王太子執務室の休息時間
結婚後の小話
ブリーカ王国、王都フォルバラ。
大国という名に相応しいブリーカ王国内でも一番の繁栄を誇る町の中央にそびえる王宮にて、王太子ジークフリードは日々の公務を処理していた。
九尾国から嫁いできた九姫と正式な夫婦となりまだ三ヶ月。結婚式の前、学院を卒業する直前に起きた騒ぎの後始末はあらかた終わっていたが、全て済んだ訳ではなかった。そのため現在王太子付きとして仕事をしている者は少ない。元騎士団長子息であるヨアヒムは専任護衛候補であった訳だが、他の二人は文官の候補だった訳だ。唯一残ったエルドガンが付いてくれているものの、一人で三人分の仕事をするのは難しい。部下がエルドガンただ一人な訳ではないが、重要度が高い者や最終確認はジークフリードがしなくてはいけないので忙しい事には変わりがない。
人手が少なくても仕事が減らされる訳ではない。むしろ学院を卒業し、公私ともに完全に大人となったとみなされたジークフリードの元には様々な案件が舞い込んできた。エルドガンが人手不足を宰相ユルゲンスに訴え、追加の人員を頼んだ。宰相はジークフリードの望みを聞き入れたが、人員の選定には時間がかかると通達が来ていた。ジークフリードは宰相が騒ぎでの事をまだ怒っていると解釈し、宰相の方から連絡が来るまでは人員増員の催促などは絶対にしない事にした。それでも毎日毎日締め切りは舞い込んでくる。人手が少ない事を理由に仕事を遅延させる訳にはいかないとジークフリードはより執務室に入り浸っては仕事をさばいていっていた。
王太子の執務室で仕事をする文官たちは上司が朝から晩まで仕事場に入り浸るために自分たちまで王宮に連日上がり仕事をするハメになりてんてこ舞いである。世が世なら訴えられかねない。
そんないつ部下たちから苦情が飛んでくるかという王太子の執務室だが、彼らにも一時の休息はあった。
「王太子妃殿下のお越しです」
執務室をノックする音と共に幼い子供らしい声が聞こえてきた。
文官たちは揃って救いが来たとばかりに顔を上げ目を輝かせる。ジークフリードは「入れ」と指示を出しながら手を止めることなくドアが開く音を聞いた。
執務室のドアが開き、二人の童女に付き添われる形で九姫が執務室に入って来た。九姫は腹部に手を添えながら歩いてくる。
一番ドアの側に近かった文官がすぐさま立ち上がると、執務室に置かれたソファへと誘導した。ソファの目の前には低いテーブルが用意されているが、その上には決済済みの書類が積まれている。文官は誰に言われるでもなく九姫を案内した後、彼女の目の前にあった書類を荷台に積んで提出するべく部屋を出ていった。ちなみにあの荷台は本来お茶やお菓子を乗せて侍女が運ぶためのものだ。あまりに書類の量が多く、一人で持っていくのは難しいため導入された。
空いた机に、童女たちが持ってきていたバスケットから次々に甘味を取り出していく。紅茶等まで取りそろえた所で九姫は未だに手を止めずに書類と向き合っている王太子執務室の面々に声をかけた。
「お八つに致しませんか?」
丁度、手にしていた書類にサインをしたジークフリードはペンを走らせるのを止め、顔を上げた。そして愛しい妻を見て、眉間などをぐりぐりと指で押して強張りをほぐし始めた。
ジークフリードが仕事を止めると次々に部下たちも手を止める。
ジークフリードが毎日執務室に入り浸るようになってからというものの、九姫は決まって午後に一度顔を見せるようになった。昼食すら仕事をしながら済ませる王太子執務室の面々にとっては貴重な癒しの時間である。
ジークフリードは腰を上げて部下たちに休憩を入れると宣言する。先程資料を提出しに出て行った部下には戻り次第別途が休憩を与える予定だ。九姫の座るソファに座った彼はそっと妻に腕を回すと頬にキスを落とした。そして九姫の腹を愛おしげに見下ろした。耳元で囁く。
「変わったことは?」
「そんなにすぐに変化は出ませんのよ」
九姫が苦笑する。彼女は今、第一子を妊娠していた。妊娠が分かったのはつい最近の事で、逆算すると結婚してすぐに妊娠した計算になる。この一報はまだ極少ない人にしか伝えられていなかった。それは九姫とお腹の子を守るためだ。
長らくブリーカの王族は国王、王妃、ジークフリードの三人しかいなかった。それこそ、ブリーカの王族は子孫繁栄の意味では呪われていると言われているほどだ。ジークフリードの誕生以降、そうした言葉は表立っては聞こえなくなったが完全に消えたわけではない。ジークフリードに子供が生まれなければ、王位継承者がいなくなるからだ。ブリーカの王太子として、ジークフリードと九姫は子供をたくさん作る必要があった。
そんな裏事情からジークフリードは仕事が忙しくても出来る限り王宮に帰り、九姫と夜を過ごすようにしていた。裏では王太子殿下はあのような子供の姿をした者を抱いているのか……と言われていたりする訳だが、ジークフリードはあえて聞かなかった事にしていた。
そもそも、九姫は妖怪であり、本来の姿は人ではない。今の十歳程度の姿形も化けている結果に過ぎないのだ。初夜、ジークフリードを迎え入れた九姫は普段の幼い姿ではない別の姿をしていた――が、そんな事はジークフリードだけが知っていれば良い事なので、外で話す事はなかった。
