調査を済ませることができたのだが全く晴れた気分にはならなかった。

 ――――予定が空いたとして傘張りの仕事が待っているだけだ。

 部屋のすみに積まれた修理を待つぼろの古傘が頭にチラつく。もう傘は見るのも御免だ。心底嫌気が差し苦々しげに眉間に皺を寄せた。

 四年前、十八のときに義助は忍の里から江戸へ出稼ぎに来た。飢饉で困窮する里を支えるためだった。しかし、戦のない泰平の世、江戸の忍の仕事も多くはなかった。義助と同じ時に出稼ぎに来た忍は他に十数人いたが、半年も経たずに大半が副業として傘作りを始めることになった。義助が割り当てられたのは傘張り。気づけば傘張りが本業のようになり、本業の忍の仕事は月に一回あるかないかになった。幸い義助は忍の仕事にそれほど思入れがなかったので傘職人の仕事ばかりになってもすんなり受け入れられた。紺の半纏、黒の腹掛け、又引き、といった職人然とした身なりも生活もすっかり気に入った。が、年々増えていく仕事に義助の心と体はじわじわと疲弊させられていった。それは他の出稼ぎの忍も同様だった。

『里のためだ。里は今も飢饉に苦しんでいる。寝る間も食う間も惜しむな』

 出稼ぎの忍の仕事や住まいなど諸々を管理している大家がしばしば声高にこう言った。義助は、大家がそう言うとき口元が笑っているように見えた。

 ――――いつまでも飢饉は終わらず俺たちはそのうち里のために死ぬだろう。

 そんな考えが浮かんだとき義助の目の前をぽつりと雨の滴が落ちていった。

「降りだしたか」

 雨が強くなる前に帰り着ければいいが。義助は身体に鞭打ち小走りで進みだした。しばらくすると「にゃあ」と苦しそうに鳴く声が聞こえた。ふと立ち止まって耳を澄ますとまた「にゃあ」と苦しそうに鳴く声が聞こえた。見上げると小間物問屋の屋根の上に、小さな黒い猫が闇に紛れて不安げに義助を見下ろしていた。好奇心で高いところに上って下りれなくなって困っているんだろう。あのまま雨に降られれば風邪を引いてしまうだろう。ぽつぽつと雨が頭と肩に落ちている。義助は可哀想に思い、黒猫を助けることにした。少しふらつくのを感じはしたが、木箱を足場にして、軒先から顔を出している黒猫の胴を両手を伸ばして掴んだ。よくよく見てみると首に輪っかがついている。義助は木箱を飛び降り、屈んだまま「道草しないで飼い主のところに帰るんだぞ」と黒猫を掴む手を離した。それから立ち上がろうとした瞬間、不意に体が大きく傾き、地面に座り込んだ。べったりとへばりついた疲労に立ち上がる気は起こらなかった。

 ――――そのうちが来たのかもしれない。 

 そんな考えが胸を占めた。地面に仰向けになって瞼を閉じると同時に意識が遠のいていく。雨の降る夜の通りには誰もいない。十月の終わりの冷たい雨を義助は一身に受けた――――が、

「大丈夫ですか」

 間もなく助けの手が差し伸べられた。何度も呼び掛けられて義助は意識をかろうじて取り戻した。もう一度呼び掛けられて義助は目を薄く開いた。ぼんやりと見えたのは、灯りのともった提灯、心配そうに義助の顔をのぞき込む二十そこそこの活発そうな女の顔。そしてその後ろにある白い輪。それは女が差している褪せた赤色の蛇の目傘の模様だった。見覚えのあるその傘の模様――――白い輪に義助は見入る。輪が、ひどくガタついている。過去の記憶が引っ張りだされそうになったとき、再び義助は意識を失った。ぽつぽつぽつと傘を叩く雨音と見知らぬ女の声が遠くの方で聞こえた。


 

   二  


 体にかかった妙な重みで義助は目を覚ました。自分が布団の中にいることに驚きながら頭を少し持ち上げ腹の方へ視線を向けると、昨日の黒猫が丸くなっているのが見えた。お前が俺をここに連れて来てくれたのか。まさか、と思いながらも体を起こしつつ「助かった」と言って黒猫を掴もうとしたがひょいっと手をすり抜けた。黒猫はぴょんと大きく跳んで敷居を飛び越え縁側に着地したかと思うと、もう一つ跳んで年期の入った竹垣で囲われた狭い庭へ下り走り抜けていった。

 昨夜の雨はやんで、日の光が部屋いっぱいに差し込んでいる。もう午の刻(十二ー十三時)をとうに過ぎ、義助は半日以上眠っていたことになる。信じられないくらい頭も体もすっきりしている。こんなに休んだのは風邪で寝込んだ以来だ、そんなことをのんびり考えていると、青臭い臭いが鼻をかすめた。その青臭い、薬のような臭いは、そこら中に染み付いているようだった。家主は医者かなにかだろうか。義助は周りをぐるりと見た。

 南側に縁側のある八畳の座敷だ。西側には大きな棚が並び、北側には四枚の襖が並ぶ。襖の向こうには部屋が二つあるようだ。東側にある二枚の障子はぴったり重ねられ、そこから見える土間に橙色の着物をたすき掛けにした女の姿がある。なにやら作業をしているらしい。後ろ姿しか見えなかったが義助は昨夜の女だと思った。女は視線に気づいたのか振り返って「あら、起きたのね」そう言って、ぱたぱたと土間から座敷に上がってきた。それから、

「お父さん、あの人が起きたわよ」

 明るい声で呼び掛けた。すると、ゆっくりと襖が開き、四十半ばの白髪交じりの束髪の男が「おお、起きたか」と笑顔を見せた。茶の小袖に紺鼠の十徳を羽織っている。

「俺は千次郎という、見てくれでわかると思うが町医者をやっている、ちょっと診させてもらうぞ」

 白髪交じりの男――――千次郎は義助の目の前に座ってそう言った。義助にいくつか質問をしたのち、視診、触診などを行った。

「食欲はあるか」

 この短い問いで空腹と喉の乾きを義助は自覚した。「それはとても」と頭をかいた。

「ではまずは腹拵えをしてもらう、食事と睡眠を十分にとれば体調はよくなるだろう。お前さんが身につけていたものはあそこに畳んである、厠は庭の隅にある」

 千次郎は続けて、

「千代、白湯と粥を作ってやってくれないか」

 と側にいる女——千代に頼んだ。二人の和やかな様子に義助は驚きを感じずにはいられなかった。医者とはいえ、道端に倒れた正体不明の男を家に運び入れ、一宿と一飯を快く与えるなどあまりに警戒心がなさすぎる。

