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彼女たちの序章

 精神病院の入り口の側にある駐輪場には、錆だらけの自転車が三台置いてある。誰かが永久に放置していったのだろう。しかし最近、たまにニ台になっている時があるので、誰か使っている可能性が出てきた。藤白美記は病院のデイサービスに通いながら、じいっと観察を続けている。

 

 谷舞桂花はこの病院に通院していたが、自分が病気であるとは思っていなかった。だからかなり投げやりに通院している。医者に相談することもなく(だって何を言えばいいの?)、処方された薬もかなり適当に飲んでいる。三日飲まなかったりしている。特に意味はなく。そんな桂花は目下のところ、職につくこともなく、ただ妄想のみ(本人は妄想だと思ってはいない)信じて生きている。この地球はある日突然終わるとお告げがあったので、あんまり頑張る必要はないのだ。

 

 受付で名前を呼ばれた時、さとーだ、ちょこ様、と聞こえて、うわあ、蟻が沢山寄ってきそう、と里田千夜子は少し笑った。その顔を付き添いの母に見られないようにした。今笑ったことを大袈裟にされたくなかった。病人は病人らしくしていなければならない。心配して、優しくしてもらわなければ、千夜子にとってこの世界は強すぎる。母が千夜子の手を引いて、受付に向かう。千夜子の代わりに母が「里田千夜子」と名乗る。受付で名前を名乗るのが決まりになっているのだが、千夜子本人は一度も名乗っていない。

 あれはもう何年前のことになるだろう? この世界が暗闇に支配されたのは? 他の手段が取れなくて、結局、死に向かったあの時のこと。千夜子は考えまいとしているけど、何度も何度もあの場面がフラッシュバックされるので、その度に壁を殴るようにしている。だから、ほとんど外出できない。いつフラッシュバックに支配されるかわからないからだ。状況は一進一退、いや、全く進展していない。千夜子の時は止まったままだった。

 母の手を握りながら、千夜子は病院を出た。次の通院は二週間後。何の意味があるのだろう? 何も喋らず、ただ医者の前に座っているこの時間。何か変わると期待しているならそれは無理だ。千夜子は何も喋れない。喋ることができても喋らないだろう。自殺未遂をすると、こうやって何年も何年も皆が心配し続けることになるなんて。心配無用だ。あんなこと、二度と絶対にしないしできない。それはただ単に死が恐ろしいからだ。自殺未遂をした人間が、実は死を恐れているなんて、皆は想像できないらしいけれど。母がこちらを見る。母の目尻に皺が寄り、口の端が上がって、口周りにも皺が寄ると、千夜子はふと恐ろしくなった。母はあと何年生きているだろう? 

「千夜ちゃん、どうする? コンビニ行ける? ジュース買う?」

 千夜子のフラッシュバックは時と場所を選ばないので、母は気遣ってくれる。千夜子は首を振った。今日はもう疲れた。家に帰りたかった。

 二人はふらふらと車へ戻って行く。駐輪場を通り過ぎようとして、千夜子は横倒しになった三台の自転車を見た。風化していくそれらを見ていると、母がその視線に気づいて話し始める。

「面白いんだよ、この自転車。古いのに全部ダイヤル式の鍵がしてあるの」

「うん」

「しかも時々一台いなくなるの」

「何で……?」

「さあねえ、病院が何かやってるとは思えないし……イタズラかなぁ。面白いでしょ」

 千夜子は頷く。確かにちょっと面白かった。

「ここは何でも起きそうな場所に思えるよ、ママには」

「何でも……」

「千夜も変わっていくよ」

 千夜子の胸は不意に苦しくなった。こういう言葉をかけられるのは苦手だった。無理なのに、一番身近な人が無理とわかってくれないのがとても辛い。期待しないで欲しかった。

 二人は車に乗り込み、母がハンドルを握る。車窓から見えるのはもくもくとした入道雲で、九月に入ったというのに、変わったのは朝に吹く風だけだ。少し澄んだ風が吹くのだ。千夜子は大抵昼頃起きるのだが、最近三日連続で朝七時に目が覚めたので、それがわかった。