ともかく二人の頑張りのお陰が、こうして第一子の妊娠が発覚し、ジークフリードは夜のお渡りは減らして仕事に集中するようになったのだが、妊娠初期というのは流れやすい。それを身をもって痛感している王妃により、厳重に厳重に、緘口令が敷かれることになった。大国の王太子の子供だ。いくらでも命を狙われる理由はあった。九姫に反発している層も、ジークフリードたちが起こした騒ぎで罰せられてから静かになっているものの、ゼロではない。暗殺の危険性はとてつもなく高いのだ。それこそ、かつて王妃が妊娠した時と比べても遥かに危険なのだ。
そんな訳でジークフリードは隠しているが、実際のところ王太子執務室の面々はジークフリードの機微から察していた。ジークフリードの側近として妊娠のこと伝えられていたエルドガンがそれらを察しているだろう部下たちに先んじて釘を刺していたので、執務室の面々は揃って口をつぐんでいる。漏れたなどと疑いをかけられたらそれだけでもこれからの人生が終わりになる。絶対に匂わせる事もしないだろう。
「みなさんどうぞ」
「ありがとうございます」
九姫は人数分入れられた紅茶を執務室の面々に差し出す。紅茶を淹れるのは横に控える双子の童女たちだ。九姫の輿入れの時から彼女に仕えている童女たちは、主人同様姿が変わらぬまま十八年間この王宮で暮らしている。それを恐ろしいと考える者もいるが、愛らしい子供の姿をした彼女たちを癒しと思う者や、いつでも九姫の側に仕え淡々と仕事をこなす彼女たちを尊敬している女官なども多かった。執務室の文官たちは後者で、毎日日替わりで変わる服の変化を含めてこの愛らしい童女たちが来るのを楽しんでいた。もちろん九姫が来てくれるからこそなわけだが、主人であるジークフリードの妻に妙な視線は向けられないので、その分左右に控える童女たちに視線が向いた。勿論本気で色目を使っている訳ではない。ほんの少しでも癒しを求める程度に仕事が激務な事が理由の一つだ。
九姫はそっとジークフリードの顔を見上げる。
「お仕事は終わりそうですか?」
「……そうだな……エルドガン」
「今日中の物があとあれだけですね」
ついっと手で指し示されたのは机の上を占拠している書類たちだ。現実を再認識した文官たちはしおしおと元気を無くした草のように萎れた。九姫もそっと視線を下げる。
「まあそうですのね。では今夜もお戻りにはなられませんか」
「すまない。寂しい思いをさせる」
「気にしないでください。……人手の件、宰相閣下にわたくしから申しましょうか?」
「いや」とジークフリードは首を振る。「元の原因は私だ。宰相が許してくれるまでは誠意を見せねば。……お前たちには苦労をかけるが。何か不満があったらいくらでも言ってくれ。仕事は減らせんが」
そう言ってジークフリードが文官たちを見た。エルドガンは己が同罪だと知っているのでそっとジークフリードの視界に入らないように避けていた。
文官たちはこの執務室に配属されてから何度も聞いている言葉に苦笑する。
「いやぁ、不満はありませんよ。たしかに新人かと言いたくなるほど忙しいですが、新人がさせられる仕事よりはずっと待遇は良いですし」
「そうですね。新人はこんな休みも与えられませんから」
「懐かしいですねぇ……王宮中を駆け回されました。端と端の部署に届け物を頼まれた時は効率を考えてくれと叫びそうになったものです」
自分が文官見習いとして王宮に上がった頃を思い出し、文官たちはそう言葉を漏らす。王太子執務室に回されるだけあって、ここにいる文官たちは既に各部署で実績のある中堅の者たちだった。
対王太子や王太子妃であっても気後れした所がないのは、ここ三ヶ月共に仕事をこなしてきたためだろう。文官たちにとってジークフリードはある意味いくつもの難所を協力して乗り越えてきた同志のような存在となっていたし、九姫も最初は緊張したものの毎日訪れて会話を交わしていればいやでも慣れるというものだ。
もちろん公式の場ではこんな砕けた話をする事はないが、今は休憩の時間なので誰もそれを咎めない。
ジークフリードや文官たちの言葉を聞いた九姫はそうですか、と返すものの不服そうな顔だ。彼女は実のところ、未だにジークフリードがやたらと厳しく接せられ続けているのが納得できていないのだ。とはいえ自分は彼らの処罰に口を挟まないと宣言している手前、何も出来ないのだが。
「分かりませんわ。他の方はともかく、ジークフリード様とエルドガン様は術を自分で解呪されたのに何故更に罰を受けねばなりませんの?」
「他のものに示しが付かないだろう」
「祖国なら……いえ、郷に入っては郷に従えと申しますものね」
九姫はそう言ってため息をついた。魅了をかけられてそのまま落ちこぼれるなら笑いものにされるのは九尾国でもそうなので分かるのだが、魅了を自力で脱したならば精神力があるとして一目置かれるものだ。ジークフリードとエルドガン、二人が妖力など持たないただの人間である事を考えれば、凄い事だと褒められるだろう。
そんな不満を漏らしそうになりつつも、最初に処罰を国王に任せたのは自分なのだと律して九姫は口を閉じる。
横にいたエルドガンが、九姫の言葉で分からなかった事を問いかけた。
「その……ごうにいっては、というのはどういう意味の言葉なのですか」
「場所ごとに、決まり事というのはございますでしょう? 場所が変わったのなら、己が慣れ親しんでいるものだけでなく、その場所での決まりも守れ……とまあ、そんな意味合いです」
「なるほど……」
それから三十分ほど時間を過ごした九姫は、いつものように退出していった。ソファとテーブルにはまだ戻らぬ同僚用の紅茶とお菓子が用意されている。
「さて、やるか」
「はい!」
ジークフリードの掛け声に気力を回復させた文官たちが返事をする。
王太子の執務室の明かりが消えたのは、明け方になってからだった。