 ――――だが、そのおかげで俺は命を拾った。

「泊めていただ上に食事までいただいて、すみません」

 義助は二人に礼を言った。千次郎は気にするなと笑顔を見せた。そして食事の用意をしに土間に下りていく千代に視線を向けながら、

「千代は俺のひとり娘だ、どうだ可愛いだろう」

 素直に義助は頷いておいた。


 義助が腹拵えを済ませると、千次郎は差し向かいに座って話を切り出した。

「それでお前さんはどこの者だ、親はいるのか」

「四谷で傘職人をやっています、俺は義助といいます、両親とも小さい頃に亡くなって、国元の年の離れた兄に親代わりをしてもらっていましたが、こっちでは住まいの大家に親代わりをしてもらっています」

 義助は決まりきった台詞をすらすらと話した。

「俺からその大家に手紙を出しておこうか」

 そう千次郎は気遣うように聞いた。義助は首を振った。 

「いえ、手紙は、数日帰らないくらいならよくあることですから」

「そうか、では二、三日ここでゆっくり休んでいきなさい」

 ありがたい話だと義助は思った。

 ――――大家が仕事を持って来るのは三日後の朝だ、傘張りの作業場が目に入る自分の部屋では気が休まらない、ここで休ませてもらえると助かる。

 義助が財布のお金を数え、「手持ちがあまりありませんが」と残金を伝えると千次朗は「その半分で十分だ」と歯を見せて笑った。義助は千次郎に出された薬を飲んで布団に入った。


 

   三 

 

「いるのはわかってるんですぜ千次郎先生、話ぐらい聞いてくれたっていいんじゃねえですか、ウチの若旦那がわざわざ来たんですぜ」 

 半時(一時間)も経たずに義助は、玄関口から聞こえて来るやかましい声に叩き起こされた。気持ちよく寝ていたのに、いったい何事だ。起きると、側で千次郎と千代がすでに集まって話し合っていた。「お父さん」と心配する娘の肩を千次郎はそっと押した。

「千代、お前は部屋に入っていなさい」

 千次郎は眉を吊り上げてどしどしと歩いていった。義助もそのあとをついていったが、草履をはいているうちに、玄関の戸がドンと音を立てるほど荒々しく開いた。

「やっぱりいるんじゃねえですか、無視するなんて意地悪はよくねえですぜ」

 浪人風の男が二人、まず中へ入ってきて、そしてもう一人、おそらく若旦那と呼ばれる男が横柄な態度で二人の男の間に収まった。若旦那は臙脂と黒の縦縞の半纏に鈍の着物、紅い帯といった派手な格好で、一、二間ほどの距離を置いて千次郎と対峙している。千次郎は大声で、

「今すぐ帰ってくれ、勝手に上がり込んでくるような礼儀のない輩と話すことなどない、それにあの話は断ったはずだ」

 と睨みつけた。若旦那は話が早いといったふうに手をパンと叩いた。

「今日もその話をしに来たんですよ、お義父さん、もう一度考え直してほしいんでね、お義父さんにとっても良い話だと思うんですが、俺と千代さんが夫婦になるっていうのは」

「何度来ても断ると言ったのを忘れたか」

 それを聞いてた若旦那はにやりと笑う。

「二ヶ月前、お義父さんがそうおしゃったときとは、状況が変わっているんじゃないですか、千代さんの縁談は破談、お義父さんの医院は閑古鳥、と聞きやしたが」

 その言葉に千次郎は露骨に嫌な顔をした。若旦那は構わずに続ける。

「俺と千代さんの祝言を上げた暁には千代さんを幸せにしますし、もちろんお義父さんの医院もしっかり支援しますんで」

「お前の支援なんざいらん、ろくに仕事もしないで親の脛かじってあちこちの女に手え出して遊びほうけている男が女を幸せにできる理由がない。娘はやらん」

 千次郎の語気が強くなる。

「もちろん俺だって身を固めたら、働きますし遊びなんざしやしませんよ」

「お前が結婚をしたからといって心を入れ替えるとは俺には思えん、噂で聞いたがお前、三ヶ月前に吉原で二股して、大変な目にあったらしいな」

 触れられたくないことだったのか若旦那は顔色を一変させ、「お前ら」と叫んで左右の男たちに視線を投げ、顎をしゃくった。若旦那の脇で睨みを利かせていた男たちが前へ出てきた。浅黒い無精ひげの男は、

「優しい若旦那が、こんな良い話を持ち掛けてくれたってのに断るなんて馬鹿な老いぼれだ」

 とへらへら笑いながら言い、大柄な男は、

「殴れば馬鹿も素直になって聞くもんよ」

 としゃがれた声でそう言い放った。大柄な男が一歩、二歩とさらに前に出てきて指を鳴らした。腕っ節に自信があるようだ。この男と殴り合って千次郎がただで済むとは義助は思えなかった。

 ――――千次郎さんと千代さんには一宿一飯の恩義がある。

 義助は「おい」と呼んで、男の目の前まで歩いていく。

「なんだあ、お前は」

 苛だ立たしげに男は目をぎろりと義助に向けた。

「患者だ、いま世話になっている、先生が馬鹿なら暴力で縁談をまとめようとしているお前らは、救いようのない馬鹿だな」

 そう言い笑ってみせる義助。その顔に男の拳が伸びる。

「出しゃばったことを後悔させてやる」

 拳は何にも当たることなく空中で止まった。義助が男の手首を掴んでいる。ぐいっと捻ると男は悲鳴を上げ、大きな体躯を土間の土につけた。若旦那は口をぽかんと開けたが、すぐさま浅黒い男に叫んだ。

