探索者アルトのターン③
エプロンのポケットにアルトをしのばせたまま、フェリバはいつも通りの軽快な足取りで廊下を歩く。
角まできっちりと収めているが、周囲へ探査の目を広げているためポケットから外を覗く必要もない。その内容は視覚、聴覚、温度感知、構成感知のそれぞれ簡易なものである。半径は大人ふたりが両手を伸ばした長さほど。廊下の端を歩いていても、反対側までをカバーできる。
普段はこのくらいで十分だとリリアーナに言われているのだが、今日はもう少しだけ探査の円周を広げてみよう。通りかかる部屋の中の半ばまで、進む廊下の曲がり角の先まで。
イバニェスの領主邸は広大なだけあって部屋の数も多いのだが、その大半が今は使用されていないようだ。これまでの四年間も来客が大挙して押し寄せるということはなかったし、恒常的に使われていない部屋が多いと思われる。
それでも使用人たちは全ての部屋を掃除して綺麗に保っているのだから、いつか使う宛てはあるのかもしれない。一体どんな用途なのかアルトには想像もつかないが、こうして廊下を進む最中も、通りかかる部屋の中にヒトの気配はない。
<……む、フェリバ殿、先の曲がり角に誰かが近づいておりますな。中肉中背の成人男性、お屋敷の従者のひとりかと。このままではぶつかる危険があります>
「わぁ、そんなことまでわかるんですか。アルちゃんすごい、便利ー」
小声でそんな感想を漏らしたフェリバは、歩くペースを変えることなく十字路の曲がり角へ差し掛かった。
そこで、はち合わせてぶつかりそうになった相手からひょいと後ろに跳び、無事に衝突を回避する。
「おっ、おお? あぁ、フェリバちゃんか、ごめん大丈夫だったかい?」
「はい大丈夫ですよ。ちょっと足音が聞こえたので、ぶつからずに済みました」
角から現れたのは、締まりのない顔つきをした若者だった。従者の制服を着用しているが、リリアーナの付近ではあまり見ない顔である。
これまで屋敷内で遭遇した使用人は全て記録しているため、この男が普段は執務室横の控え室に出入りし、よく外へ使い走りに出ていることをアルトは知っている。まだリリアーナたちイバニェス家の居住棟から出ていないというのに、こちら側へ一体何の用だろうか。
「ええと、アダルベルト様にご用事でも?」
「ああ、そうなんだよ。ちょっと下がゴタゴタしていて仕事滞ってるもんだから、やれるとこだけでも片づけるために書類のおつかい」
「ごたごた?」
フェリバが首をかしげると、男は相好を崩していた顔を少しばかり引き締める。
「あの方が旦那様のところへ押し掛けていてさ、さっき侍従長も助っ人に入ったんだけど。まだしばらくダメだね、あれは。フェリバちゃんも執務室の辺りには近寄らないほうがいいよ」
「うわぁ、わかりました。教えてくれてありがとうございます」
「いやいや。それじゃあまたね」
右手側の廊下へ足早に去る姿へ小さく手を振り返し、その背が見えなくなってからフェリバはそっと手を下ろした。
<親しい方なのですか?>
「んー、とんでもない、とっさに名前も出てこなかったです。旦那様や侍従長やアーロンさん以外の男の人は、あんまり好きじゃありません」
<男性がお嫌いで?>
「そですね、男の人ってみんな、私の顔じゃなく胸を見ながら話すんですよ。バレてないとでも思ってるんでしょうかね。もう慣れっこだから別にいいんですけど」
そう呟く侍女の表情を探ってみても、普段の朗らかな様子と何ら変わりない。
何かふさわしい言葉をかけるべきかと悩んだアルトであったが、そういった心の機微に疎い自分に正解が見つけられる気はせず、「そうですか」と短い相槌を返すに留めた。
リリアーナであれば、失礼な男だと憤慨したかもしれない。だが当のフェリバに怒っている様子はなく、むしろこれ以上この話題に触れるべきではないと感じる。
何がしかの不快感を得たらしいフェリバの心を慰撫することができなかった自身の不甲斐なさと共に、「女性の胸を見ながら話してはいけない」ということをアルトは新たに覚えた。
