狼獣人に勝手にご主人様認定されたので、仕方なく主しています (狼獣人視点)
前作の狼獣人視点となります。
前作を見なくても読めるとは思います。
この世界には枷持ちと呼ばれる生き物が存在する。自身もまたその一人である。生まれた時から刺青のような痣が首をぐるりと一周しており、それが能力を抑制しているのだと言われても生まれた時からそうなのだ。とりたてて不自由をした記憶はない。貴重といわれる枷持ちであるが、一定の割合で生まれてくるのだから枷持ちの友人知人もそれなりにいる。よく小説に書かれているような孤独ともそう縁はなかった。
この世界にはその制御を外す放ち手と呼ばれる生き物も存在する。ただ、自身には何の関わりもない生き物だと思っていた。枷持ちと放ち手のパートナー契約は基本的に主従契約になる。一部の枷持ちのように放ち手を侮蔑したり、放ち手を持つ枷持ちを嫌悪したりはしないがやはり関係のない別の次元の話だった。
今日、この時、この生き物を見つけるまでは。
「さて、マスター、ご主人様、主様、後はそうですね…我が君、などでしょうか。我が放ち手殿はどう呼ばれるのがお好みでしょう?」
本物の狼のように口の端から涎をたらしてしまいそうになるのをどうにか堪えて、万人受けする笑みを張り付けた。大体の人は、特に女性は私のこの顔に弱い。この生き物が頬を染めほう、とゆっくり息を吐く様はどんなに素晴らしいだろうと思っていたのだけれど。
「あ」
まさか、何も言わずにこちらも見ずに走る去るなんて。
「ふ、ふふ。く、ふ、はは…っ」
まさか、逃げられると思っているなんて! 尻尾が揺れているのが分かる、楽しい。楽しい、楽しい! ああ、あの人はこの楽しさを私に伝えるためにあんなに必死に逃げているのだろうか。あんな小さい体に強化の補助魔法をかけたってそう遠くへは行けないだろうに、可愛らしいことだ。人の波に紛れて見えなくなってしまった私の放ち手殿の匂いを辿りながら徐々に距離を詰めていく。すぐに小さな後ろ姿を見つけることができたが、どこまで行くのだろうとついて行ってみた。犬が主人に散歩して貰っているようである。楽しい。
「び、びっくりした、大きい街怖い、やっぱり田舎の方に行こうかなあ…」
「私はどこでも構いませんが、この街もほどほどに物流も安定しておりますし不便もそうないと思われますよ」
「ひ」
「ご主人様は補助魔法をかけるのがお得意なのですね、確かに肉体労働が出来ない訳でもなさそうだ」
「き」
「けれどそのあたりは今後、私が請け負いますよ。ご心配なく」
「きゃああああああ!」
やっとこちらを向いた私の放ち手は非常に、何というのだろう。とても良い。愛らしいとでもいうのだろうか。ああ、これは私の物であるのだなと確信した。私の、私だけの放ち手である。稀に複数の枷持ちと契約する放ち手もいるがこの生き物にその許可は決して出さないと誓った。
「あ、あの、あの、人違いです!」
「人違いとは」
「わ、私、貴方と会うのは今日が初めてですし! 放ち手になったこともありません!」
「偶然ですね、私もです」
「は!?」
「私もご主人様とお会いしたのは本日が初めてですし、放ち手を持つのも初めてです」
「…」
「…」
「誰かー! 変質者がー!」
私の放ち手は混乱しているらしく、きゃんきゃんと騒いでいる。子犬がころころと転がりながら甲高く鳴いているのと似ている。しかし興奮状態が続くのはあまりよろしくはない、さてどうしたものかと思っていると向こうから騒がしい足音が近づいて来た。
「はいはいはいはい、衛兵さんの登場ですよー」
それなりの装備にそれなりの実力があるような者たちがぞろぞろとやって来た。客観的に考えて、認めたくはないのだけれど私から私の放ち手を引き離す為なのだと理解できる。第三者からは泣き叫ぶ婦女に、大男が言い寄っているようにしか見えないだろう。まあ、だからといって、この程度の者どもに放ち手を明け渡すようなことはしないが。
「通報があってね、何の騒ぎかな?」