「ぐずぐずするな早くあいつを痛めつけろ」 

「で、でも、若旦那、兄貴が手も足もでねえんじゃあ、俺には……」

 男はすっかり怖じ気づいた様子でじりじりと後ずさっている。

「なんのためにお前らを高い金で雇っていると思ってんだ」

「そ、それは……」

 義助は若旦那を見据えて言った。

「どこの若旦那か知らないが、お前が来い、臆病者じゃないならな」

 若旦那の顔が怒りで真っ赤になった。ぎりと奥歯を噛み、声を張り上げた。

「俺はなあ、山々屋の若旦那だ、山々屋に盾突いてただで済むと思うなよ」

「俺は義助だ、俺にやり返したいのなら四谷に来い」

 若旦那は指先を真っ直ぐ義助に向けた。

「……四谷の義助か、覚えたぞ、絶対に行くからな首を洗って待ってろ」

 逃げるように山太郎と男たちは外へ出ていった。

 そのさまを見送ってから千次郎は玄関の戸を閉めて安堵して義助に言った。

「恩に着る、助かった、いい腕っ節だった」

「ほんっとう、義助さんってすごく力持ちなのね」

 と、一部始終をこっそり見ていた千代が土間へ下りてきた。

「……傘張りの仕事の合間にいつも鍛えているので」

 義助はこう返すのに少し時間が掛かった。忍の修行で力がつきましたなどと本当のことは言えない。

 千次郎が一拍置いて、わははと笑った。

「俺もあちこち痛いと言ってばかりいないで鍛えなければいかんな」

 ――――俺は山—屋の若旦那が四谷に来る前に戻らなければ。

「千次郎さん、千代さん、このとおり俺はもう良くなったのでそろそろ帰ります、お世話に――――」

 義助の言葉を遮って、千次郎は慌てて引き留めにかかった。

「帰るのはちょっと待ってくれ、お前さん――――いや義助、もうしばらくお願いだからここにいてくれないか」

「いや俺がいると迷惑が、近いうちに取り巻きの人数を増やして若旦那がやり返しに来るはずで」

「構わん、ここにいてくれ」

「はあ」

 きょとんとする義助の両肩をがっしり掴んで、千次郎はこう言った。

「長くなるが、俺の話を聞いてくれ」


 

   四  


 義助は座敷で、千次郎と千代と向かい合って座り、若旦那のこと、二ヶ月の間に千次郎と千代の身に起こったことを聞くことになった。

 若旦那は、江戸で三番手の材木問屋『山々屋』の跡取り息子で山太郎という。二十五になっても女、酒、博打と遊んでばかりいる。三ヶ月前のこと、若旦那――――山太郎は通い詰める遊女がいるにもかかわず他の遊女に手を出し、二股御法度の吉原(遊郭)でひどい罰を受けて晒し者になった。山太郎は江戸中の笑い種になった。父親は息子をこのままにしてはおけない、早く嫁をもらって身を固めさせなければいけない、と考え縁談を急いでまとめようとした。しかし、父親の用意した婚約者が気にくわない山太郎は、

『婚約者くらい自分で見つける』

 と突っぱねた。父親は跡取り息子が可愛くて仕方がないので、自分で婚約者を見つけたいという山太郎の主張を六ヶ月という期限付きで受け入れた。

 いま婚約者の候補に入っている三人のうちの一人が千代だという。山太郎の落とした財布を千代が拾って渡したときに気に入ったらしい。

 一方、千代には幼なじみの婚約者がいた。二ヶ月前のこと、千代とその婚約者が町を歩いているとき、山太郎と浪人風の男たちに囲まれた。婚約者の男は迷うことなく千代を置いて逃げた。その場にいた通行人たちに助けられて千代はことなきを得たが、この件で千代の縁談は破談になった。千次郎の医院も縁談の破談を境に徐々に患者が減り、今では閑古鳥が鳴いている。常連の患者の話では悪い噂を言いふらして回っている浪人風の男たちがいるらしい。千次郎は、その男たちを差し向けているのは山太郎だと見当をつけている。


 話し終わると千次郎は居ずまいを正し、義助の目をじっと見つめた。

「それで是非とも義助にお願いしたいことがある、明日、千代と町を歩いてくれないか」

 意図がわからず義助は「はあ」と首を傾げながら千次郎を見つめ返した。 

「二ヶ月前、千代が山太郎と取り巻きたちに囲まれた件から、俺は千代に一切町に出ないように言いつけてきたんだ、だが義助が一緒なら安心して町へ送り出せる」 

「でもお父さん、大丈夫かしら」

 不安そうな嬉しそうな声で聞く千代。「義助がいれば大丈夫さ、我慢させてすまなかった、明日はたくさん町で遊んでおいで」と千次郎が優しく言うと、千代は「楽しみだわ」と笑顔で頷いた。千次郎と千代だけで話が決まりかけている。義助は納得いかない様子で聞いた。

