前編
この物語はフィクションです。
「中世ヨーロッパ【風】」の世界が舞台となっており、実際の中世ヨーロッパや貴族社会とは異なる部分が存在します。
「九姫! 君との婚約は、今をもって破棄とする!」
堂々たる風格で、そう宣言する婚約者――ジークフリードを、九姫は無感動に見返した。僅かな驚きはあったかもしれないが、婚約者から婚約を破棄すると告げられたにも関わらず、その様子に狼狽えた所は欠片もなかった。まるで最初から何が起こるか分かっているかのような、或いは何が起きても面白い見世物となると思っている様な……そんな様子である事に気が付いた人間が、どれだけいただろうか。
ブリーカ王国。
大陸の中でも大国として知られるその国の王太子の妃として、九姫が生まれ故郷からやってきたのは王太子の齢がまだゼロだった頃の事だ。
そもそも大国でありながら、当時ブリーカは王族の血筋が途絶える危機に瀕していた。
全ては現国王がまだ王太子だった頃に王国で蔓延した流行り病に端を発する。王太子は公爵令嬢だった王太子妃――現在の王妃――を伴って諸外国を外遊中だったために難を逃れたが、当時の国王から王妃から、王の血筋の流れる名門貴族までが病にかかり、命を落としたのだ。王太子たちが帰国した時には病は静まっていたが、彼は今まで王家を支えていた近しい貴族を殆ど全て失った状態で王の座につかねばならなくなった。
その後国王は立派に王としての務めを果たし、また王妃も立派に王を支えた。
ただし、結婚から十年。健全な夫婦生活を営んでいるにも関わらず王妃は子を産む事が出来なかった。度々子を孕むことはあったが、全て生まれる前に流れてしまったのだ。
当然貴族たちは次期国王が必要だと王に側妃を入れるように強く進言。王妃自身の要望もあり側妃が迎え入れられたが、そちらもまともに子を産む事が出来ぬまま周囲からの高まる圧力に狂い、側妃の座を辞してしまった。その後幾つかの貴族が娘を差し出してきたものの、全てが同じような結果となった。
王の子を孕む女はいる。けれど子供を産み落とす事が誰も出来ない。
王家は呪われている。そうまことしやかにささやかれていた頃、王妃が十数度目の妊娠を果たした。もうとうに子を産む年齢を越えていたため医者は危険だと訴えたが、王妃は子を下ろすことは絶対にしないと強く訴え続ける。
そして十月十日後、王妃は長年望まれた王子を産む。
生まれついての王太子ジークフリードの誕生であった。
長年国王を支え国を支え続けてきた王妃が産んだ、まごうこと無きブリーカの新たな宝。民は熱狂し、貴族たちも念願の子供――その上男児――の誕生を祝福した。
しかし国王は悩んだ。
国王、王妃共に高齢での初の子供。
ジークフリードが大きくなる前に、国王も王妃も儚くなる事は想像に容易い。ジークフリードは自分と同じように若くして即位するだろうが、その時に自分たちと同じように即位して国王となれるかは分かったものではなかった。地盤固めの問題だ。
一番の地盤である妻の家――外戚だが、現在国王が信頼できる臣下には娘がいないか、爵位が低めで争う相手が出てきかねなかった。
公爵家が一つでも残っていればよかったのだが、ブリーカ王国の公爵家は全て王族の臣籍降下等で出来た家と定められている。先の流行り病で王族の血をある程度の濃さで有する貴族は亡くなっている訳で、つまり王族の血が流れる公爵家は全て断絶していた。
現在貴族の最高位は侯爵。どこの侯爵が娘を出しても、恐らく熾烈な争いは避けられないし、伯爵以下の娘を持ち出せば「いや我が家の娘の方が相応しい」と騒ぐ家が出てくるのは確実だった。
それだけでなく、継承権を持つ者が多すぎても問題が起こる訳だが、国王と王妃は長年悩み苦しんだように少なすぎても苦しみが起きることが実体験として分かっていた。