「お嬢さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないで」
「大丈夫です、何の問題もありません」
「うん、そっちのお嬢さんに聞いてるんだ」
「この方は私の主人です、私はこの方の従僕。枷持ちから放ち手を奪うなど、出る所に出れば皆さんの首が社会的に飛びますよ」
「法に明るくて何よりだ。じゃあ正式契約前の無理な勧誘にも刑罰があるの知ってるな」
恐らく放ち手であろう男が自身の枷持ちを横に付かせてにこりと笑うので、同じように微笑み返してやった。枷持ちが枷を外した後の能力は未知数であるが、それでもこの場で尾を巻いて逃げる訳にはいかない。一旦離れたとしても必ず見つけ出してみせるけれど、それはそれとしてこの生き物の傍に常にあらねば気がすまない。
「怖い怖い、正常な判断もできてないじゃん。ああ、君、見つけちゃったタイプ? たまにいるよねえ、困るんだけど」
「そうですね、見つけちゃったタイプです。私のようなのは面倒でしょう、放っておいて下さい」
「うん、放っておきてえ」
「隊長」
「うんうん、こっちも仕事だしね。まあともかく、そっちのお嬢さんとお話しさせてよ。悪いようにはしないからさ、そんな親犬が子犬隠すみたいにしないで。俺たちはお嬢さんには何にもないよ、落ち着いてもらうだけだから、ね。もうそのままで良いからちょっと顔出させて」
放ち手であろう隊長と呼ばれた男は先ほどとは違い気の抜けた顔でへらりと笑った。埒が明かないので少しだけ体をずらし私の放ち手を見せる。状況が把握できていていない私の放ち手はぷるぷると震えながら衛兵たちと私を見比べた。
「あ、あの」
「二三質問させてもらっていいかな?」
「え、あ、はい…?」
「この狼獣人の枷持ちと面識はある? 契約の約束は? 暴行されたりしてない?」
「め、面識はないです、約束なんてしてません! …暴行も、されてないけど」
「よし、じゃあ、見つけるタイプって分かる?」
「…いいえ」
さて、どうこれらを蹴散らそうか。あちら側には枷持ちが一人。放ち手を持つ枷持ちとそうでない者が戦わねばならない時には放ち手を害するのが常套手段である。あちらの枷持ちがじっとこちらを見据えているが、その視線を受けながら私は隊長と呼ばれた男から視線を外さなかった。いざとなれば、私の放ち手を抱えて奴を蹴り倒し走り抜けるか。こんな馬鹿な戦略しか考えつかなくて少し笑えた。
「枷持ちにも色々なタイプがある。話し合いで決めるタイプ、能力を見極めるタイプ、そんで見つけちゃうタイプ。俺たちは話し合いだが、君のその狼は見つけちゃうタイプって訳」
「はあ」
「そのタイプって一度決めると梃子でも譲らないの。主従契約って言ったって長い人生解消することだってあるけど、そのタイプは基本解消しない。絶対に離れないって執着も強い。昔々それで大都市が吹っ飛んだって文献もあるくらいだ」
「それって」
「この国は法治国家だ、さっき言ったように正式契約前の無理な勧誘には刑罰がある。けれど限界もある。ああ、ちょっと君、枷承認証あらためさせて」
タイプ別の解説を私の放ち手に懇々と行う男に若干の苛立ちを覚えながら枷承認証を衛兵に渡す。この国では枷持ちは十歳を過ぎると承認証の携帯義務がある。種族、放ち手がいない状態での最大魔力値、腕力値、脚力値、知能指数等々の個人情報が記載されたそれを、公的な者に求められた時に提示しないことは許されない。見せろと言われて見せたはいいが、見せろと言った側が大体顔をしかめるのでいつも多少の理不尽を感じる。
「うっわ…。…うわあ」
「え、あの?」
隊長と呼ばれた男は私の枷承認証をちらと見るや、顔を歪めてすぐに隊員に投げ返す。よくある反応である。
「まあ、ヤバい奴には変わりないんだけどさ正直もうここまでくると、主従契約しちゃって主人になっちゃった方がいいんだ。どんなに逃げたって君じゃ捕まえられちゃうし、主人にならないなら逆に良いようにされちゃうから」
「でも、私、あの就活中で」