「あの、俺と外に出るより家にいる方が千代さんは安全なのでは」

 千次郎は「昨日まではな」と頷いてから、こう続けた。

「だが今日、山太郎は家にまでとうとう乗り込んできた、玄関の戸など破ろうと思えば簡単に破れる、家にいても外にいてもさして変わらないだろう」 

「そうかもしれませんが」

「後生だ、千代と町を歩いてくれるだけでいいんだ、もちろん用心棒代は出す」

「不躾ですが、患者が減って困っているのでは」

「それなりの蓄えはある、だから一日、千代の用心棒になってくれないか、家にいてばかりでは千代の息が詰まってしまう」

「私からもお願いします、前みたいに町を歩きたいの」

「しかし――――」

 ――――山々屋の若旦那をさんざん煽った俺と出掛けるのはやはり危険なのでは。

 決断できずにいる義助の方へ千次郎は正座したままにじり出て、

「どうか用心棒を引き受けてくれ、他に頼れるところはないんだ、どうか」

 両手を畳につけて頭を下げた。

「……わかりました、やります用心棒を」

 義助はしぶしぶ首を縦に振った。千次郎は頭を上げ、それは嬉しそうな顔で、

「おおやってくれるか、そうかそうか、では明日に備えてしっかり休まねばならんな」

 と言って義助が使っている布団を整え、義助が布団に入るように促した。休ませたいのか休ませたくないのか。そんなことを考えながら横になり、ふと空へ目を向けた。

 ――――もうこんな時刻になっていたんだな。

 夕暮れの空が刻々と暗くなっていくのを義助は物珍しそうにしばらくの間ぼんやりと眺めた。



   五  


 ドン、という音で義助は飛び起きた。

「ごめんなさい、足をぶつけてしまって、起こしちゃったわね」

 千代は土間から座敷に上がる際にぶつけて痛めたのか足をさすっている。

「怪我はないですか」

「ちょっとぶつけただけですよ」

「せっかくだから千次郎さんに診てもらっては」

 義助は千次郎の姿を探す。夜の更けた部屋は暗く、障子はすべて閉められ、あんどんの火の揺れる音が聞こえそうなくらい静かだ。

「ああ、千次郎さんはもうお休みになったのか」

 独り言のように言う義助に、千代は思い出したように不平をこぼした。

「聞いてください、お父さん、築地のお凛さんのところに行くとか言って出て行ったっきりなの」

 それを聞いた瞬間、義助はぴんと背筋を伸ばし、固唾を呑んだ。

 ――――千次郎さんが出掛けて家にいないということは。

 一つ屋根の下に男女が二人。この状況は、男女の関係にうとい義助も緊張させた。 

「夜食を持ってきますね」

 千代の用意した食事をとった義助は早々に眠ることにした。しかし子の刻、丑の刻が過ぎ寅の刻になっても寝付くことはできなかった。

 ――――千次郎さんは何を考えているんだ、娘をどこの馬の骨かもわからない男と二人にして。

 そんな考えが義助の頭をぐるぐる回った。いよいよ部屋がうっすら白みだしたとき寝るのあきらめた。

 ――――外で日の出でも見るか。

 義助は音を立てないように障子を開け、縁側に胡座を組んで座った。そして庭の雀がさえずるのを聞きながら息を大きく吸い込んだ。朝の空気の冷たさと、足に伝わる板の冷たさとで眠気はどこかに飛んでいってしまった。あと半時もすれば日が出るだろうか、そんなことを考えていると「にゃあ」と聞こえた。どこか苦しげな声だ。縁側のへりに立って屋根を見上げると、黒猫と目が合った。

「また下りられなくなったんだな」

 ぐっと手と足を伸ばして掴み縁側に下ろすと、猫はそこに座った。その隣に義助も座った。

 ――――ここの飼い猫だと思うが、あとで聞いてみるか。

 じゃり、と庭の小石を踏む音が義助の耳に入った。顔を向けると、ちょうど勝手口から千次郎が足を忍ばせて家に入ろうとしているところだった。義助は「千次郎さん」と声を掛けた。それから千代と義助を二人にきりにして女遊びにうつつを抜かしていた千次郎を責めるように言った。

「お早いお帰りで、どういう了見でひと晩も外出なさったので」

 見つかった千次郎はしまったという表情を浮かべたが、それは本当に一瞬で、次の瞬間には開き直っていた。「義助は朝が早いな」と苦笑しながら千次郎は縁側に腰をかけ、悪びれることなく堂々と、

「義助、俺が外出したのはな、単に息抜きのためだ、倒れたばかりの義助ならわかるだろう、息を抜かないとひとは駄目になるんだ」

 あやうく義助は納得しかかったが首を横に振った。

「息抜きをするにも時と場合があるはずです」

 千次郎はそれを聞いて、わっはっはと豪快に笑った。

「それはそうだ、これは一本取られた」

 それからできたばかりの義助の目の下の隈をまじまじ見て、

「朝までぐっすり眠れるように薬を処方したつもりだったが、起きてしまったようだな、すまなかった」

 義助は腹を立てていたが、それよりだんだん呆れてきた。

 千次郎は草履を脱いで縁側に上がり黒猫を挟んで義助の隣に座った。そして黒猫の顔をのぞき込み表情を緩めた。

「おおクロ、よく来たな」

「ここの猫ではないので」  

「お隣さんの飼い猫だ、根っからの甘えん坊で、よくわざと高いところに上って下りれなくなってな、なあクロ」

 そう言って、黒猫のクロを千次郎は抱き上げたが、ばたばたして腕から跳び出した。弾みでクロは義助の胡座の上へ来た。背中を撫でると喉をごろごろ鳴らした。一昨日と今日と高いところから助けてやったつもりになっていたが構ってほしかっただけだったか。すると俺はクロに一方的に助けられたのか。

「おまえがここへ連れてきてくれたおかげで命拾いした」

 と改まって礼を言うと、千次郎が朗らかに笑った。

「猫に話し掛けるとは変わったやつだ」

「千次郎さんも話し掛けていましたよ」

「そうか、じゃあ似たもの同士だな」

 そのとき、千次郎と義助が背にしていた障子がガラッと勢いよく開いた。

「お父さんは朝帰り、義助さんは早く起きて体を休ませない、二人とももっとちゃんとしてください」

 不機嫌と顔に書いた千代が仁王立ちでそこにいた。



   六  


 あれから義助が千次郎のすすめで二度寝をしたことは、朝から出掛けるつもりだった千代をさらに不機嫌にさせたが、昼食で義助と千次郎に不満をぶつけてスッキリしたのか鼻歌交じりに支度を始めている。義助は外で待つことになり、草履をはいて土間へ下りる。

 壁に吊して半開きにして干してある傘に義助の目が留まった。一昨日の夜、千代が差していたものだ。

 ――――見覚えがある、俺が傘職人になって初めて張った傘のように見えるが、いやまさかな。

 色の褪せた赤い蛇の目傘。それは義助の胸に残る嫌な記憶を鮮明に思い出させた。

『この傘を張ったのはお前か、こんな不格好な蛇の目で売り物になると思っているのか』

 大家は義助の部屋に入ってきたかと思うと、そう言って畳んだ傘を手荒に義助の前に放り投げた。大家は傘の白い輪の模様の部分を指でなぞった。

『よく見ろ、こんな出来じゃあ、まだまだおまえは半人前だ、あと三ヶ月は半分の手間賃で働いてもらう』 

 教わった範囲内だと思っていた義助は座ったまま訝しげに大家に顔を向けた。

『飢饉に苦しむ里のものたちを飢えさせたくなければ精進しろ、寝る間も食う間も惜しむな』

 大家は拾い上げた傘で肩を叩きながら、吐き捨てるように言いたいことだけ言って出ていった。

 ――――俺はまた大家にせっつかれて傘張りをしなければいけないのか。

 自分の日常に引き戻され、義助はどうしようもなく気が重くなるのを感じた。そのとき、「お待たせ」と千代に声を掛けられた。千代は雪駄を履いて義助の側にやって来て、

「今日の天気だと傘を持っていかなくっちゃ」

 義助が眺めていた傘を手に取った。「俺が傘を持っても」と聞くと「いいの」と聞き返されたので頷いて傘を千代から受け取った。義助は腰に巻いた帯の間に傘を挟み込んだ。やにわに千代が、

「どうですか」

 そう言って、くるりとその場で一回転した。はてと義助が「なにがですか」と首を傾げると、千代はムッとした顔で義助にもわかるように言い直した。

「気合いを入れて身支度したんですよ、どうですか」

 義助は身支度を済ませた千代の姿をしっかりと見た。白粉で整った肌、紅を差した唇、飾りつけられ綺麗に結わえられた艶やかな髪。華やかな花柄の着物。どこにどれに、それは定かではないがいつもとは違った魅力を感じて義助はどきりとした。

