探索者アルトのターン④
ファラムンドの言葉を裏付けるように、玄関側の廊下から従者のひとりが急ぎ足で近づいてくる。
それを確認した侍従長は手を掲げて了承を見せると、忌々しげに口元を歪める老婆へ廊下の先を促した。
「馬車までお見送りを」
「そんなのもの不要よ、お前などについてきてもらうほど、老いさらばえてはいないわ」
「いえ、そういう訳にも参りません」
「まったくその歳で杖なんてついて、周りは私より若いくせに足腰を悪くしているような連中ばかりね、自分より足の弱い人間に随伴されても不快なだけ、ついてきたら承知しないわよ」
そう言い捨てると老婦人はドレスの裾を華麗な形で翻す。手を差し伸べかけた侍従長も、諦めたように身を引いて道を譲った。
「本人がそう言ってるんだから好きにさせておけ、まさか今さら屋敷の中で迷うこともないだろ。尤も、それならそれで耄碌した証ってことでバレンティン家に突き返してやるさ、柵付きの部屋で余生をのんびり過ごしな婆さん」
「ふん、口の減らない男だね、お前こそ中途半端な仕事ばかりで、ろくな成果も上げられていないそうじゃないか。交易の目減りと租税の赤がばれていないとでもお思いかい、能無しはさっさと息子に位を譲って隠居しな」
手厳しい指摘に、ファラムンドが奥歯をきつく噛んだことをアルトだけが気づいた。
つんと顎を上げ、そのまま颯爽と廊下を去っていくエドゥアルダの後ろ姿をその場にいた面々は微動だにせず見送る。こちらの様子を伺っていた使用人たちはいつの間にか散ったらしく、もうその影は付近に見あたらない。
深緑のドレスはその年齢を感じさせない矍鑠とした様子で歩き去り、すぐに見えなくなる。
全員が一方向に気を取られている今が絶好のチャンスだと、アルトはポケットの中から飛び出した。音もなく廊下へ着地し、ファラムンドが開けたままでいる執務室の扉めがけて全力疾走する。
それに気づいて硬直の解けたフェリバは、固く握りしめていた手を開いて深々と頭を下げた。
「旦那様、侍従長、申し訳ありませんでした。私、余計なこと言わずに黙っていればよかったのに」
「そうですね。気位の高い来客相手に、行動の制限や禁止を直接告げるのはタブーです。やんわりと制止を願い出るか、何か理由をつけて行動の矛先を変えるような機転と話術も身につけたほうが良いでしょう」
「は、はいっ」
「ああ、それから、ひとつ仕事を頼みます。旦那様へ軽食とお茶の準備を。厨房へ行けばもう用意はされているはずです」
「かしこまりました!」
雇い主の前で叱られるつもりでいたのだろう、侍従長の助言とも取れる言葉を受けたフェリバは目を丸くして、任された仕事に威勢良く返事をする。
そんなやり取りを眺めていたファラムンドは軽く鼻を鳴らすと、再び室内へと戻った。磨かれ抜いた皮靴が枠を跨ぐ様子を、アルトは書架の影に潜んでうかがっている。
機転を利かせたフェリバがふたりの注意を引きつけてくれたお陰で、難なく執務室へ侵入することに成功した。後で会ったら重ねて礼を言わなくては、と角に力を入れながら周囲の様子を探る。
紙束をまとめた冊子に厚い資料の書籍、それらが隙間なく詰められた本棚の数々。大きな黒檀の机には処理中らしき紙束や筆記用具などが広げられている。
奥のテーブルにティーセットが準備されていることに気づいたが、揃いのカップに注がれた香茶はどちらも冷めており、全く口をつけられた様子がない。
つい先ほどまで来客がいたとは思えない有様だが、まさか老人相手に立ち話でもしていたのだろうか。
「やれやれ、朝からずっとひねた老人の相手をさせられて疲れた。もう今日は店じまいってことで、酒飲んで寝ても許されるんじゃないか?」
「手が止まっていた時間分だけ仕事が滞留しておりますよ。明日悲鳴を上げたくないのでしたら、早々に手をつけておいたほうが賢明でしょう」
「……俺の精神と時間をすり減らした賠償請求をするべきだな、馬の一頭でもふんだくっておくか」
「北部の陳情書と昨日までの請求書は私のほうで処理をしておきましたから、ご確認と押印だけお願いいたします。それから返信を要するものは添付の別紙に要点をまとめてありますので目を通しておいてください、石工の件は急がないとまたうるさいですよ」
「へいへい」
隣の控え室から持ち込んだのだろう、執務室へ入ってきたカミロは紙の束が収められた浅い箱を机の上に置いた。
そこで作業をするのかと思いきや、机から離れて歩きながら訥々と仕事の話をしている。何か書棚の資料でも探しているのかもしれない。
棚の陰に身を潜めながら、熱源感知で各々の位置を確かめる。
ファラムンドは椅子に腰を落ち着けたらしく、大きな動きはない。カミロのほうは杖をつきながら部屋の奥までゆっくりと歩いていった。
