Reboot
明くる朝、リリアーナは侍女たちが起こしに来るよりも早い時間にアルトへ目覚ましを頼み、こっそりとベッドを抜け出した。
寝間着の上から厚手のストールを巻き付け、ぬいぐるみを携えて寝室の片隅へと向かう。侍従長に用意してもらった秘密の箱、新たに設置したインベントリからの引き出し場所へと。
「どうだアルト、もう出てきているか?」
<はい、箱の中には巻紙がひとつ。引き出しは無事に終わっております>
「そうか、よしよし」
艶のある木箱のふたに手をかけ、そろりと開けてみる。
底へ敷かれた柔らかな毛布の中心に、紐で封をされた簡素な巻紙が落ちていた。
隅に走り書きした数字には見覚えがあるし、何より自分で用意して自分で紐を綴じた物だから間違いない。かつて書き記した収蔵品の目録だ。
「うん、ちゃんと引き出せたようだな。四年前と違って箱の中も傷ついていないし、順調に力はついているようだ」
<ぅぐ……>
「どうしたアルト?」
<いえ、えーと、ではインベントリへ繋がる穴を閉じませんと>
「そうだな。これでやっと体調も回復するわけだ……」
設置した座標へ意識を向けて、インベントリへの接続を断ち切る。また必要なものができたら再度ここに道を開いておけば良いし、その際には今よりもっと引き出しが楽になっていることだろう。
天井裏の穴は昨晩の内に閉じてある。そして二つ目の穴も閉じ終えた今、無駄な力の流出は止まったはずだ。
これまでの四年余り、一体どれだけリソースの無駄遣いをしていたのか。気づけないでいた自らの失態はもとより、無為に力を垂れ流していたせいで空腹や倦怠感に長く悩まされていたのだと、その自業自得を考えるだけで頭が痛む。
自分の内側へ意識を集中し、手のひらを見ながら指を開閉してみる。手に籠もる力や体温はそう変わりないように思うが、何か変化したのだろうか。
「どうだアルト、お前から見て何か変わったか?」
<……依然、体温はやや高めとなっております。ですがこれは体力や免疫力が落ちたところへ風邪をひいた為と思われますので、インベントリを閉じたことで力の流出が収まったのでしたら、じき快復なさるかと>
「そうか。そういえば確かに、疲労感は軽くなっている気がする。腹が空いているのはいつもの朝と変わりないが……、ともかく風邪が治りさえすれば、これまでよりも快調になるということだな」
昨晩パストディーアーからの指摘を受け、ようやく体調不良の原因を知ることができたリリアーナ。その表情が明るいのは、熱が下がりはじめているためだけではないだろう。
巻紙と共に胸元へ抱えられたアルトは、ほっと宝玉の内で緊張を緩めながら主の様子をうかがう。
ろくに構成も扱えない年頃のうちから異空間への穴を何年も維持し続け、更には二つ目の穴まで作って両方を持続させていたのだ。もしかしたらヒトの身では有り得ないほどの、何か魔法の技量に関する鍛錬になってはいないだろうか。
緩みの脇でそう危惧もするアルトだったが、リリアーナが安堵している様子を見て、不安にさせるような推測を口にすることはためらわれた。
もっとも、かつて『魔王』であった彼女であれば、魔法の扱いなど慣れたもの。扱える総量が増すだとか、構成の負荷に体が慣れるとかいうことであれば、むしろ歓迎すべきことだろう。
年齢を重ねるごとに力がついてきている今、負荷により体調を崩したとはいえ異層への接続を二つ同時に、それも長時間に渡って行使できるようになった。今のリリアーナならば、すでに自身の力だけで念話も扱えるかもしれない。
もしそれが叶うなら、これまでは人目のある場所では避けていた会話だって、気にせずいつでも交わすことができるようになる。自分とリリアーナだけの秘密の対話だ。
浮き立つ気持ちを押さえながら、リリアーナの体調が快復したら試行を提案してみようと、その手の中でそわつくアルトだった。