「仕事探しに来たの? つまりまだどこでも働いてないんだ、良かったね。その枷持ち連れてたらどこでだって好待遇だよ」
「いやそうじゃなくて」
「親とか厳しい方? 枷持ちに偏見とかある? 恋人はいる?」
「それ必要あります?」
「あるよ、めちゃくちゃあるよ。そんな枷持ちに付きまとわれてまともに恋人と遊べると思う?」
「思いません」
「よし、ちょっと落ち着いてきたね」
「そうですね、ちょっとだけ。今がかなり大変な場面で、誰も私のことを助けてくれないことが分かりましたので」
「語弊があるけど、それだけ分かれば十分だよ。さて君、もう話終わるからどうやって俺たちを排除しようか考えるの止めてくれないか」
「そんなに物騒なことは考えておりませんよ」
「いえそんなお顔をされています」
「おや、ご主人様までそんなことを」
胡乱な視線を一瞬だけこちらに投げた私の小さな放ち手は確かに少し落ち着いたように思う。だからといってこの状況が一つも面白くないことには変わりがないので、さっさとこの場を離れて主従契約を終わらせてしまいたい。この生き物を自身のものにしなければ治まりがつかない。こんな衝動は初めてで、理性を無くすとはこのような酩酊を起こし、そうやっていずれの世にも馬鹿を起こす輩はつきないのだろうなあと他人事のように理解した。
「ほんとに、あの、ご主人様は止めて下さい」
「貴女様がそう仰るなら」
「よしよし、じゃあ俺らが証人になるからこのまま契約しちゃおう」
「は?」
「それは良い」
何だ話の分かる奴だったじゃないか。
「お嬢さん、お嬢さん。気を強く持って、大丈夫、大丈夫だから」
「こんなに大丈夫だと思えない大丈夫は初めて聞きました」
おい、私のものに安易に近寄るのではない。
結論を先に言うと、私は私の放ち手と主従契約を結ぶことができた。私の枷承認証には彼女の名前が放ち手として書き込まれた。自身にとって今まで何の意味も持たなかったカードが途端に輝いて見えてくるから不思議だった。
ご主人様と呼ぶと笑うように口を歪めながら器用に泣こうとするので、呼称は主様で落ち着いた。ご主人様も主様もあまり変わらない気もするが、そこは私としてもどちらでもいいので主の意思を尊重した。私の有能さを示すにはギルドで総合的に様々な仕事をこなせることを見て頂くのが一番の近道だと、その足でギルド登録を済ませた。主の宿は学生が良く使う安宿だったので、キャンセルし私がとっていた宿に連れ帰った。今日一日で様々なことがあり、疲れただろう主は最後の最後でまたきゃんきゃんと「一緒には寝ない」騒いだがきちんと諭すと分かってくれた。放ち手と枷持ちは一対なのである。傍にあって初めて完成するのだから、もう片時も離れなどはしない。性急だったことは認めるが、けれどそれこそ“見つけてしまった”のだから仕方がないだろう。
広いベッドで縮こまり寝ながらすんすんと鼻を鳴らす主が可愛くて、耳を慎重に噛んだ。獣人である私とは違う、毛に覆われていないすべすべした耳はグルーミングのしがいがなさそうだがとてもよく主に似合っている。起きてしまわないようにゆっくりと丁寧に舐めて口を離した。多幸感とはこういうことを言うのだろう、小さな柔らかい生き物をしっかりと抱いて一生離すものかと誓った。
―――
早いもので、あの運命の出会いから三年も経ってしまった。初めは一々きゃあきゃあと鳴いて愛らしかった主であったが、最近は特にそういうこともなく口を引き結び放ち手としての威厳(笑)が出てきたように思う。『私イヌ科なので散歩が必要なんですよね』と冗談で言ったことを真に受けた主のおかげで、仕事もなく外に出ない日は悪天候でなければ街をぷらぷらと二人で歩くことがあの日からの日課になった。
「ああそういえば主様、ギルドマスターが明朝来るようにと。お話があるそうです」
「またややこしいクエスト押し付けるつもりじゃないですか」
「私がいれば何の問題もないのでは?」
「そりゃあ、エヴァンさんならちょちょいのちょいでしょうけど」
手を繋いでも許されるようになった。