「ええっと、いいと思います」

 頭をかいて目を逸らした義助の照れた様子に千代はにこりと笑った。 

「行きましょうか、たくさん寄りたいところがあるんです」

  


「お茶二つ、お団子三つ、みたらし団子三つ、おしるこ一つください」

 千代は据わりきった目で茶店の給仕に注文した。店内にしつらえられた座敷で、座布団に座って千代と義助は四角い机越しに向かい合っている。

「そんなに甘いものをたくさん頼んで大丈夫なのか」

 義助は注文を聞いただけで胸焼けがした。

「お団子一つとみたらし団子一つは義助さんのですよ、それに――――」

 千代は怒った。

「このむかむかは食べないと収まらないの」

 それなりの剣幕に義助は「そうか」としか返せなかった。 

 茶店に来る前、二人が寄席で落語を聞いていたとき、周りにいた観客の女たちに『藪医者の娘』だとか『尻軽女』だとか悪口をこそこそ言われたのだった。千代は、その女たちをキッと睨んでから足早に立ち去った。もちろん義助もそこにいて千代についていった。 

「注文の品です」

 給仕がお盆を持ってやって来て次々と机に品を並べた。千代はどんどん食べた。義助は本当に食べられるのか懐疑的に見つめていたが、本当に食べられそうで感心していたところ、突然手が止まった。千代はうつむき加減に話しだした。

「あいつ(山太郎)が、雇った浪人たちがあんな根も葉もない噂を言いふらしているせいで」

 僅かに震える声で続けた。

「私が、あいつの財布なんか拾わなければ、私もお父さんもこんな目に遭うことはなかったのに」

 目尻に涙が光る。今にも泣き出しそうな千代の雰囲気に義助はおろおろした。忍の里で育った義助にとってそういうふうに流れる涙は初めてのものだった。とりあえず温かいお茶を飲むか、俺の団子も食べるか、などど千代に言ったあと、薄手の手ぬぐいを懐から出してみたが、自分の体を井戸水で拭くときに使ったのを思い出し慌てて「これは違うな」としまった義助を見て、千代は吹き出して笑った。それから千代は打って変わってケロッとした様子で、

「そうだわ、かんざしを買いに行かなくっちゃ」

 話を変えて残りの団子を食べきった。あまりの変わり様に義助はとにかく面食らったのだった。


 茶店を出て、千代がお気に入りのかんざしを見つけたのは、四件目の小間物屋だった。勘定を済ませ、小間物屋の前で新しいかんざしを髪につけ千代は「どう」と義助をちょっと上目遣いで見た。この問いは四件の店を回る間に何度も繰り返されたものだ。義助が答えようとしたとき、かんざしに滴がひとつ落ちた。小さな雨粒が、ぽた、ぽた、と続けて落ちはじめた。

「義助さん、傘を」

 わかったと頷いて傘を千代の頭の上へ差した。千代と身を寄せて傘に入るのは気になったがそれが気にならなくなるくらい、傘の蛇の目の模様に義助は引きつけられた。開いた傘を下から間近で見て、間違いない、俺が職人になって初めて張った傘そのものだ、と確信した。 

『売り物になると思っているのか』

 ――――大家め、ああ罵ったくせに知らないところで売っていたのか、それにしても。

「ひどい出来だ」

 義助はじっと傘の模様を見つめながら自分にだけ聞こえるくらいの微かな声で呟いた。

 ――――あいつ(大家)は信用ならないが、今になってみると、売り物にならないというのは妥当な評価だったように思う。

 不意に柄を持つ義助の手が緩んだ。千代は傾いていく傘を手を伸ばして掴んで支えた。

「義助さん、ぼうっとして大丈夫ですか」

「大丈夫です、ちょっと考え事をしていただけで」

「そうなんですか、じゃあ蕎麦屋に行きましょうか」

 二人は相合い傘をして、蕎麦屋に向かって歩きだした。

「千代さん、この店に寄っても」

 義助は傘の売っている小間物屋の前で足を止めた。義助が立ち寄りそうにない店だったから千代は「ええ」と頷いたあとで小首を傾げた。義助は「ちょっと持っていてくれませんか」と傘を渡して、財布を取り出した。 

「千代さんに新しい傘を持ってもらいたくて、その傘は長く使ってガタも来ているし買い換え時だと思うんで、俺が払いますから」

「まだ使えるので買い換えません」 

 千代は少し不満そうに言った。

「いや、そんな傘より、あれとかそれとか新しくて良い傘が――――」

「けっこうです、私は買い換えません」

 そう言って千代はそっぽを向いた。義助は困惑した。新しい傘を買うと申し出ることが千代の機嫌を損ねる原因になるとは少しも思わなかったからだ。困った顔でいる義助を横目でちらりと見て千代はため息をついた。「ちゃんと聞いてくださいね」と釘を刺してから言った。

「この傘をとっても気に入っています、とにかく私は、まだ使いますから――――」

 ドン、と強く胸を打たれたような気がして義助は目を見開いた。義助は傘が、自分の張った傘が大事に使われていると考えもしなかった。張り替えを頼まれた古傘はどれもこれもぼろぼろだった。だから実際に傘を大事にしているひと(千代)がいることに驚いた。それも一人前になって初めて張った出来がいいとは言えない傘を。この衝撃と共に、これまでに積もった傘への暗い思いがすべてきれいに剥がれ落ちていったように義助は感じた。

「わかりましたか、じゃあ蕎麦を食べに行きますよ」

 義助は、一歩二歩と前を向いて行く千代を、時が止まったようにただ眺めていたが、はっとして千代の差す傘に小走りで入り柄を持ち上げた。千代は疑わしげに義助を見上げた。

「ちゃんと持ってくださいね」

「今度こそは」 

 傘を見ることすら嫌になっていた義助はこのとき変わった。傘の蛇の目が光の暈に見えるくらいに。


 