◇◆◇
「リリアーナ様、食後のお茶は、またホットミルクにしておきますか?」
「そうだな、もらおう」
「はーい!」
今朝になってリリアーナの熱が下がり、顔色も良くなったためフェリバは朝食の支度からずっと笑顔が絶えない。
そばに控えるトマサの表情も明るく、そうして侍女たちが喜ぶ様子はリリアーナをも心弛させた。
もっとも、体調不良で散々心配をかけた大元の原因は自分にあったのだ。その理由を説明することができない心苦しさは飲み込み、申し訳なさは自省の念として心へ刻むことにした。
慎重に生きようと思った矢先にこれなのだから、自分の性格の雑な一面には先が思いやられる。
「お野菜にかかっているソース、酸っぱくはないですか?」
「ん、大丈夫だ、酸味が利いていておいしいぞ。色も綺麗だな、人参でも入っているのか?」
「すごい、リリアーナ様よくわかりましたね。人参をすり下ろして、ビネガーやオイルと混ぜたみたいです。温野菜に合うし栄養もとれるからって」
蒸して柔らかくした野菜にかけられたソースは、オレンジのように鮮やかでシンプルな朝食の皿を彩っている。
脂っこいものや濃い味付けのものを外されている中で、この酸味のアクセントと色味の心遣いは嬉しいものだった。
今朝から熱が下がったとはいえ、昼前に来る予定だという医師の診断が下るまではまだ病み上がり未満の身。昨日に続き体調に合わせた料理ということで、今朝も自室に用意された食事はいつもに比べると簡素なものだ。
柔らかく焼き上げられた白いパンに、小さなオムレツ、具材を細かく刻まれた鶏のスープ。根菜類をよく蒸した上に人参のソースがかけられた温野菜のサラダ。それから桃にクリームのようなものが乗ったガラスの器が添えられている。
いずれの皿も普段の朝食より少な目だが、今朝は昨日と比べれば空腹感も軽い。これくらいの量でもきっと満腹になるだろう。
継続的に消耗していた原因を消し去った今、もしかしたらこれまで通りの量は食べられなくなるかもしれない。しばらく様子を見て、もし食事の量が多いと感じたらまたアマダに手紙を出さなくては。
自分から増量を願い出ておいて、今度はそれを少なくしろとは。何だか我侭を言うようで申し訳ないが、せっかくの料理を残してしまう前に手を打つべきだろう。
「お風邪をひいていても食欲があったのは良かったです。たくさん食べて、たくさん寝たから、きっと早く治ったんですよー」
「ん、ふたりにもここ数日は心配をかけたな。もう大丈夫だ……とは思うが、医者が来るまでは部屋でおとなしくしている」
「ええ、そうなさってください。ひとまずお医者様に診て頂くまではベッドでお休みを。お加減がよろしいのでしたら、もう読書をされても構わないでしょうし」
安堵に目元を綻ばせるトマサへうなずきを返す。
もしかしたらまたファラムンドやカミロが様子見に訪れるかもしれないし、無理はしていないというていで本を読んでいよう。
いくつも目を通したいものが手元にあるというのに、昨日は丸一日、全く本を読まずに終わってしまった。
その分を取り戻そうと無茶をすればまた見咎められるだろうから、今日は一冊だけに絞って、ゆっくり読み進めるとしよう。
「リリアーナ様、あの白百合がどうとかってお話は、もう読まれたんですか?」
「『露台に咲く白百合の君』のことか? あれにはまだ手をつけていないが、フェリバも興味あるのか?」
「私はあんまり向かないと思うんですけど、ちょっと噂を聞いたことあったので題名は知ってたんです。去年あたりから女性の間で評判らしいですよー」
評判になるほどの人気作なのだろうか。なるほど、レオカディオであればその辺の目端は利くだろう。巷で人気の作品をわざわざ自分のために用立ててくれた兄の気遣いに、胸の内がじわりと暖まる。