ジークフリードには速やかに子を作る事が求められる事は間違いない。決定事項とも言える。本来それを行うのは国王であったはずだが、成さなかったためにツケはジークフリードに回ることになった。
更に父親である国王の例があるために、若い頃から複数の側妃を押し付けられる可能性もある。側妃の間での権力争いが収まるどころか熾烈を極めることは想像に容易い。
国内の貴族が黙認せざるを得ない相手が必要だ。外国の姫を貰い受ける以外道はないだろう。だが流行病のインパクトが強すぎるためか、他国からはジークフリード誕生祝いは送ってきたが、釣り合う姫を嫁にどうかという打診はさっぱり送ってこなかった。
そんなふうに悩み苦しんでいた時に国王の元に一つの書状が届いた。
それはジークフリードへ娘を嫁にやりたいという書状であった訳だが、その送り主を見た国王と王妃は大層驚く事となった。
九尾国。
九尾の狐と呼ばれる妖怪が支配する国だ。
この世界には人間のほかに妖怪という知的生命体がいたが、妖怪は殆どの場合人間が住めぬような厳しい土地を選んで暮らしていた。それが可能なほど体が強く、力を持っているのだ。ただ、様々に集落や国を作ってはいるがその文明は人間社会ほど発展していないと言われている。
そんな中、九尾国は人間社会と同等までに”国”という文明を作り上げている数少ない例であり、比較的人間の国とも付き合いを持っている国ではあった。
妖怪は人間が妖術と呼ばれる力を持つ。小さな集落や集まりならともかく、九尾国のような文明を築いた者たちが相手では、戦争で勝つ事はほぼほぼ不可能と考えられてきた。実際、九尾国に喧嘩を売り、手酷い被害を得た国は少なくはない。
故に九尾国に接する領地を持つブリーカ王国では百年ほど前から侵略をし合わないという約定を結び、その証として姫を相手の国に嫁がせ親戚関係を持つという約束が立てられていた。九尾国がこのような約定を結んでいるのはブリーカ王国以外になく、そうした事もブリーカが周辺国から一目置かれる要因となっている。
直近では約定に基づき、国王の姉が九尾国に嫁いでいる。彼女は国王以外では唯一流行り病に罹る事なく寿命で亡くなっていた。……ちなみに、ならこちらの姉の子に継承権が起きないのかという話になるが、残念ながらこの姉も子宝に恵まれることなく儚くなっていたのだった。閑話休題。
ともかくブリーカ王国としては無視など出来ない存在であったのだが、その九尾国から……国のトップである九尾の狐から直々に「娘を次期国王の妻としたい」という言葉が添えられていた。
実の所周囲に文句を言わせず、かつジークフリードの強大な後ろ盾になりえる存在として、国王も九尾国を頼る事は考えていた。しかしながらまさか向こうから申し出が送られて来るとは微塵も思っていなかった訳で、この申し出は青天の霹靂であると同時に渡りに船であった。
国王は二つ返事でこれを承諾。
半月後、文字通り山ほどの嫁入り道具を携えて、九尾国の姫である九姫という名の十ほどの齢にしか見えぬ少女がやってきたのだった。国王がジークフリードの妃として妖怪を受け入れたと聞き、反発する勢力も貴族にも平民にも存在したが、どんな者であれ王都へと入場してきたその盛大な嫁入り行列を見て否など言えるはずもなかった。年齢も、あくまで見た目がそうであるというだけで妖怪に人間のような年齢の価値観が通用するはずもなく、九姫は国王に十年以上前に亡くなったはずの嫁いだ姉を「友」と呼び、様子を語って聞かせたのだった。
ジークフリード、生後半年。
九姫、実年齢不明。
未来のブリーカ国王と王妃の出会いだった。
それから十六年。九姫は王太子の婚約者として、そして次期王妃として王宮にて暮らし続けている。