「さてアルちゃん、どうしましょうか。執務室へ近づかないとなるとお隣の控え室もダメで……旦那様の私室なんて私が近寄れる場所じゃないですし、そうなると行き先はアダルベルト様かレオカディオ様のお部屋になりますか?」
<いいえ、フェリバ殿。厄介な客の対応中というならむしろ好都合です、執務室へお願いいたします>
「ぐえ、本気ですか?」
<普段通りの仕事中よりは興味深い話が聞けそうです。それに、来客に気を取られているほうが室内を動きやすいでしょう。……気が進まない様でしたら、あとは自力で接近を試みますが>
「いいえ、任されたんですから、任せてください! 行きますよー!」
悲壮な顔に決意を浮かべ、フェリバは両手をきつく握りしめた。
これから戦場にでも向かわんという意気に、アルトはまだ見ぬ来客の正体に怖気が走る思いがする。皆が皆そこまで恐れるとは、一体いかなる人物が訪れているというのか。
――と、そんな疑問は執務室のあるフロアに到着するなり氷解した。
廊下の端、離れた場所から怖々と様子をうかがう侍女や従者たち。その視線の向こう、いつもは人の出入りが激しい執務室の一角は全ての扉が閉ざされ、近寄る者がいない。聴覚をそばだてれば何やらまくしたてる金切り声が聞こえる。
その声音以上の情報として、執務室にこもる三人分の気配が、いずれも既知のものであるとアルトは察知した。
<フェリバ殿、もしや来客というのは、あの礼儀作法の授業の……>
「……」
アルトの問いに、フェリバは緊張した面持ちのまま小さなうなずきを返す。他の使用人の目があるため、もうここからは言葉を交わすことはできない。
あの従者の男は近寄らないほうが良いと忠告していたが、他の使用人たちは遠巻きにしながらも執務室の様子をうかがっている。怖いもの見たさというヒトの習性によるものだろうか、普段よりもむしろ注目が集まっていることは予想していなかった。
さて如何にしてあの扉まで近づき、閉ざされた室内へ入り込もうか。
廊下側が難しいのであれば、窓枠や露台を伝って窓から入り込むという手も使えなくはない。雨天であれば撥水に力を割くことになるため、弊害がどこに出るかわからないというデメリットはあるが、晴れの日よりも人目にはつきにくいだろう。
そうポケットに収まったまま思案していると、おもむろに執務室の扉が開かれた。
遮るもののなくなった高い声が、長い廊下を駆け抜ける。
「何度も言わせないでちょうだい、この目で見れば明らかなこと、私の行動を妨げる理由にはならなくてよ」
「お待ち下さいバレンティン夫人!」
「お前もいい加減になさいカミロ、しつこい男なぞドブネズミ以下の存在よ」
この屋敷の中では何かと重用され、使用人たちにも恐れられているらしい侍従長を、まさかドブネズミ呼ばわりする存在があるとは思わなかった。
さすがのアルトも唖然として、若干身を竦ませながらことの成り行きを見守ってしまう。
執務室から出てきたのは、細身に仕立ての良い深緑色のドレスを纏った老婦人だった。リリアーナが苦手としている、新しい礼儀作法の授業を受け持つ教師だ。
主のリリアーナが頭の上がらない人物ということで、アルト自身も怖れに似たものを抱いている。何やら親戚筋にあたる身分の高い女性だと聞くが、その厳しい容貌はイバニェス家の兄妹とは誰とも似通っていない。
「ドブネズミでも結構です。本日はどうかこのままお引き取り下さい」
「お前がこの私に命じるというの? モヤシ小僧がずいぶんと偉くなったものね、背丈ばかり伸びて頭が高くなったと思えば態度まで」
夫人の後から執務室を出てきた侍従長が、素早く回り込んでその行く手に立ちふさがる。
きつい叱咤の声にも怯む様子はなく、刺すような高音を至近距離から受けても真っ直ぐに伸びた背筋は微塵も揺るがない。
こちら側に背を向けている侍従長の向こうでは、まなじりをつり上げた老婦人が侮蔑を込めた眼差しで睨みつける。口元は怒りに歪み、醜悪だ。