   七    


 千代と義助が蕎麦屋に着いたころには小雨はやんでいた。蕎麦を食べたあと、千代が湯に浸かりたいと言ったので湯屋に寄った。

「お待たせしました、久しぶりに湯に浸かれてさっぱりしました」

 義助は目を逸らしてぎくしゃくしながら「それはよかった」と返した。

「帰りましょうか」

 もう夕日は沈んで辺りは暗くなってきている。二人は家に向かって歩きだした。

 しばらくして義助は不穏な気配に気づいた。

 ――――つけられている。

「千代さん」

 話し掛けるようにして横目で後ろを見た。案の定、山太郎の姿があった。

「後ろにあいつ(山太郎)らがいます、少し遠回りをするのでついてきてください」

 そう声を潜める義助に千代は小さく頷いた。立ち止まることなく歩き、真っ直ぐ進むはず十字路を曲がって進み、柳が揺れる堀に沿った道に出た。物寂しく並ぶ古ぼけた家屋に夕闇が落ちている。おもむろに義助が振り返ると、黄色い半纏を羽織った派手な山太郎と浪人のような四人の男たちがぞろぞろと近づいてきた。義助を睨みつける山太郎のこめかみには青筋がすでに浮き上がっている。憎々しそうに口を開く。

「四谷で待っていると大見得を切ったくせに、こんなところでうろついているとは、俺をコケにするのもいい加減に――――」

 途中で山太郎は何か思いついたようなそぶりを見せ、

「――――そうかお前、怖くなって四谷に帰れなかったんだな、みっともないやつだ」

 と義助をあざ笑った。取り巻きたちも声を立てて笑った。

「しっぽ巻いて逃げたっていいんだぜ、あの男も半べそかいて情けなく逃げてったなあ」

 あの男とは千代の婚約者だった男ことだ。千代は持っていた小包をぎゅっと抱え込んだ。

「千代さん、離れていてください」

「格好つけられるのも今のうちだ、お前らやっちまえ」

 山太郎が指示を出すと四人の男たちが一斉に前に出てきた。

「へっへっへ、任せてくだせえ、約束どおり二度と町を歩けねえようにしてやりますよ」 

 ニヤニヤしながら男は山太郎にそう言うと「行くぞ」と合図してもう一人の男と殴りかかってきた。義助はあらかじめ手に忍ばせていた小石を男の額へ力一杯ぶつけた。男がひるんでいるうちにもう一人の男をかわし、堀へ蹴り落とした。額を赤くして再度殴りかかってきた男を避け、堀へ落とした。残りの二人も簡単に堀へ落ちていった。

「さあもうお前だけだぞ」

 そう言って義助が凄むと、山太郎は腰を抜かして尻餅をついた。慌ててなんとか立ち上がって、

「くそ目障りなやつだ、お前にどんなに邪魔されたって俺は千代さんを諦めない、三ヶ月後の期限までは、俺は絶対に諦めないからな」

 と言い捨てて踵を返した。堀から上がってきた男たちも戦意を失ったようで山太郎を追いかけんと背中を見せて走り去っていった。

「千代さん、もういいですよ」

 声を掛けると千代が柳の影から駆けてきた。

「義助さんって本当に力持ちだわ」

 そう言われ得意げに義助は頭をかいた。

「鍛えているので、では暗くなる前に帰りましょうか」



 二人が家に帰り着くと千次郎は出掛けていなかった。

「お父さん、酒屋にでも行ったのかしら」

 あんどんに火が灯っているのを見て、千代は「そのうち帰ってくると思います」と言った。

「お茶を入れますね」

 義助は座敷で正座して、千代がお茶を入れるのを待つことにした。帰りのときから千代の言葉数が心なしか少なく、どうかしたのだろうかと義助は少し気になっていた。

「どうぞ」

 と湯飲みを二つのせた盆を置いて千代は座った。ひと口お茶を含むと千代は義助と目を合わせ、改まった様子で礼を言った。

「義助さん、あいつらを懲らしめてくれてありがとうございます」

「用心棒として当然のことをしたまでで」

 義助の言葉を聞いた千代は顔を逸らした。ふだん明るい千代の思い詰めたような横顔が、義助を身構えさせた。千代は膝の上で右の手を左の手でぐっと握って話しはじめた。

「私の元婚約者は、あいつらに囲まれたとき私を置いて逃げていきました、どうして立ち向かってくれなかったのか、どうして私も連れて逃げてくれなかったのかと、二ヶ月経った今も思います」

 そう言って目に溜まった涙を人差し指の背でぬぐったが、涙は止まることなく溢れた。

「小さいころから仲が良くてずっと一緒にいるものだと思って――――」

 千代は啜り泣きだした。

 折りに触れて元婚約者を思い出して涙を流す。まだ千代は心の傷が癒えないでいる、元婚約者を忘れられないでいるのだと義助は痛感した。肩を震わせて涙を流す千代が寒そうで、着ている半纏を千代の背中へかけようと、義助が半纏を脱いだそのとき、

「千代、お前……」

 一升の徳利とおつまみを持って千次郎が帰ってきた。二人に気がつくと、目を見張ったまま呆然とし、おつまみを落とし、徳利も落とした。千代は「お父さん、ただ目に埃が入っただけだから」と言って自室へ入っていった。

 数秒かかって義助の頭はやっと回りはじめ、千代に手を出したと千次郎に思われたのではないかと思い至った。

「これは邪魔をしてしまったな」

 うわ事のように言って家を出て行こうとしたので、義助は俊敏な動きで千次郎の腕を掴んだ。

「なにも邪魔なんかしていません、千代さんの話を聞いていただけです」

「そうかやはり邪魔をしてしまったな」

 ――――千次郎さんはなにを言っているんだ。

 義助はそんな考えが過ってそのままを口に出しかけたが堪えた。

「いやそんなことは、散歩に出るので千次郎さんはお願いですから家にいてください」

「おお、散歩は体に良いからな、わかったわかった、ちゃんと帰って来るんだぞ、用心棒代もまだ払っていないし治療代も貰っていないからな」

 と、千次郎は少し持ち直した様子で笑顔を見せた。 


 秋の寒さを感じながら夜道をぶらぶらあてもなく歩く間に、義助は考えを巡らせた。千次郎と千代、山太郎のことについて。

『お前にどれだけ邪魔されたって俺は千代さんを諦めない、三ヶ月後の期限までは、俺は絶対に諦めないからな』

 山太郎が残していった言葉だ。義助は明日の夜には四谷に帰らなければいけない。四谷に来た山太郎を今日と同じように追い払ったとして何も解決しないだろう。三ヶ月後に嫁をもらって身が固められるまで山太郎は懲りずに、義助のところへ、千次郎と千代のところへ幾度となく現れるだろう。千次郎の仕事は立ち行かなくなるだろうし、千代の心の傷は癒えないだろう。それ以前に義助がいなければ山太郎たちを追い払うことができず千次郎と千代はひどい目に遭うかもしれない。

