ミーシェ・クロイツ
■黒猫とミーシェ
ミーシェの家はオイゲンの西、町外れにある大きな戸建てであった。もとはそれなりに裕福であったことが窺えるが、手入れが行き届いていないらしく草木の生い茂ったレンガの壁や石柱を見たところ、今は裕福でもないのだろう。
俺とヘルシカがミーシェの家を訪ねると、ミーシェは当然いい顔をしなかった。
「どっか行ってなの」
と門前払いされた。しかし、ヘルシカが仲直りのために俺をしばらく貸すと口にすると、ひょっこりと扉を開けるあたりチョロいものであった。
「……本当に?」
「うん。仲直りの印」
「よろしくな、ミーシェ」
「ふあああぁぁ! 猫がミーシェの名前を呼んだの! すごいの!」
「あはは! よかったね! ミーシェ!」
ミーシェは大喜びし、メアリーも喜ぶミーシェを見て嬉しそうにしていた。
「それじゃあ、私は帰るね。ユーリのことしばらくよろしくね?」
「もちろんなの!」
ヘルシカはミーシェに笑いかけると踵を返す。そして、去り際に俺へ目配せしてきたので俺は静かに頷いた。
「さあ、猫ちゃん。ここがしばらく猫ちゃんのお家なの」
「おお……?」
ミーシェに抱かれて家の中へ入ると、荒れ放題の外観に比べて中は中々に綺麗であった。一階は大広間とリビング、そしてダイニング。二階には空き部屋が二つと物置部屋が一つに、ミーシェの部屋が一つ。やはり、もとはかなり裕福な暮らしをしていたのだろう。家の中にある調度品は、それぞれそれなりに値の張るものばかりであった。
俺はひとしきり家中を案内された後、リビングにあるソファにミーシェが座り、その膝の上に俺が乗せられていた。
「ふふ、モフモフなの。可愛いの」
「ふにゃあぁぁ……」
やだ……この子やっぱり撫でるのうまい。
そんなこんなで俺はミーシェの家を満喫していたのだが、そこではたと気づく。
あれ? 俺はここでくつろぐためにいるんだったけ? いや違うだろ。
「猫ちゃん? どうかしたなの?」
「あ、ああ……いや……」
俺はしどろもどろになりつつ、本来の目的を思い出す。そう――俺はミーシェの心の問題を解決するために来たアニマルセラピストなのだ。ミーシェの膝の上で、「ふにゃあぁぁ」などとくつろいでいる場合ではない。
俺は改めて家の中を見回す。ミーシェに案内してもらっている時からそうだったが、この家の中にはミーシェ以外に人の気配がしない。それどころか、ミーシェ以外の人が生活していた痕跡すらないのである。つまり、長い間この家にはミーシェしか住んでいないのではなかろうか。この真相を知るには、ミーシェに聞いてしまうのが手っ取り早いのだが――その質問がミーシェにとって地雷であるのは日を見るより明らかである。
さて、どうしたものかとミーシェに撫でられながら考えていると――コツンと窓の方から物音がした。反射的に目を向けると、二回三回と外から窓に向かって何か投げられる。
その度にコツンコツンと音がなり、気づけば俺を撫でていたミーシェの手が止まっていた。顔を見ると、とても悲しそうな表情を浮かべていた。
「またか」
ミーシェの周囲を浮遊していたメアリーはそう呟き、今にも泣き出しそうなミーシェを慰めるように短い手で彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、ミーシェ。何があってもボクがミーシェを守ってあげるからね」
「……」
俺はその光景をコツンコツンという音が鳴り止むまで見ていた。やがて、音が止む頃には疲れてしまったのか、ミーシェはソファの上で眠っていた。
「ふふ、よく眠ってる」
メアリーは眠っているミーシェを見てそう呟く。
「なあ、メアリー。さっきのなんだったんだ?」
「ん? ああ、あれは石だよ」
「石?」
「うん。毎日欠かさず、窓に向かって石を投げてくるやつがいるんだよ」
「はあ? なんだそりゃあ」
「ボクがこらしめてやりたいんだけど、ミーシェがダメだって言うんだ」
「……メアリーはミーシェが石を投げられる理由とか知ってるのか?」
「ううん。ボクは知らないよ」
「そうなのか」
俺は少し思考を巡らせた後、先ほど疑問に思ったことをメアリーに投げかける。
「じゃあ、この家にミーシェしか住んでない理由とか知ってるか?」
「それも知らなーい」
「……」
こいつ何も知らないじゃん。俺は心の中で毒づいた。
「今、こいつ何も知らないじゃんって思わなかった?」
「……思ってない」
「今変な間があったよね? 完全に思ってたでしょ? あのね? ボクはミーシェの親友だよ? ミーシェが辛い時、側にいるのがボクの役目なんだ。それ以上でもそれ以下でもないんだよ」
なるほど、要は「至宝である自分にはその辺の事情は諸々関係ない」ということなのだろう。親友と言っておきながら、中々に白状である。