「私は行かなくてもいいんじゃ…」
「主様が行かないということは」
「エヴァンさんも行かないんですよね」
「そうなります」
「はあ」
傍にいることを当たり前だと認識してもらえた。
「明日がすごく面倒なので、もう今日はあれです。明日の為に奮発しましょう、美味しいご飯を食べましょう」
「そこで宝飾品やら服やら靴やら仰らない所が主様ですね」
「…子どもって言いたいんです?」
「まさか、私の唯一の方がお子様な訳がないじゃないですか」
不満気な表情も取り繕わず見せてくれるようになった。
「もういいです、ライリーさんのお店に行きましょう」
「彼の店には先日伺ったばかりですので、本日は私が作ります」
「本職の方と張り合わないで下さいってば」
「いやいや、ほら。主様が食べたがっていたカニクリームコロッケのレシピが手に入りまして」
「カニクリームコロッケ!?」
「彼の店にはないメニューですので」
「え、私の枷持ちが優秀過ぎる。私も手伝います」
「油を使うので駄目です」
「私のこと何だと思ってるんですか」
「主様だと思っております」
何より私を自身のものとして扱ってくれるようになった。最愛の飼い主に首輪で繋がれている犬はややもすればこんな感情なのかもしれない。まだ何かぶちぶちと文句を言っている主は別段特別に不器用ではないが、飛び抜けて器用でもないのでやはり揚げ物はさせたくない。というか、何もさせたくない。主の全てを世話したい。私がいなければ何もできない生き物になればいいのにと常々思っている。けれど。
「じゃあ油を使う前まで手伝います」
「ふむ」
「ふむじゃなくて、決定事項です。ホワイトソースくらい作れます」
「火を使うんですか…?」
「火くらい使わせてくださいよ…」
「ふふ、冗談ですよ。分かりました、一緒に作りましょう」
「はい」
この満足気な笑顔を見ると現状も中々に良いものだと思う。繋いだ手が少し大きく揺れだして主の小さな靴が機嫌良さように鳴る。彼女には尻尾が無いが、だというのにとても分かりやすい。
「あれ、でも、カニ手に入るんです?」
「この街は内陸地ですからねえ」
「大きな川はあるけど…あ、川のカニ?」
「さてどうでしょう」
やり取りが楽しくて、にこりと微笑みながらわざとはぐらかす。主は私の尻尾が揺れているのをちらと見てまた顔を歪めた。
「すでに当てがあるんでしょう」
「ふふ」
「エヴァンさん」
「最近では瓶詰魔法や物流魔法が進化しておりまして」
「つ、つまり」
「既にご用意がございます」
「私の枷持ちが最高過ぎる」
食べ物の話で目をきらきらとさせる主はただの食い意地の張った成人女性であるはずなのだが、生まれて二ヶ月程度のころころ転げまわり始めたふわふわの子犬のように愛らしい。私の少し硬い毛質とは違って柔らかそうな尻尾が似合いそうである。…そういった薬や魔法があった気がする。
「そうでしょうとも」
「最高過ぎるので、そろそろ放ち手をもっと良い人に代える気は…?」
「さて、そろそろ冷えてきましたし戻りますか」
「待って待って早い、早いです。ちょ、もう足が浮いてる!」
主を小脇に抱えて早足に歩き出す。決して走っている訳ではないが、こうしていると街の親切な人々が率先して道を譲ってくれるので助かる。慌てながらしがみついてくることにもなれた主は、それでも何事か言っていたが聞こえないふりをした。
私の放ち手は、私の唯一の主は未だ私から逃げられると思い込んでいる節がある。この三年で私の有能さを示したはずだ。衣食住を整え過不足がないようにしたはずだ。彼女が不快だと感じる物事は先んじて潰してきたはずだ。尽くしてきた、はずだ。だのに、この生き物はまだ、私を手放しても生きていけると信じている。それがあまりにも許し難く、腹の底から怒りが湧いてくる。
ああ、やはり悠長なことなど言わず、もっと私に依存するように仕向ける必要があるのかもしれない。手放すなど、離れるなど考えもつかなくなるようにもっと。そもそも既に主は私のことを憎からず思っているはずだ。それなのに何故こうも簡単にそんなことが言えるのか。
