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「何かお悩みでございますか、ジークフリード様」
閨でジークフリードの愛しい妻がそう囁いた。
閨と言っても、妻である九姫は現在妊娠五か月。だんだんと、腹が僅かに膨らんできたのが寝間着を着ているためにより分かりやすくなっていた。流石に男女の行為はせず、ただ寝ているだけだ。健常な夫婦であれば男側にそれなりの負担もありそうなものであるが、九姫はそのような気が無い時はいつも通りの十歳程度の子供の姿をしている。ジークフリードも、この姿の九姫に欲情した事は今のところ、ない。動作などでグッとくる事はあっても、下があからさまに反応する事はなかった。夫婦の夜を過ごす時は九姫はいつも男が……より正確に言えばジークフリードが最も好むような肢体に体を変化させて挑んでいたので、それとかけ離れた姿の今の九姫を見ても、ジークフリード愛おしさは感じてもそういう欲を抱く事はなかった。実年齢ははるか上の妻にジークフリードはしっかり躾けられていた。
「悩み……という程でもないさ」
「先ほどからずっと上の空です」
「……うぅん」
ジークフリードは観念したように唸った。ぽつりぽつりと事情を語った。
「なるほど。新しい側近の選定についてですか……」
「うん」
「ですがそれはいつか必ず言われる事と分かっておりましたよね。何故それほど悩んでおられるのです」
「…………私は」
ジークフリードは天井を見上げながら呟く。
「今の、ままでも。良いのではないかと……。…………確かに、他部署と比べても、私の所は少し忙しいかもしれないが、今は前ほどでもない。今のままでも仕事が回せるのだから、わざわざ側近を立てる必要等ないのではないかと、思うんだ……」
九姫は黙ってジークフリードの言葉に耳を傾けている。
「護衛も、近衛がいる。文官も、エルドガンは残ってくれているし、執務室の文官たちがいれば問題はない。…………そう、思わないか。九姫」
ジークフリードは横の妻の顔を見た。九姫は切れ長の目をそっと細めた。暗闇の中でも、人間のものとは違う瞳孔はなぜかハッキリと視認出来た。
「”そうすれば、前のような被害者は出ないのではないか”――そう思っておられるのですね」
「…………………………ああ」
たっぷりと沈黙を置いて、ジークフリードは頷いた。
九姫はジークフリードの腕の中にすり寄りながら小さな口を開く。
「ジークフリード様。閣下は何故、側近がいると思われたと思いますか?」
「……それは、一般的に、王には側近がいるものだからでは……? 或いは、エルドガンだけが側近と言われる状態が、あまりよくないと思っているのかもしれない」
国王という立場は例外として、貴族たちはどこか一か所に極端に権力が集まるのを嫌う。勿論、自分の所に権力が集まるのは歓迎するので、自分以外のどこかに、という話だが。
現状ジークフリードの側近と言われるのはエルドガンだけ。今の時点でユルゲンス伯は宰相の任に長くついており、持つ権力は大きい。次代でも同じようになるとなれば、いくらユルゲンス伯やエルドガンに瑕疵がなくても面白くないという者はいてもおかしくはない。
実際のところエルドガンには妖怪に誑かされたという瑕疵がついているのだが、それが批判される事は殆どない。なぜかといえばアリスによって彼らが魅了の術をかけられ誑かされたあの一件は、九姫を害そうとした事件という、関わりはあるが少し別の形の事件として大きく知れ渡っているからだ。表向きはジークフリードは敢えてアリスに関わり、九姫の命を狙う者をあぶり出した、という事になっている。演技にしてはジークフリードたちの挙動が可笑しかった事をあの現場にいた者なら知っているが、表向きこうだとされた事にわざわざ否を唱えるものはそういない。学院においても事件は大きく語られる事はなかった。ある日突然ジークフリードと側近候補たちとアリスが暫くいなくなり、ジークフリードとエルドガンの二人だけが戻ってきて普通に生活をし始めたのだ。そのうち戻ってこなかった側近候補たちがどう処分が下されたと噂が駆け回ったとはいえ、実際のところをジークフリードに尋ねる者はいない。万が一表向きの事など知らないとエルドガンを非難するものがいたとしても、そうすればジークフリードも同罪であり、ジークフリードも非難するような形になってしまう。結果として、エルドガンは色々な兼ね合いもあり、己の失態を深く追求してくるのは家族以外にいない状態になっていた。