これだけ離れたならもう少し移動しても大丈夫だろうか、と現在身を隠している棚に収められたものを探ってみる。記されている内容まで読み取ることはできないが、どうやら手書きの古い書類がまとめて収められているらしい。
執務室の様子はリリアーナから聞いたことはあっても、自身が入り込むのは今回が初であるため、どこに何があるのかの把握から始めなくてはならない。
古い資料よりも、できるだけ直近のもののほうが主も興味があるだろうと経年劣化の低い場所を探査する。
「それにしても、今回はいつもに増して頑固でしたね。夫人は医者不信なのでしょうか?」
「あぁ、それもあるだろうが、どうせ一目顔を見ておきたかったとか、そんなとこじゃないのか?」
「それならばそうと、一言仰って頂ければ対応のしようもあるというのに。相変わらずお元気なことで、初めてお会いした時から全くお変わりないように見受けられます」
「おい、それ言うなよ。俺だって思ってても言わないでいたのに、怖いだろうが、あの婆さん今年でいくつだよ?」
骨の組成などを見る限り、庭師のアーロンと同じくらいの年齢ではないかと推察するが、それが何年生きたヒトの数値なのか今のアルトには比較するための累積データがない。
縁戚でありながらファラムンドも年齢を知らない老婦人、エドゥアルダのことはもとより、バレンティン家というものについても機会があれば調べておくべきだろう。イバニェス家との関わりが知れれば、リリアーナに対する態度の理由も判明するはずだ。
いくら礼儀作法がこの先重要になってくるとはいえ、八年しか生きていない子どもに接する姿勢としては、あの老夫人は厳しすぎるのではないだろうか。当のリリアーナは授業の継続を望んでいるようだが、どうもあの居丈高な老人のことは気にくわない。
好悪という感情を持ち出して思考したことにアルトは自分で驚きながら、直近のものらしい乾きたてのインクが染みた書類を探り当てた。
「あちらは結局、今代も娘が生まれませんでしたから。夫人としてはリリアーナ様のことを構いたくて仕方ないのかもしれませんね」
「俺だって構いたい! 今日はまだ顔も見てないってのに! 手も空いたことだ今からでもちょっと様子を見に、」
「全く空いていませんし、おやすみ中だと言っているでしょう」
「寝顔を見るくらいなら」
「その熱苦しい気配で起きかねません、おやめください」
ファラムンドの嘆願を無下に切り捨てる。その眼鏡をかけた澄まし顔めがけて丸めた紙が投げつけられるが、カミロはそれを難なく片手で受け止めると、そばの屑籠の中へ放り入れた。
「くっそ、何かといえばお前ばっかりリリアーナと会ってずるいぞ!」
<そうだそうだー!>
「今日もそうだし天井裏がどうとかって時も、お前ばっかリリアーナと話してただろ! 俺はひとり寂しくここに籠もって仕事三昧だってのに!」
<さっきなんて手を引いてエスコートなんかした上に一緒にお菓子を食べてお茶飲んでおしゃべりしてましたよそいつー!>
心の中で激しく同意の気炎を上げる。使用人の立場でありながら、リリアーナからの信頼を良いことに態度が馴れ馴れしすぎるのだ、この男は。
リリアーナのほうも、なぜかカミロと話す時は機嫌がよさそうで常にはない笑顔を浮かべることも多い。
信頼を向けられるのも、話し相手になるのも、その笑顔を向けられるべきだったのも本当は自分のほうなのに、とアルトは本棚の陰で嫉妬の炎を燃やす。
「常日頃から俺の娘に近すぎないかお前」
「業務の内です」
「女日照りだからって手近で済まそうなんて考えて、」
「あいにくと不自由はしておりませんので」
そこで再び丸めた紙屑が飛んできたが、カミロは受け止めもせず杖で弾いてそれを屑籠の中へ入れた。
「クソむかつくが、あれだけ可愛いんだから男として魔が差すのも当然か……」
「親子ほども歳が離れているのに何を言っているんですか、あり得ませんよ」
「あと七年もすれば十五歳だぞ」
「……。あり得ません」
「お前なんだその間はーっ、一瞬アリだなとか思ったんだろ!」
「呆れただけですよ」
「何だと貴様ーっ、俺の娘の何が不満だ!」
「あぁぁ面倒くさい!!!」
みたび飛来した紙屑を、カミロは杖を振って打ち返した。
打ち返された紙玉をファラムンドは顔の手前で受け止め、さらに固めて投げつける。しつこく飛んできた紙玉をカミロは雑に手で払い、また屑籠の中へと沈めた。
もう手元に不要な紙が尽きたのか、ファラムンドは舌打ちをすると椅子の背もたれに体重を預けて深く座り直す。
大人が揃って何をしているのかと思うが、少し楽しそうに見えて自分も混ざりたいなと、アルトは本棚の裏でそわそわ体を揺らしていた。