長い十六年だった。半ば無理矢理輿入れしてきた九姫を仇のように思う者はいたし、種族の違いを理由に排斥しようとする者もいた。けれど九姫は時には国王らの力を借り、時には己や連れてきた妖怪の従者の力のみでそうした者たちの思惑を退け続けてきた。
婚約者であるジークフリードとの関わりも忘れず、幼い頃はよき姉や大人として。そして彼が十ニを超えた頃からは一人の女として極めて節度を持った接触を行なってきた。あまりに幼い頃から一緒だったため、ジークフリードの九姫への感情は未だ家族愛を完全に脱し切れてはいないようだが、それも時間が解決するだろうと九姫は考えている。
そんな九姫には、最近悩みが一つあった。
「最近、ジークフリード様と会っていませんわ」
九姫のために誂えられた部屋で彼女はそう愚痴た。
普段から九姫の後ろで左右に控えている双子にしか見えぬ童女の妖怪たちは首を傾げた。眉の上で綺麗に切りそろえられた前髪と顎のラインで切り揃えられた髪が、綺麗に斜めに流れる。童女たちはちらと目を合わせてから主人に視線を戻した。
九姫はそっと太陽光の注ぎ込む窓を見上げた。晴れた空が広がっている。
「ひと月。ひと月もお会いできてないわ」
貴人らしい美しい指先が腹のあたりをゆっくりと摩っていた。夜は軽めにしようと童女たちが話し合う。九姫は脇息にもたれかかりながらため息をついた。
言葉の通りで、九姫の悩みとはジークフリードと会えていないことだ。
九姫とジークフリードは同じ王宮内に部屋を持つが、近くはない。次期王妃として確約していても、未だ結納していない身。未婚の男女が揃うのは外聞上よろしくないという配慮故のことだった。
ならばさっさと結婚をすれば良いという声も出そうだ。実際、九姫が申し出ている。九姫の感覚からすれば十二にもなれば立派な大人故、結婚は可能だった。
ただ息子の情緒がまだ結婚し、夫となり、父となるほど成熟しきっていない事を見抜いていた国王は、九姫にジークフリードが十七になるまで待ってほしいと願い出たのだ。九姫にしてみればたった五年程度、何の違いにもなりはしないためこれを承諾。結果、二人はジークフリードが十七になるとともに結婚をする事となっていた。ジークフリードは十六になり、この一年はジークフリードも九姫も結婚式の準備のために大忙しだ。
さらにジークフリードは学院に通う学生でもあった。
ブリーカに存在する学院は国が運営しており、歴代の王子王女もここで民と交わり学びを深めている。その前例に乗っ取りジークフリードはここに通っていた上に今年卒業をする事になっていたのでその忙しさは、九姫に比べても数倍であった訳だ。
それでもジークフリードは週に一度は二人で話をする時間を作る様にと九姫の元を訪れていたし、二日と日を開かず食事時には机を囲んでいた。
それが、このひと月とんと見ない。
「勉学が忙しいのでしょうか。体調を崩されていないと良いけれど」
同じ建物で暮らしているとは言え、王宮は広い。会おうと意識しなければバッタリ会うという事はほぼないのだ。
九姫は目を細め、手に持っていた扇でコンコンを影を突いた。
「ねえ、見て来てくれない」
影はゆらりと揺らぐ。九姫の形を模していた影がぐにゃりと歪み、まるで九姫の背後に何かが現れ肩の向こう側からこちらを見ている様な形となる。しかし実際の九姫の背後には何もおらず、当然彼女の肩越しに現れた者もいない。童女たちはその影の変化を見ても怯えた様子もなくつんとすました顔で立っている。
影はゆらりゆらりと揺らめいて、まるで駆けだすように九姫の影から飛び上がって部屋の外へと出ていった。
九姫の元から飛び出ていった影は誰に注視されたり咎められたりする事もなく王宮を駆け抜け外に出て、学院へとたどり着いた。
