とある王の眠り
国中が、悲しみの海に沈んでいる。そう感じる程、男の眼下に広がる王都は静まっていた。
大陸に名高いブリーカ王国の王都フォルバラ。それが今は、こうも寂しい。
その理由は一つしかなかった。
男はフォルバラの中央にそびえる荘厳な城内を進む。城の中こそ、まさにこれが世の終わりとばかりに暗い顔をしている者ばかりで、いるだけで気落ちしてしまいそうだった。
男は首元に巻き付いている狐を一撫でした。狐は小さく鼻を鳴らして、そっと男の頬を舐めた。男はそれを嫌がる事もせず、小さく口角を上げる。
男の進む先に、姉がいた。姉は男に気が付くと、そっとカーテーシをする。男は軽く会釈をしただけだった。姉の背後に影のように寄り添う侍女は、考えの読めぬ瞳で男たちを見ていた。男はそれらを気にも留めず、姉の前を通り過ぎて部屋へと入った。
誰かの啜り泣きが聞こえる。
この部屋から広がった誰かの悲しみが、城全体に広がり、今や王都を覆っていた。
部屋の中央には大きな寝台があった。パッと見は大きさ以外、目立つものはない。けれど細部に施された装飾が、この寝台に寝る人物の位の高さを示している。
寝台の周りには様々な人間が集っていた。男、女。壮年の者、働き盛りの若者、まだ親の元を離れない年頃の青年、年上の家族と手をつないで連れられてきただろう子供、まだこの場で何が起きようとしているかも理解出来ない赤子。
多くの人々が寝台を囲み、そこで眠ろうとしている相手を見つめていた。
誰かがすすり泣いている。誰かがそれを慰めている。
彼らは男が足を踏み入れると、揃って顔を上げた。丸い瞳孔、縦に伸びた瞳孔、様々な瞳が男を見る。そして、男のためにとばかりに道が開かれた。
男は寝台のすぐ横まで進み出た。
大きな寝台には、一人の王が横たわっていた。
長い間、この国を治めてきた王だった。
民から愛された王だった。
民を愛した王だった。
けれどその治世の全てが順風満帆だった訳ではない。
王はいくつもの争いを乗り越えた。国内の争い、他国との争い。人間との争い、妖怪との争い。時には間違えた。時には非情な判断も下した。時には憎まれた。時には命を狙われた。時にはあと一歩で死ぬところまで行った。
それでも王は王として、立ち続けた。国と、国に住まう人々のために。
そして今、王はその人生という舞台に幕を下ろそうとしていた。
「陛下――父上」
男が声をかけると、王はゆっくりと瞼を開き、男を見た。
穏やかな瞳。
男は王の手を握った。骨と皮しかないような手だ。同じように、皺だらけの枯れた唇が震える。男はそっと王の口元に耳を寄せて、彼の遺言を聞き取った。男はしっかりと頷いて、父親と短い別れの挨拶を交わすと、そっと王の側から離れた。入れ替わり、男の弟妹達が次から次へと父の側に寄り添う。
壁際によって、男は自分の兄弟姉妹たちが父と別れを交わすのを見届ける。王の子供だけではない。王の孫である、男にとっての甥や姪たちも近寄っていき、更にその子供たちも王の側に集って声をかける。王は静かにその言葉全てに耳を傾け、短い別れの言葉を告げていった。
自分の子や孫たちとの別れを終えた王は、静かに最愛の妻の名を呼んだ。まさにそのタイミングを見計らったように、部屋のドアが開き、少女が現れた。少女が部屋の中に入ってくると、入れ替わるように次から次へと子供たちが、孫たちが、去っていく。他の人間全てが出ていった所で、男は壁から背を離して入り口へと足を向けた。やはり入り口に立っていた姉は、何も言わず室内を見ていた。男も振り返った。
少女は王の真横に用意されたイスに腰かけて、その干からびた手を握っていた。
この、王の孫にしか見えぬ年端も行かぬ少女こそ、王妃その人だった。男や姉や、男の弟妹たちを産んだ母親だ。
少女は瑞々しい自らの丸みを帯びた手で王の枯れ木のような手を撫でる。
男たちが知っているよりもずっと長く、王と王妃は寄り添って来た。それこそ、まだ王が幼く、少年と呼ばれるような時分の頃から、ずっと。
もしかすれば、王妃にとって王とは、夫であると同時に、弟であり、息子でもあるのかも知れない。
なんにせよ王妃が王を愛し、慈しみ、支え続けたのは事実だ。
「くひ」
その声は酷く柔らかくて、でもハッキリとしていて、入り口に立っていた男や姉の耳にも間違いなく届いた。男と姉は、静かにドアを閉めた。
藁のように弱々しい指先が少女の手を握る。その手を、少女は暖かな自分の両手で包み込んだ。
王の丸い瞳孔の瞳と、王妃の縦に細く伸びた瞳孔の瞳が、交わった。暖かな光が灯る。
王は唇を動かした。けれどそれは音にはならず、ただ喉から漏れた細い空気の音となった。けれどそれを聞いた王妃は優しく微笑む。王はそれに満足したように微笑んで、瞳を閉じた。
そして王は二度とは目覚めない眠りについた。
◆
空は青く澄み渡り、城門は開かれ、まるでその別れを祝福しているようだった。
城門の前、一台の牛車が止まっている。この国では馬車が一般的で、牛車を使っている人はいないだろう。王妃も普段は馬車を使っていた。
それが、今は牛車を使う。この牛車に乗って、彼女は己が祖国まで帰るのだ。
「行ってしまわれるのですね、お母様」
「ええ。そういう約束ですもの」
男は王妃を見下ろしていた。いや、父王の死と共に彼女はその位を下ろして、今は男の妻がその位を引き継いでいた。
父に代わり城の主となった男は静かに目を伏せ、しばし沈黙する。
「楽しかったわ、この数十年。ジークフリード様と過ごした時間。お前たちを産み育んだ時間。どれもかけがえのないものよ」
「わたしも、幸せでした。お父様とお母様の息子として生まれ、過ごしてきて」
「お前なら大丈夫ですよ。お前には侍従たちも、弟妹たちもいるんだもの」
まるで幼い子供のような目をする男に、少女は微笑み励ましの言葉をかけた。
いつまでもこうして喋っていたいと幼い子供のような望みを持ちはしても、男は告げる事はしなかった。
時間がきた。
男は少女が牛車に乗り込むのを手伝った。
「なにかあれば手紙を頂戴」
「勿論」
男は余計な事を言うのを抑えて、数十年己を見守り続けてくれた母に別れを告げた。
「さようなら、お母様」
牛車が走りだした。馬車より遥かに進みの遅いそれが一切見えなくなるまで男は城門に立っていた。
男の背後で、王城が沈黙していた。まるで、長い間その場にいた主を立て続けに失い悲しんでいるようだった。