「確かにそれもありますが、もっと大事な事がありますわ。そもそも側近が必要とされているのは、要るからです。お分かりですか?」
腕の中に潜り込んできた九姫が、間近で上目遣いになりながらそうジークフリードに言った。
「国王となるお方は一人しかおりませんわ。そして仕事の多くの関係上、この王宮から、広い国土を見なければなりません。勿論、全てを一人で完全に掌握するのは不可能です。それでも大きな流れは正しく判断せねばなりません」
「あ、ああ」
「本当の意味で発言を信じられる部下がどれだけいるか。これは重要な事です。また、他国との関係において時には離れた場所にいる殿下の意見を聞いている時間がない場合もありましょう。その時、しっかりと殿下の意を汲んで事態を処理できる部下が必要です。また護衛についても、甘いと思います。近衛兵たちはあくまでも王宮の警護、治安維持が仕事ですわ。勿論彼らとて目の前で殿下に命の危機が迫っていれば、命を懸けて殿下をお守りしなくてはなりませんが、どんな時でも殿下を一番に考え守る立場の者が一人もいないという事は、殿下の身の安全が保障されていないという事と同じです。……今一時はそれでよくても、これから先、殿下の治世は長く続く事になります。それを、宰相閣下は心配されているのです」
「……」
「何も、今すぐ側近を決めなくてはならない訳ではないでしょう。お互いの人となりをすぐに分かりあい、信頼しあう事は難しいですわ。まずは側近候補として己の傍で仕事をさせ、良いと思ったものを改めて重用すれば良いのです」
「……前のように、彼らにも危険が迫るかもしれないよ」
ジークフリードは九姫の頭に己の顔を埋めるようにしながら呟いた。
「そんな事、当たり前の事でございます。それを恐れて去るというのならそれまでの臣下ですわ」
九姫は、夫にそう告げた。
(そうなのだろうか)
ジークフリードは考えた。
(そういうものなのだろうか。……分からない)
それでも――宰相の真意が九姫が言うような所にあるのだとすれば、曖昧に、なあなあにする事は出来ない。
「九姫。明日、エルドガンと側近について話してみようと思う」
「良いと思いますわ」
「それで……君にも、その場にいて欲しいのだけれど」
「わたくしも? ……構いませんわ。お傍におります」
すりすりと九姫がジークフリードの胸に頭を擦り付ける。その小さな体を抱きしめながらゆっくりと意識を眠りに落としていった。
次の日。普段の仕事の内、急を要するものを朝早くに処理し、残りの仕事については執務室の文官たちに任せ、ジークフリード、エルドガン、九姫の三人は王宮の一室に集っていた。正確には九姫の傍にいつも使える双子のような童女たちもおり、ジークフリードらに飲み物などを用意して出してくれていた。
「それで殿下。側近の選定についてのご相談という事でしたが」
「うむ。……最初にエルドガン。私の話を聞いてくれ」
「はい」
九姫に昨夜聞かせたようなジークフリードの個人的な心のシコリについて話して聞かせる。エルドガンは神妙な顔で聞いていたが、ジークフリードの話を聞き終えると少し苦しそうな顔をした。
「……まず最初に。ジークフリード殿下、そして妃殿下、私は殿下をお守りするどころか、あっさり篭絡されてしまうような半人前です。本来であれば私のような立場で、口にするべきでない言葉も使う事をお許しください」
「構わない。篭絡如何については私は同罪なのだから」
「わたくしも、もう本当に気にしておりませんのであまり深く思わず言って構いませんわ」
「ありがとうございます。……妃殿下のおっしゃられている事は、全くその通りと思います。確かにあくまで事務的な、書類の、紙上の仕事で言えば現状人手は足りるようになりました。ですがそれは今だけであり、側近を選定するにしろ、しないにしろ、恐らく前までに近い状態に近々なる事になると私は考えています」
「と、言うと?」