「ヴァン、ん…エヴァンさんってば!」
「…おっと、これは失礼。早く料理に取り掛かりたくて、つい」
「ついじゃなくて、もう。私今日あそこ寄るって言ったじゃないですか」
「あ、主様!」
あそこ、と指さされた店には見覚えがある。一瞬の隙をついて私の腕から逃れた主はぱっとそこへ走り出した。思考が中断されてため息が漏れるが主と離れておく訳にもいかずその背を追いかけた。
「何をお買い求めに?」
「これ、すごく評判が良いらしいです」
「良いらしいです、って、いや。主様、ブラシはもう何本も家にありますから」
「これが一番良いかもしれません」
「前も同じことを仰っていましたよ」
「前のもすっごく毛が取れましたけど、これはそれの上位版らしくて」
「そうなんですよう、ノーラさあん!」
新発売と書いてあるシールをペタリと貼られたブラシは以前、いやつい数週間前に買ったそれと何がどう違うのか分からない代物だった。顔馴染みになってしまった店員が主にあれこれと説明をしているが、結局の所あまり大差はなさそうである。しかし主は一生懸命にその説明を聞いては時折うんうんと頷いて目を輝かせている。この前、靴を新調して差し上げた時にその顔が見たかった。
「エヴァンさん、やっぱりこれは買いです。買わなければいけません」
「…前の物があります」
「以前の物とは違うんですよう。あれもハードタイプで抜け毛が一気に取れるのが売りなんですけど、これはそれに加えて地肌に優しい設計になっておりまして!」
「ほら、店員さんがプロがああ言ってます!」
店員は物を買わせるプロなのだから自社商品を良く言うのは当たり前だろうに、と喉まで出しかけて呑み込んだ。主が欲しいと言うのなら何だって買い与えるだけの甲斐性はある。そもそもそんなに高い物でもない。けれどこの釈然としない心地は何なのだろう。
「という訳でこれお願いします」
「はあい、毎度お買い上げありがとうございます! ご請求はギルドに送っておきますね!」
「よろしくお願いします!」
商品を受け取ってふんふんと機嫌良さ気に戻って来た主は愛らしかったが、やはり何となく納得がいかず喉が勝手にぐるぐると鳴った。以前はこういった音にも敏感に反応して怯えていた主であったのに、今では「何いじけてるんですか」と呆れるように言ってくるのだから時の流れは不思議である。…びくりと震えながらこちらを見てくる主は可愛らしかったが、私を理解した今の主も良いものである。
それはそれとして、やはり何となく気にくわなかった私はカニクリームコロッケを一人で完璧に完成させ、眉間に皺を寄せた主に振舞った。
後は寝るだけとなった頃、いつもなら主は未だに寝台に入るのを嫌がるそぶりを見せるのだが新しいブラシを買った時にはそれがない。むしろニコニコと嬉しそうに私に向かって早くそこに座れと指示するくらいである。
「同じだと思うのですが」
「違います。絶対全然違います」
「全然…?」
「ほら、めちゃくちゃ沢山毛が取れてる」
「前の時も同じことを仰っていましたよ」
「地肌へのダメージが少ないんですよ」
「主様はそもそもブラッシングがお上手なので、特に違いが分からないのですが」
「そ、そんな、私のブラッシング技術が高度なばっかりに…?」
毛量の多い尾を優しく、撫でるようにブラッシングされるのは悪い気はしない。本来なら尻尾なんて人に触らせるものではないが主は別である。ただ世話をされている状況はあまり好ましくないのだ。私が主の世話をやきたいのに(許されるなら入浴の世話までしたい)何故私は今この方にブラッシングなどされているのだろうと不思議で仕方がない。けれど定期的にさせないと主の御髪に触らせてくれなくなるので(やらせてくれないから、やらせない、という謎理論だ)仕方がなくさせている。
「痛くないです? 気持ちいいです?」
「落ち着かない気分ですが、悪くはありません」
「ほら、こんなに取れましたよ」
「前回の物でも同じくらい取れてましたよ」
