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1.千夜子

 千夜子は次の日も七時に目覚めた。滅多にないことで奇妙な心地がした。まだ一階の居間や洗面台をバタバタ歩き回る音が聞こえる。父と弟なのはわかっていたので、枕元の本を引き寄せて時間を潰す。

「だから、お前が」

「もう朝からやめて」

 一階から聞こえる会話の断片だけで、千夜子は縮み上がる。私のことだろう、と察する。こんなのは日常茶飯事で、でも全く慣れることがない。しばらく固まっていると、弟の秋也(しゅうや)の「行ってきまーす」という声。

「千夜子! お前三十にもなって母親を困らせるなよ!」

 父が今度こそ自分に向かって言った。千夜子は胸をナイフで一突きされた心地になる。三十にもなってーー。

「何の役にも立たねぇ癖して、家にへばりつくな!」

「お父さん、やめてよ! 千夜子は病気なのよ!? ちゃんと病名が……」

 母親の声が小さくなっていく。どこかに移動したのだろう。病名、と母は言うが、多分発達障害のことだ。発達障害は病気ではなく障害なのだが、もう六十歳に差し掛かる母には似たようなものに感じるのかもしれない。千夜子は布団の中に潜った。自殺未遂をしたのが二十七歳(?)発達障害と診断されたのが二十九歳(?)そういう時間の感覚も、千夜子は実感できないし今でも計算が難しい。ぐちゃぐちゃの文字で書いた病歴メモは移動を繰り返し、たまに思い出させるようにゴミの山から出てくる。発達障害と知らされた時は、一瞬目の前が明るく開けた記憶がある。だけどーーと千夜子は思う。この里田家では、こと父と弟の前では、障害など理由にならないのだ。千夜子は本を読むのが好きだった。昔はもっと好きだった。今は、三回同じ行を読んで、それが頭に入ってくるか来ないか、程度の脳になってしまった。脳は修復不可能だ。ーー自殺未遂の前後で、頭はおかしくなってしまった。そして、今も追い詰められた時の記憶がこびりついて離れず、フラッシュバックを繰り返している。

「千夜子」

 母が優しく呼ぶ。

「もう二人とも行ったから、降りておいで」

 千夜子はのっそりと、でも素直に立ち上がった。将来に対する不安、恐れ。それらも常に付きまとう。生活している中で、常に心臓が震えているような不快な感覚がする。ジュワジュワという音でもって、心臓が縮んでいく感覚に陥ることもある。

 脳、心臓と来て、今度は手だ。手が震えることがある。水の入ったコップを自室に運ぼうとして、一度階段にぶちまけてしまった。両手が震えたせいだ。震えるな、震えるな、と両手を見る。見続けていると余計震えて、パニック状態になる。それで結局ぶちまけた。それを運悪く弟に見られて、叱責された。

 ただでさえ水を零したことにショックを受けていたのに、怒られて思考停止状態に陥り、その日は自室に篭って、布団の中で体を折りたたんで懸命に堪えていた。脳の、心臓の、手の、変化の行方について、一生このままなのではないかという恐怖に襲われ、捌け口である母に縋りつきたい気持ちでいた。でも今日は弟が家にいるーーと絶望して、ああ、なんて味方が少ないんだ、と冷静にも思った。この世に私を憐んでくれるのは母だけ。安らぎをくれるのは母だけーー。

「ほら、千夜子、見て見て」

 一階に降りていくと、母が小さな鉢植えを手に持っていた。千夜子は気怠げを装ってそれを見る。

「育ったね」

「育て方がものをいうね。膨らんできた」

 さっきの一幕はなかったことにされていた。平和が戻ったーー千夜子はそう思う。母の手の中の二十日大根は、根元がほんのりと赤く膨らんでいる。

「ねぇ、千夜子。体調、悪くなければさ、今日少し散歩しない?」

 千夜子はテーブルにつく。そして、自分の胸の辺りにフラッシュバックの断片がないか確かめる。そんなことをしてもあまり意味はない。突然やってくるのだから。でも母と散歩はしたかった。もう何日、病院以外で外に出ていないかーーこの辺の時間の感覚も千夜子の苦手とするところだ。何がいつ起こって、何日間続いたか。ふと思った。日記を書こうか、と。文字がぐちゃぐちゃなのは百も承知だったが、記録はするべきなのではないか。そう思った自分にハッとする。今日はかなり体調がいいのではないか。

「……お母さん、ノート欲しい」

 母がこちらを見つめる。

「いいよ。買ってくるね。どんなの?」

「Aのやつ、文字が大きく書けるやつ」

「わかった」

 千夜子は朝ごはんにお茶漬けを食べて、しばらくテレビの前でぼんやりしていた。テレビは何も映しておらず、見つめるのはテレビに映る母の背中だった。庭の開いたガラス窓から、小さな熱気を含んだ風が入ってくる。九月……今日は九月何日か。千夜子は電話台の上にあるカレンダーの存在を、今初めて気づいたように見つめた。


 母はその後すぐに出かけていき、近所のホームセンターでノートを一冊買ってきてくれた。A罫のキャンパスノートだった。

「ありがとう」

「千夜、それ、何を書くの?」

 母がそれとなく聞いた。千夜子は「文字の練習……」と答える。

「そっか。文字も、書かないとどんどん書けなくなるからねぇ。頑張れ」

「うん……」

 もう書けない、と言いたい気持ちはあったが飲み込んだ。何もかも言葉にして母に押し付ける癖が千夜子にはあった。困っている私を見て、困ってる私を助けて、困ってる私を守って。だけど今日は、何かが違う気がした。

 書こう、書こう……。いい思いつきだった。そうだ、今日から、今日から何かを始めてみるんだ……。

 六時頃、大学から帰った弟と、その次に八時頃帰ってきた父と、千夜子はどちらとも顔を合わせなかった。夕食は五時頃食べた。母の作ったけんちんうどんを急いで食べた。そして急いでシャワーを浴びて、急いで歯を磨いて、よくわからない薬を飲み、階段を上って、自室の煎餅布団に入り、買ってきてもらったノートを見つめる。A罫のノート。シャーペンを持ち、紙の表面に押し付ける。ゆっくりと引く。ミミズののたくったような線が描かれる。

「今日から日記書く」それだけ書くのに、何分費やしたのか、それも千夜子はわからなかった。

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