「祖父は育てたい相手に対して、最初から完全に出来ない仕事を振るような事はいたしませんが……本人が本当に、ぎりぎりでこなせる、というラインの少し上の仕事を割り当てるのです。そしてその相手がその仕事をなんとかこなし、普通に裁けるようになったのなら、また許容範囲ぎりぎりで……という風に、出来る仕事の範囲や高さを少しずつ上げて育てる方です。殿下は祖父から見れば育てなくてはならない対象のはずですので、必ずまた無理難題と思えるような仕事を振ってまいります。今はほんの一時の静けさでしかありません」
孫である本人が、過去を思い出して若干遠い目をしながらそういうので、ジークフリードも九姫も何も言えなかった。加えて、また以前のような忙しさになるのか……とジークフリードは額に手を当てる。
「そして、このようなタイミングで側近の話を振ってきたのは、祖父なりの慈悲もあると思うのです。本当に忙しいタイミングで側近について考える余裕は、恐らくないかと思います。私も忙しい中で新しくやってきた候補に意識をどこまで割けるか……恥ずかしい話分かりませんし、恐らく側近候補も、最悪放置されるような状態では困り果てる事でしょう。だからこそ今の内にある程度の目星をつけて最低限の顔合わせなどはすませておくように……という、そんな意味合いで資料を持ってきたと私は思います。……ここまでが、私が思う祖父の思惑と、それについて私が思う事です。ここからは、私の個人的なお話になります」
ジークフリードはそっと、唯一人残った竹馬の友ともいえる友人を見た。
「殿下を狙う者が現れた時、それを遮り殿下をお守りするのは臣下の務めです。そして殿下が間違われた時、その道を正すのも、臣下の務めです。そのどちらも果たせなかった時点で、私も、ヨアヒムも、マゼルも、ハインツも、側近候補としては失格でしかありませんでした」
「エルドガン……」
「私は妃殿下や国王陛下のご慈悲により、不肖の身ながらこの立場を頂きましたが、本当はここにいるべきではなかったと考える事もございます」
「そんな事はない!」
ジークフリードはたまらず声を張り上げた。今この場には三人しかいないのだから、周りの目を気にする必要もなかった。
「エルドガンは本当によくやってくれている。お前がいなかったら、つい先日まで降りかかっていた仕事を捌く事など、私一人では到底出来なかった」
「ありがたいお言葉です。そのように評価していただけるだけでどれほどの事か……。……ですが殿下。私を、そしてヨアヒムたちを思って下さるのは嬉しい事ではありますが、だからといって己の事や国の事より、側近の安全等について考える必要はないのです。二つのものがあり、どちらかしか取れない時に……より多くのために判断を下すのが、国王という存在と私は思います」
ジークフリードはエルドガンの落ち着いた言葉に口をつぐむ。頭では分かっている。九姫の言葉も、今のエルドガンの言葉も。
けれど長年共に切磋琢磨し支えあって来た友人を一度に三人も失ったという事実は、十七しか生きていないジークフリードには簡単に割り切れるものではなかった。エルドガンも同じではあろう。それでありながら、あくまでも彼は臣下として、言うべき事をジークフリードに告げていた。それをジークフリードも理解した。
「お二人とも、少し紅茶をお飲みくださいな」
「九姫」
二人の前に、淹れたばかりだろう紅茶のカップが一つずつ置かれた。ジークフリードは横に座る九姫を見て、それから小さく感謝を告げて紅茶のカップに口を付けた。
「エルドガン様。わたくし、何も最初から側近として取り立てる必要はないと思いますの。エルドガン様も正式に側近となったのはまだつい先日の事。最初は側近を選ぶためという形で、幾人か候補を選ぶぐらいでもよろしいのではなくて?」
「私もそう思います、妃殿下」
エルドガンが食い気味に九姫の言葉に頷いた。
「その前提で、まず候補についてわたくしにも詳しいお話をお聞かせくださいませ。わたくし普段の政務を共に担っている訳ではありませんが、殿下の傍でどのような者が働くのかは気になりますの」
「ええ勿論でございます」
黙り込んでいるジークフリードを横に置いて、エルドガンは九姫の望みに答えるべく、ユルゲンス宰相が持ってきた側近候補たちについて書かれた資料を広げた。