 ――――二人には恩がある。俺がやれることはやる。

「今夜中にどうにか済ませられればいいが」

 義助は四谷へ足を向け、数キロの道のりを駆けていった。



 灯りの影のない障子を無遠慮に開け、義助は暗い部屋の中へずかずかと入っていく。星明かりでかろうじて見える義助の同居人の枕元へ向かう。

 同居人は騒々しさに飛び起きた。

「なんっだよ義助か、ぐっすり寝てたのによお、おまえも明日から傘の仕事があるんだから早く寝ろよな、あのうるさい大家が朝っぱらからやって来るぜ」

 義助は寝ぼけ顔で悪態をつく同居人の襟を掴んで起こした。

「急ぎの頼みだ、教えてもらいたいことがある」

「ちょっ、おいおい、頼みごとする態度かよ」

「詫びはあとでいくらでもするから頼む、山々屋の跡取り息子の居場所を教えてくれないか」

 義助の同居人は口が上手いのを買われて傘職人ではなく古傘買いをしている。一日中江戸を歩いて回るので情報に通じている。

 同居人は面倒くさそうに差し迫った様子の義助に言った。

「ああ、あの山太郎な、山太郎なら今夜は深川の遊女のところに行ってるんじゃないか、いつも日が変わる前には帰るとかなんとか」

「詳しい場所を教えてほしい」

「おまえ、なにする気なんだよ」

「山太郎に三ヶ月の間、町を歩けないようになってもらう」

「は、なんでそんな物騒なことを、急ぎの仕事か」



   八  


 空に朝日が顔を出したころ、家の前をほうきで掃いている千次郎に義助は何食わぬ顔で「おようございます」と声を掛け、ばつが悪そうに言い訳をした。

「昨日は飲み過ぎて道端で寝ちまってました」

「また道で寝ていたのか、呆れたやつだ、ほどほどにしておけよ」

 千次郎は落ち葉を掃くのをやめ、そう言ってわははと笑った。その様子はふだんの千次郎と変わらないように見えた。「そうします」と頷いて義助は切り出した。

「千次郎さん、このとおり良くなったので治療代と用心棒代を精算して俺は四谷に帰ろうと思います」

「いや帰るのはちょっと待ってくれ、今晩、酒をふるまいたいんだ、付き合ってくれないか」

「はあ」 

 思わず義助は頷いたが、昨晩、泣いている千代を目にした千次郎の尋常ではない様子を考えると話がこじれるのは想像に難くなく、酒など飲まずに帰りたいと思った。

「すみませんが酒はあまり飲めないので、やはり帰ります」

「いやいやまあまあ、昼過ぎに美味い酒が届くように頼んであるんだ、晩飯のあと、たった一杯飲んでくれればそれでいいから」

 義助は気は進まないが晩酌に付き合うことにした。

「今日中に帰りたいので一杯でいいのなら」

「そうか、飲んでくれるか、そう長くはならん安心してくれ」


 義助は縁側でうとうとしたり、庭で薪割りや洗濯の手伝いをしたり、何かにやって来るクロを構ったりして過ごした。洗濯の手伝いをしているとき、千代とこんな会話を交わした。

「昨日は見苦しいところを見せてしまって」

「気にすることはなにもないです」

「お父さんには昨日のこと、義助さんがあいつらを追い返してくれたこと、私が泣いていたこと、ちゃんと誤解がないように話しておいたので安心してくださいね」


 そして日が暮れた。千次郎、千代と夕餉をとっていると玄関の戸が開いた。

「千次郎先生、良い報せを持ってきやした、入りますぜ」

 と、三十半ばの男が返事も聞かずに座敷に慌ただしく上がり込んできた。 

「おい、勝手に上がってくるなと言っているだろう」

「今日は大目に見てくだせえ先生、本っ当に良い報せなんで早く聞いてもらいたくって」

 千次郎は少し興味が湧いたような様子で聞いた。

「それで良い報せというのはなんだ」

「それがですよ、昨日の夜のことなんですが、山々屋の山太郎のやつ深川で荒れに荒れていたそうなんですが、その女遊びの帰りに浪人に襲われて足を切られちまってしばらく歩けなくなったそうで、山太郎のやつよほど恐ろしい目に遭ったのか、女遊びはもうしないとか決められた婚約者と身を固めるとか誰も聞いてもいないのに話すようになっちまったらしいですぜ」

 それを聞いて千次郎と千代は顔を見合わせた。千次郎は緩む頬を引き締めながら言った。

「他人の不幸を喜ぶのはどうかと思うが、確かに良い報せだ」

「へへ、そうでしょうそうでしょう、じゃ、あっしは女房が飯つくって待ってるんでこれで失敬しやす」

 男はばたばたと帰っていった。玄関の戸が閉まる音がすると千次郎は相好をくずした。

「今日はいい日だ、こんなにあっさり山太郎の件が解決するなんてな、明日、俺も町に行って山太郎の話の子細を聞いてこよう」

「お父さん、私も一緒について行くわ」

「いいぞ、義助も一緒に来るか」

「すみませんが俺は明日から仕事があるので」

「そうか、そうだったな、今夜帰るんだったな、よし、食事を済ませて晩酌を始めるか」


 

   九  

   

 暗くなった空に星が瞬きはじめている。義助は縁側で胡座を組み、庭をてくてく歩いていくクロを眺めている。

 千次郎が徳利とお猪口を二つのせた盆を縁側へ持ってきて、盆を挟んで義助の隣に胡座を組んで座り、

「さあさあ」

 と、お猪口を差し出した。義助が両手でお猪口を受け取ると千次郎は徳利を傾けてそれに酒を注いだ。

「頂戴します」

 ひとくち飲んで、今度は義助が千次郎のお猪口に酒を注いだ。それをひとくち飲んだ千次郎は「美味い酒だ」とニッと笑った。

「お父さん、肴はどうするの」

 千代がやって来て聞いた。

「俺が全部やるから千代は部屋で休んでいなさい」

「私もお話に入りたいわ」

 そう不満をあらわにする千代にきっぱりと言った。

「すまんが男と男の話をさせてくれんか」

「はいはいわかりました」

 千代は不承不承と頷いたが、どうにも納得がいかない様子で「男と男の話ってずるい」とこぼして自室に入っていった。

  