「いつも思うんですけど、こんなに抜けてて大丈夫なんですか?」
「問題はありませんが、やっておいてから聞くのは些かどうかと」
「だって楽しい…あ、ほら、ふわっふわですよ、尻尾」
「お楽しみ頂けたようでよろしゅうございました」
やっとこのむず痒い時間が終わったかと思ったら、今度は主が私の抜け毛で遊び出しそうになるのでさっさと捨ててやる。あー…と情けない声を出す主を毛布でくるんでそのまま抱きしめる。
「え、あ? 待ってください、今日まだ耳してない」
「今日はもういいです」
「耳…この前買った耳用のブラシが…」
「また今度で結構です」
「枷持ちのコンディションを整えるのは放ち手の仕事だと思うんですけど」
まるで飼い主がペットの世話をやきたがっているような発言である。歓喜でどくんと強く打つ鼓動が主に聞こえないように慎重に抱きなおして灯りを消した。
「明日はギルドマスターに呼ばれておりますから、もう寝てしまいましょう」
「思い出したくなかった…」
「おやすみなさいませ」
「うう…」
「…私が、全て良いように致します。主様はただ私の傍にいてくれさえすれば良いのです。面倒ごとも恐ろしいことも全て私が」
「それって、私がいる意味あります?」
「ありますとも、貴女でなければ駄目なのだから」
「…おやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
瞑る前にちら、とこちらを向いた主の丸い目には確かに、愛だの恋だの甘ったるいそれが混じっていた。しかし瞑る瞬間に背けられた顔には苦みが残っているだけで、つまらないにも程がある。私ほど優秀な男もそういないのだから、早く私に落ちてしまえばいいのだ。私が良いのだと欲しいのだと、そう言えばそれで全て丸く収まる話なのに何故この生き物は自身の感情に抵抗するのだろう。こんなに時間がかかるとは正直考えもしていなかった。
まあいい。そちらがそのつもりならば、こちらもまだ狩りを楽しもう。主がいくら抵抗したところで、契約の解除はしない。私の唯一の生き物が自分から私に仕留められたいのだと懇願するまで後どのくらいの時間が必要だろうか。狩りとは待つことである。待つのは得意だ。その時が来ればその喉に噛みつけるのだと思えば、時間などいくら過ぎてもいい。根比べで負ける気はしない。
「ノーラ様」
先程のお返しだとグルーミングのしがいのない耳を舐める。主は一度寝てしまうとそうそう起きないので今の内に好き勝手するのが日課だ。たっぷりと匂いを付けて満足してから眠るまでがルーティンとなっている。
ああ、けれど楽しみだ。いつこの生き物は本当に私のものになるのだろう。主従関係だけでは足りないのだ、もっと、私のものにしたい。もっとこの生き物に所有されたい。そうなった時、この生き物は一体どんな顔でどんな瞳で私を見るのだろう。ああ、きっと。この世の何よりも素晴らしいに違いないのだ。
全部自分の思い通りにしているようで、実際結構振り回されているエヴァンでした。前作ではノーラ主観だったので、エヴァンに色々やられても抵抗できない状態という感が強くでていました。
しかし実際は彼女は彼女で3年の間にそれなりに図太くなったし、何ならたまに彼をペット扱いしてる時もあります。最近尻尾と耳の毛並みを整えることにはまっていて、ブラッシングした後の抜け毛で何か作れるんじゃないかと画策しています。その時はそれが普通だといった体でこられるので、エヴァンもあまり強く出れません。主として振る舞われることが嫌いな訳ではない。
エヴァンに病みが入りかける絶妙なタイミングでちょいちょいそういうことをしてくるので、メリーバッドエンドは避けられています。「好き好き大好き超愛してる」と「好き、かも(認めない)」な二人なので、今後ももだもだしていく予定です。
もし続きを思いついたのなら、ノーラとエヴァンの背景とか何も書けてはいないので、その辺も書けたらいいなあ。予定は未定ですが、ゆっくり考えてみます。
読んで頂きありがとうございました。