この屋敷から外に出ず、街にたいして知り合いもいない自分では、余所の評判や新しい本の情報を仕入れることは難しい。その点、外部の行商人とも懇意にしているようなレオカディオであれば、手元に目新しい情報なども入ってくるのだろう。
そういえば以前にも、あの官吏が屋敷を出た後どうなったのか、街の話を教えてくれたのは次兄だった。
「トマサさんはあの本、読んだことあるんじゃないですか?」
「そうなのか?」
「……ええ、私は去年刊行された折に読みました。内容的にもリリアーナ様が読まれることに問題はないかと思いますが、その、お楽しみ頂けるかどうかは判断がつかず……何とも」
「?」
そう言葉尻を濁し、うろうろと視線をさまよわせる。
そんなトマサの珍しい様子を前にフェリバの方を見ると、何やら訳知り顔で苦笑を浮かべていた。
「あれって、恋愛モノなんでしょう? レオカディオ様もおませさんですよね」
「口を慎みなさいフェリバ。レオカディオ様のご趣味ではなく、お気遣いですよ」
「んー、そうですね、リリアーナ様もたまにはそういうのを読んでみるのも面白いかもしれませんね。私はああいうお話って、途中でウヒャーってなっちゃってダメなんですけど」
奇声の部分では、何やら両手で二の腕あたりをさするような仕草をして見せるフェリバ。
そういえばカミロも、あの本はレオカディオ自身が読むためではなく、リリアーナへ贈るために用意したものだろうと言っていた。女性の間で評判という話でもあるし、どうやら内容には向き不向きがあるようだ。
「ちょうど今日、その本を読んでみようと思っていたんだ。どんな話か楽しみだな。トマサは読んでみてどうだった?」
「私は……、あの作者の著作は一通り読んでおりますので。ええ、ああいった物語も嫌いではありません。あくまで創作物を嗜むという範囲での話ではありますが」
「ああいった物語?」
「……主に男女間の恋愛を扱ったお話です。リリアーナ様の興味を惹く内容かどうかの判断はつきかねますが、起伏に富んだ話は読み物としても良くできていると思います」
中身はそう悪くないということは理解できたので、「そうか」とうなずいておいた。
恋愛を扱った物語といえば、これまで読んだ勇者関連の本にも、そういった一幕はいくらか出てきたように思う。
時には王国の姫君であったり、時には魔物から助け出した村娘であったり、または共に旅をする仲間のひとりであったり。
勇者と心通わせる相手が登場しては、その交流や親密な感情のやり取りが描写されていた。
それらを読んでいても、所詮は他人事。旅の中の出来事のひとつとして大して考えるでもなく素通りしていたが、その感情自体をテーマとして扱った物語も存在するのか。……と、興味を覚えて唇の下をなぞる。
魔王として在った頃はついぞ縁のない感情だったが、ヒトとして生まれたこの身であれば、いつかそういったものを抱くこともあるかもしれない。物語の形で知識を蓄えておくのは、きっと今後のためにもなるだろう。
恋愛感情とは、『優れた伴侶を見つけだすために機能する情緒の動き』であると、知識では得ていても未だ実感したことはない。
ヒトの間でその感情がどう動き、どんな作用をもたらすのか。物語の主題として扱っているからにはきっと詳細に書かれていることだろう。未知への探究心が首をもたげる。
「うん、なかなか面白そうだな。読み終わったら話に付き合ってくれるかトマサ、そちらの感想も聞いてみたい」
「か、かっ、感想、あの本の感想ですか? ……はい……承知いたしました……」
困惑や羞恥が入り交じって直立したままぶるぶる震えるトマサには気づかず、上機嫌にホットミルクを傾けるリリアーナ。
そのふたりの様子を、フェリバとアルトは「あちゃー」という顔を浮かべながら眺めていた。