「千代は自慢の大事な娘だ」

 庭へ視線を向けながら、千次郎はそんなふうに切り出した。

「ああ見えて、近所では明るくてしっかりしていると評判なんだ、小さいころは泣き虫だったんだがな」

 ひとくち酒をあおり千次郎は続けた。

「俺の女房――――千代のおっかさんが八年前に病気で亡くなってから、千代は目を見張るくらいしっかりしたんだよ、俺は頼もしく思ったもんだ、そのときの俺は女房に死なれて仕事も手に着かなくて酒を飲んで泣いてばかりだったからな」

 千次郎と同じように庭を見つめながら、時折頷きながら義助は話に耳を傾けた。

「千代は読み書きを覚えに行くのもやめて女房の代わりに家のことをやるようになった、俺の仕事を手伝うようにもなった、弱音も泣きごとも吐かなかった、女ってのはいつの間にか強くなっちまうもんだって感心しきりだった、昨日千代があんなふうに泣いているところを見るまではな」

 千次郎は大きく息を吐いて肩を落とした。

「情けない話だが八年かかってやっとわかったのさ、千代はしっかりしたわけでも強くなったわけでもない、ただ我慢してただけなんだと」

 お猪口に残った酒をぐいっと飲み干したあと千次郎は身体を義助の方へ向けた。

「どうやら千代は義助の前では我慢せずに本音でいられる、そんな男と夫婦になって支え合って暮らしていけば千代は幸せになれると俺は思う、そういうわけで義助、千代と夫婦になってくれないか」

 突然に婚約を申し込まれ、義助は目をしばたかせたが、すぐに平静を取り戻してこう返した。

「それは無理な話です」

「どうして」

 義助は正直な話をした。

「俺は傘職人ですが、それとは別に汚れた仕事もやってきました、俺は千代さんと夫婦になっていいような男ではないんです」

 千次郎は頭を振った。暖かな眼差しを義助に向け、

「人なんてものは生きているうちに多かれ少なかれ汚れていくものだ、俺も千代もお前の人柄をとても気に入っている、汚れていようがいまいが構わない、だから義助、千代と夫婦になってくれないか」

「しかし――――」

 ――――千代さんの気持ちは。

 昨日の泣いている姿を思い出せば千代の気持ちがどこにあるか明白だと義助は思った。

「千代さんは前の婚約者のことを忘れていないと思います、山太郎の件は片がつきましたしもう一度――――」

「いやいや千代はもう前の婚約者のことを忘れているから何も気にすることはない」

「いやまだ全く忘れていないと思います」

「いやもう完全に忘れている」

「いやまだ――――」

 そのとき千代の部屋の襖がバンと開いた。

「二人とも私の気持ちを適当に代弁しないでください」

 

 

「千次郎さん、千代さん、三日も泊めていただいて本当にお世話になりました」

 義助は草履をはき、玄関の戸の前で礼をした。

「また来たくなったらいつでも来なさい、それから千代との婚約の話、真剣に考えておいてほしい」

「もうっ、お父さんはこれ以上しゃべらないで」

 千代はそう言って千次郎を後ろへぐいぐい押した。

「あとは若い二人に任せるとするか」

 婚約の話にひとり盛り上がっている千次郎が座敷に上がったのを見て、千代は振り返った。

「義助さん、お父さんが言った婚約の話は全然気にしないでくださいね」

 どこか気まずい雰囲気に義助は困った様子で「はい」と頷いた。

「改めて山太郎を追い払っていただいてありがとうございました」

「用心棒の仕事をしただけなので、こちらこそよくしていただいてありがとうございました、それでは失礼します」

 義助は踵を返しかけて、傘が目に留まってやめた。

「もうひとつお礼を言わなければいけないことがありました」

 首を傾げる千代に話した。

「この傘は俺が初めて張った傘なんです、何年も大事に使ってもらって、職人になってこれほど嬉しかったことはないです、おかげで傘張りに身が入ると思います、心から感謝します」



   十 


 四谷に向かいだしてすぐ、クロの鳴く声が聞こえて義助は振り返った。二間ほど後ろにクロがいた。どうやらついて来たようだ。

「クロ、見送ってくれるのか」

 側まで行ってしゃがんで話し掛けると「にゃあ」と鳴いた。頭を撫でてから、

「じゃあまたな」

 と言って別れたが、歩きだすとやはりついて来た。

「そんなについて来たいならウチに来るか」

 義助がそう言った直後、

「クロ~~、クロの大好物のにぼしがあるぞ~~」

 と男の声が聞こえてきた。クロはくるっと回って背を向け身軽に夜道を駆けていった。義助はその姿を悲しげに見送ったのだった。


「湿気た面してどうしたんだ」 

 同居人が堀に掛かる橋の欄干にもたれて佇んでいた。

「しばらくほうっておいてほしい」

 ニヤッと笑って同居人は言った。

「湿気たお前に飛びっきりの話があるぞ」

「はあ、どんなだ飛びきりの話っていうのは」

「驚くなよ、大家の横領が発覚したんだ」

「それは本当なのか」

 義助は目の色を変えて同居人に聞いた。

「本当だ、里の長がカンカンで打ち首が決まったんだ――――」

 同居人は興奮した様子でひと息に話した。

「――――里が飢饉から立ち直ってないとか、里への仕送りの金が足りてないとか全部嘘だったらしい、随分ため込んでいて、俺らひと月の間、休んでいいことになったんだ、嬉しいだろ、しばらく傘作りしなくていいんだぜ、お前はどうする、俺はこの足で里に帰って半月後に決まった打ち首を待つぜ」

 義助は少し考えてから言った。

「俺はこっちに残って部屋に積んである傘を張るよ」

 それを聞いた同居人は信じられない、といった顔になった。

「お前、傘の仕事あんなに嫌がってたじゃねえか」

 傘張りを始めたばかりの楽しかったころに戻ったんだ、と言いかけて思い直した。

「嫌じゃなくなったんだよ、変わったんだ」

「顔色も良くなって、まるで別人みたいだな」

 同居人は「おかしなこともあるもんだ」と言って嬉しそうに笑った。

「俺は里に帰るからよ、お前も打ち首に間に合うように帰って来いよ」

「ああ、そうする」

「じゃあな義助」

 同居人は別れを告げて歩いていった。

「行くか」

 歩きだした義助がふと見上げた先には、星の輝く新月の夜の晴れ渡った空があった。







   おわり

ここまで読んでいただいてありがとうございます。以前と作風がちょっと変わっていますが楽しんでいただけたら幸いです。 門松 

 

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