 車で二十分ほど走って自宅に戻る。自宅には誰もいない。皆には皆の生活がある。父と歳の離れた弟がいないのは、心の平穏にとっては重要なことだ。

 味方は母だけ。三十歳になっても、母は千夜子の最大の庇護者なのだった。


 藤白美記はチラシを丸めた棒を掴んで何か作ろうとしていた。作業療法士の君島は、「それは、へび?」と聞いた。

「いいえ、これはへびではありませんよ。これは棒です」

「うーん、藤白さん、それはわかるけどねぇ」

「いいえ、君島さんはわかっていませんよ。見えるものは見たままの場合が多いんですよ」

 頭の薄くなった君島はグイーッと伸びをした。

「そうかぁ~?」

「はい。だって、コップの水が減っていたら、それは誰かが飲んだのだろうし。それを君島さんはコップがお茶碗なのか、と聞いているようなものですよ」

「ううーん? そうなの? 難しいよ、藤白さんの話は」

 美記の話の理屈はさっぱりわからなかったが、君島はそれなりに面白そうだった。美記と君島はこの作業室では歳が近く、なかなかいいコンビなのだ。

「ところで、君島さん。物語は読みますか?」

 美記が言い出したので、君島は面白そうに目を見開いた。

「へえ、藤白さんって本読むんだっけ? 初めて聞いたよ」

 美記はいつもの平板な様子で、

「この前初めて読んだのです。わたしは、本を読んだのは大昔でしたから、難しかったですけれども、読みました」

「何を?」

「『そして誰もいなくなった』」

 美記は心持ち誇らしそうに言った。君島は内心満面の笑みだった。美記が何か新しいことにチャレンジする気持ちになれたのは嬉しい。

「ああ、アガサ・クリスティーね。凄いじゃん。ミステリーか。どうだった?」

 美記は棒をねじねじにして(へびだろ、と君島は思った)、口元を喜びに震わせている。

「それは、言えないのです。言ってしまうと、お話がわかってしまうので。君島さんのためなのです」

 君島はニヤニヤを抑えきれなかった。色々な感情の混ざったニヤニヤだった。

「じゃあ、今度読んでみるよ」

 なんて、かつてミステリーを愛読していた君島には基本中の基本の作品だったのだが、美記のためにそう言ったのだった。


「谷舞さん、最近はどうですか?」

 五十代くらいに見える内垣先生はそう言った。

「最近……別に普通ですよ」

「薬は飲んでますか?」

「まあ……はい」

「眠れてますか?」

「んー、まあ、別に、フツーに」

「谷舞さんは、一度入院してますね。五年前。前任の太田先生の時に。そこから何か考えが変わったこととかありますか?」

 桂花は「どう答えたもんかなぁ」と考えていた。内垣先生は桂花の何かを疑っているのだ。

「考え、って言っても、人に言うようなことじゃないですよ」

「谷舞さん、詮索する気はないんですけどね。あなたは入院する前、事務のお仕事をしてらして、入院してからパッと働く意欲がなくなったみたいなんですよ。体力的なところは問題ない。薬で体調も安定している。入院で世界観が変わったようです。一体どう変わったのか。どうもそこを突き止めないと、あなたの社会復帰に繋がらないと思いましてね。ご家族も心配されてる」

 桂花は「あんのモンスターばばあ、でしゃばりやがって」と思った。私の付き添いに来て、しれーっと診察室に居残って、何か吹き込んだな。そういうとこだけおせっかいだなー。

「じゃあ、逆にお聞きしますけど、何が原因だと思います?」

 桂花は混ぜっ返した。と言っても、半分本気で聞きたかった。医者はどう考えるのだろう、と。

内垣先生はメタルフレームの眼鏡の縁を触って、少し間を置いた。

「……私はね、谷舞さん。あなたは五年前の入院の時、あちら側に行ったのではないかと思ってますよ」

 桂花はきょとんとした。

「……何ですか? それ」

 その反応を見て、内垣先生はにこにこ笑った。

「お構いなく。ああ、谷舞さん、ご家族は大事にね」

 もう意味がわからん。どうしちゃったのさ内垣。桂花は心の中でその人のことを考える時、基本敬称は略である。

 狐につままれた顔で診察室を出た桂花を、送迎役の母が不機嫌そうな顔で迎えた。

「どうだったの?」

「何が」

「先生はなんて言ってたの、って」

「知らんわ」

 母は眉を寄せた。「お前さぁ」

 桂花はぶすーっとして、母を追い越して歩く。馬鹿らしい、全く。

「私は病気じゃありません」とその顔に書いてある。だけど、この病院にかかる人の全てが、どこか等しく歪んでいるのだ。桂花には自分のことがわからない。わかっているのは、地球はある日突然終わるということだけだ。

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