学院は王都の外れにある。ただの館と言うには大きすぎるものの宮殿にしては質素でシンプル過ぎる校舎は、学生が学問をするためだけに建てられたものだ。敷地の中央にある本館は貴族子弟が通う場所で二階三階と縦にも高い。一方で、その横に増設された別館は平屋建てで一階しかない。平民用である別館は、万が一にも貴族の子弟を平民の子供が上から見下ろしてしまうような環境を作り、争いの種にならないようにと考慮されていた。本館と別館をつなぐように建てられている建物は大食堂であり、平民貴族関係なく使用が可能になっている。
食事時であった事もあり、影はまず真っ直ぐにこの大食堂を目指した。
大食堂は人の子供で満ち溢れている。そのお蔭もあり大食堂の床を移動していく影に気を止める者は誰一人いない。
「ジークぅ!」
甘ったるい声がした。影はぴくりと視線をそちらに向ける。
大食堂の一角に、王太子ジークフリードはいた。
その周りには彼の友人という名の側近候補たちがいる。そのどれもがブリーカにおいて重役についていたり、高い位の貴族の子息だ。
宰相ユルゲンス伯爵の孫息子、エルドガン。
騎士団長エンダーレ子爵の息子、ヨアヒム。
ボルグハルト辺境伯の息子マゼル。
ホルツデッペ侯爵の孫息子ハインツ。
誰も彼も、影が把握している人物だ。しかしジークフリードの近くにいるのはそれだけではなかった。
「ジーク!」
「アリス、そうはしゃぐな」
ジークフリードが優しく声を掛けている相手は、一人の女子生徒だ。
珍しくもない茶髪の少女は嬉しそうに笑ってジークフリードの横に腰を下ろす。
学院ではできる限り、階級にとらわれず対等に物事を学ぶように定められている。そのため本来ならばそう簡単に近づく事が許されない王族であるジークフリードにも、貴族たちが話しかけることが許されている。だからジークフリードが友人たちと楽しく食事を取っている事自体は何か難癖をつけらるような事ではないのだが、流石に影は眉をひそめざるを得なかった。
ジークフリードの横に腰を下ろした女子生徒は、まるで恋人の如くジークフリードと触れ合っていたのだ。膝の上に手を当て、体を擦り寄り、楽し気に語る。あまりに親密過ぎる光景に九姫の従者である影は不服そうに唸り声を上げた。人で騒がしい大食堂でなければ気付かれる事があったかもしれない。
どうにも少女がこうしてジークフリードと触れ合うのはいつもの事らしい。本来ならばそれを咎めるべき四人の友人たちも何も言わず、むしろ素晴らしい事とばかりに受け入れていた。
影はゆっくりとジークフリードに近づいた。そして彼の影に隠れようと少し足を伸ばして……。
(!)
スッとすぐさま足を引っ込めると慌てて大食堂の天井のシャンデリアまで逃げた。シャンデリアの上で気配を出来る限り消して縮こまりながら下を見下ろせば、誰も何も気付いていないように楽し気にジークフリードたちは会話をしている。
影は暫くそれを見つめた後、音もなく大食堂を抜け出した。
夜になって、影は主人である九姫の元に戻って来た。
「ジークフリード様はお元気?」
部屋に戻ると即座に影の帰還に気が付いた九姫がそう問いかけて来る。影はこくりと頷いた。元気かどうかという質問ならば、間違いなく元気だっただろう。
「それは良かった」
九姫は微笑む。
しかし、その次に影から恐る恐る告げられた言葉には少し驚いたようで目を丸くした。
同じく影の報告を聞いていた童女たちが九姫を見る。
「いかがいたしましょう」
「処理いたしますか」
「……」
九姫は扇で顔を覆う。主の指示が出ないので従者たちは揃って何も言わず沈黙していた。
数分後、九姫はぱちんと扇を閉じる。
「放っておきましょう」
「よろしいのですか」
「ええ。人がどのような事をするのか、興味があります」
クスリと笑った九姫を見た童女たちと影は、主人の遊び癖が出たと嘆息して頭を下げた。