だが計測するその体温と脈拍は低い。表に見せている険しい表情に反し、心の内は冷静でいるのかもしれない。
「そこをおどきなさい、子どものうちの発熱など良くあることよ、安易に解熱剤を飲ませるような真似をして、これだから男所帯は。お前たちの話は要領を得ないわ、この目で見れば明らかだと言っているでしょう」
「きちんと医師の診察は受けております。素人目での診断こそ危ういものであるとあなたであれば良くご存じでしょう。快復の報せと授業再開については追ってご連絡いたしますので、どうか」
カミロへ罵声を浴びせる彼女がどこへ向かおうとしているのかは明白だ。
何としてもここで引き留めて、階上へ向かわせるのだけは阻止しなければ。こんな大声で騒がれては、扉を隔てていたとしてもリリアーナの眠りを妨げるかもしれない。
体調を崩している上に朝の騒ぎで余計な心労までため込んだのだ。今はその体と心を癒すためにも、ゆっくりと休ませなくては。主の安寧を想うアルトは、侍従長と対峙する老婦人の身体を簡易に走査した。
幸いにして相手は骨の組成も筋肉も薄い老人、現在の出力でもその動きを阻害することくらいは叶うだろう。
空洞化の進む足の骨を一本折ってみるか、肺の機能を一時的に弱らせるか。もっと後への支障が少ないよう脊髄の一部を固まらせるに留めるか。
アルトがいくつかの弱体パターンを思案していると、それまで凍り付いたように動きを止めていたフェリバが、エプロンの両端をきつく握りしめたまま足を進めた。
そして、侍従長の斜め後ろから凛とした声を張り上げる。
「リリアーナ様は、ただいまおやすみ中です。夢見が悪くて怖がっていたのに、温かいミルクを飲んで、ついさっきやっとお眠りになられたんです。たとえ誰であろうと、お部屋へお通しすることはできません!」
「……侍女が何か喚いているわよカミロ。教育がなっていないわね」
「申し訳ありません、彼女は後ほど私からきつく叱っておきます。ですが、リリアーナ様がおやすみになられているのは事実、その眠りを妨げる可能性もあるため部屋へのおとないはどうかご遠慮下さい」
老夫人は視線だけをずらしてフェリバの顔を見、しわに埋もれている目をさらに細めた。
「あぁ、お前はたしか、あの子付きの侍女だったわね、平民出の物知らず。主人想いの行動のつもりでも、身の程を弁えないその言動が主人の品位を下げるのよ、よく覚えておいで」
「……っ。はい、差し出がましいことを、申し訳ありませんでした」
握る両手に力を込め、奥歯を噛みしめるフェリバを今すぐ角で包み込んでやりたい衝動に駆られながら、アルトは義憤に綿の身を震わせた。
やはり骨をポキッといっておくべきだろう、ポキッと。綺麗に折れば繋げるのも容易いはず。老いると普通に歩いているだけでも骨折くらい日常茶飯事だと、かつて小鬼族の老人も語っていた。ならばそう不審にも思われまい。
老婦人のその細い足首に狙いを定め、アルトは編み上げる構成の集中に入った。
その時、開け放たれたままだった執務室の扉から、上背のある人物がゆったりと姿を現す。
「いい歳して嗜虐とは大した趣味だな。うちの使用人たちを虐めるのは、そのくらいにしてもらえるか婆さん」
「上に立つお前の態度がそんなだから、使用人にも伝染するんでしょうよ、領主が代替わりしてから質が落ちる一方ね」
「まったく、もうちょい口の方も老け込めばいいものを。口さがない年寄りなんているだけで煙たがられるだろう、厄介払いができたバレンティンの屋敷は今ごろパーティ真っ最中かもな」
顔をしかめたファラムンドは、老婆とそんな応酬をすると片手を軽く振って見せた。それを合図に、行く手を塞いでいた侍従長が身を翻して道をあける。
「お引き取り願おう、バレンティン夫人。ちょうど表に迎えも来た頃だろう。質の良い使用人とやらはともかく、腰の悪い従兄弟を雨の中いつまでも待たせるのは、さすがの俺も心苦しい」
「まったく、余計なことを……」
深いしわを一層深めた苦々しい顔で、老婦人はそう呟きを落とした。
 