「う……ん? ミーシェ……寝ちゃってたの?」
「!」
ミーシェが起き上がったので、俺はすぐにミーシェの膝に乗った。
「あ、モフモフなの……可愛いの……」
「ふにゃああぁぁ」
ミーシェは寝ぼけつつも膝に乗っている俺を撫で始める。
どうやらミーシェには何かいろいろとありそうだが、とにもかくにも今はアニマルセラピーである。
夜。ミーシェとメアリーが寝静まった頃合いを見計らい、俺はミーシェの家から抜け出した。
ミーシェが俺を抱きしめながら寝た時は、窒息死するかと思ったがなんとかに抜け出せた。メアリーは夜中、休眠状態に入るのか完全に動いていなかったため、割とあっさと外まで出てこれた。
さて、なぜ俺がわざわざ外まで出てきたのかというと――。
「やあ、ユーリ。元気だね?」
ヘルシカに会うためである。
彼女は月を背景に港にある桟橋に腰を下ろしていた。俺は彼女の隣に腰を下ろす。
「まあ、なんとかな」
「アニマルセラピーの方は順調?」
「よく分からない。とりあえず、お前に言われた通り側にいて、撫でられたりしてるけど……こんなんで本当に心の問題とやらは解決できるのか?」
「さあ? 無理なんじゃないかな」
「無理なのかよ」
「ただ側にいるだけじゃ普通のアニマルセラピーと一緒でしょ? それじゃあ時間がかかりすぎ」
「側にいるだけじゃダメってことか……セラピストの道は険しいな」
「それで? 彼女のことでなにか気になったことはない?」
「そうだなぁ」
俺はミーシェの家で気になったことをヘルシカに伝えた。すると、ヘルシカは「それだけ?」と唇を尖らせた。
「なんで親がいないかとか、そういうことは聞かなかったわけ?」
「聞けるかぁ! どう考えても地雷だろ!」
「私だったら聞くけどね」
「お前に人の心はないのか? 猫の俺でも遠慮したんだぞ」
「だから君、猫じゃなくて人だからね?」
「そうだったぁ……」
「となると、私の方が彼女に関することは知っているみたいだね」
「そうなのか?」
「うん。君が彼女の家でにゃんにゃんしている間に、彼女のことを調べていたからね」
「とても悪意を感じる言い方だ……」
「気のせいだよ。それじゃあ、私が調べた彼女の情報を共有するね」
ヘルシカはそう言って、懐からメモ帳を取り出す。
「一応最初からいくけど、彼女の名前はミーシェ・クロイツ。今年で十五歳だって」
「やっぱり、そのくらいの年齢だったか」
「彼女のお父さんはオイゲンにある国営製鉄所の所長だったみたい。お母さんは専業主婦で、かなり裕福な生活をしていた感じだね」
「へえ、国営製鉄所の所長ってすごいな。道理で立派な戸建てだと思った」
「だけど、二人とも彼女が十歳になる前に亡くなってる」
「……」
だから、家にはどちらもいなかったのか。
「ちなみに、なんで亡くなったんだ」
「……正直、あまり気分がいい話じゃなくてね――一言で言えばいじめだよ」
「いじめ?」
「オイゲンに来た時、環境汚染のせいで漁業が衰退した話はしたでしょ? その環境汚染の原因が製鉄所から出た廃水だったんだ」
「その廃水で海が汚染されて魚が獲れなくなった……だから、その責任をミーシェの父親に追及した?」
「そういうことだね。町の人たちの怒りも当然といえば当然だからね。ミーシェのお父さんは町の人たちから糾弾されて、ほとんど村八分の状態になっていたらしいよ」
「引っ越すとかそういうことは考えなかったのか?」
「製鉄所の所長だからね……国の命令で動くこともできなかったみたい。とにかく、そんな状態が続いた結果――町の人たちの矛先が妻子に向いたんだ」
その後、心を病んでしまったミーシェのお母さんが自殺。それに続くようにして、ミーシェのお父さんも崖から身を投げたという。
「結果、製鉄所は稼働を止めて長く廃墟になっているって」
ひとまず、彼女を取り巻く環境は把握した。少なくとも今のミーシェは、オイゲンでかなり肩身の狭い思いをしているのだろう。
「そういえば、昼くらいにミーシェの家に石が投げ込まれたんだけど……あれって今の話が関係してるのか?」
「うん。どうもこの町の子供たちの間じゃ、あの家に石を投げ込むのは良いことになっているらしい」
「良いこと?」
「要は悪者退治のつもりなのさ。悪いやつには何をやってもいいと思ってるんだよ。だから、石を投げるんだ」
「……なんかミーシェが抱えている心の問題って、想像以上に重いんだな。軽い気持ちでなんとかしてやると思ってた自分を殴りたい」
「殴ってあげようか?」
「やめて! 動物虐待で訴えるぞ!?」
その後、俺はこっそりとミーシェの家に戻り、できる限りミーシェの近くで丸くなって眠りについた。
今まだ側にいるだけしかできないけれど、必ずなんとかしてみせるからな――。