必ずや百倍返しにしてくれる」 ✧
コトリと音をたててカップを置くと、対面のカミロは眼鏡の山を中指で押さえた。纏う気配が一層硬くなる。
ここからが本題とばかりの雰囲気に、わざわざ一呼吸置いて次にどんな話を切り出すつもりなのかとつい身構えてしまう。
「あの本、『露台に咲く白百合の君』についてですが。レオカディオ様にはまだ入手元の確認などは取っておりません。何をどう問うのかは、リリアーナ様とお話をしてからと思いまして」
「そ、そうか……うん、ありがとう。あの本は兄上からの差し入れということだったが、渡された時に何か言っていたか?」
「リリアーナ様が体調を崩されたことを侍女からお聞きになられたらしく、それなら暇だろうから、とだけ。内容を確認するために私と旦那様で目を通したにも関わらず、防ぐことができず申し訳ありませんでした」
目を伏せて頭を下げるカミロを制止しようとして、言葉を飲み込んだ。念のため中を改めたのに危険を素通りさせてしまったのだ、気にするのも無理はない。ここは素直に謝罪を受け取っておくべきだろう。
精霊眼を持たないファラムンドとカミロがあの構成を見落としたとしても責める道理はないのだが、一度は謝らねば本人の気が済むまい。
「あんな微細なものでは、視られる者でなければ気づけない。……カミロたちが読んだ時から、あの栞は挟まっていたのだな?」
「ええ。購入時に書店がつけたおまけか、レオカディオ様が挟んだものだろうと、その時は思いました。まさか古書をリリアーナ様へ贈るとは思えませんし、前の持ち主の私物という線はないでしょう」
「兄上が前から所持していた本という訳ではなく、最近買ったものだと?」
「そこは直接お訊ねしてみないと分かりませんね、奥付を見る限り発行は昨年のようですが。内容的にレオカディオ様がご自身で読まれる本ではなく、リリアーナ様へ贈るためにご用意されたものだろうと推察いたします」
まだリリアーナは中身を読んでいないためその点の判別はつかない。一体どういう内容の本なのだろう。
だが、取り出した話題としてカミロが言葉にしあぐねていることは何となく察せる。
「もし兄上が何らかの理由でわたしに危害を加えようと考えたとしても、こんな簡単に足のつくような真似はするまい。自分がやりましたと名乗っているようなものだろう?」
「ええ、無論です。万が一そんな意図があったとしても、中継として私に託すようなことはしないでしょう」
リリアーナの方からその話題を切り出したためか、表情にやや複雑そうな色を湛えながらカミロはうなずいた。
実の兄から狙われて恐ろしい目に遭わされた可能性など、幼い娘に考えさせたくはなかったのだろう。ここにきてそこまでの配慮は無用なのだが、侍従長の立場と性格を思えばそうも言えない。
「最近までレオカディオ様も体調を崩されておりましたから、しばらく外出なさる機会はありませんでした。直接街で購入したものではないのなら、」
「懇意にしているとかいう、あの商人から買い付けた、か」
区切られたカミロの言葉に繋げて、互いに浮かぶ一番の可能性を口にする。
どんな頻度でこの屋敷を訪れているかは知らないが、つい先日も中庭からその姿を見かけたばかりだ。もしかしたらあの時に持ち込まれたのかもしれない。
「アイゼン氏のことをご存じでしたか」
「うん、何度か見かけたのと、以前街へ下りた際にも顔を合わせたんだ」
ほんの短い応酬だったし、あの頃は領道の件で慌ただしかったからアイゼンと言葉を交わしたことはカミロにも話していなかった。
見知っていたよりも街で会ったことが意外だったのか、その眉が片方持ち上がる。
「だが、あの商人が何の理由あってわたしを狙うのか、さっぱり心当たりはないな。そもそも遣り手だと聞くあの男が、商売相手の娘に危害を加えるとは考えにくいのでは?」
「そうですね。万が一にも発覚する恐れがあるようなこと、しかも領主の子女に対する毀傷行為。店舗を構えていない行商人ゆえ逃亡が容易いとはいえ、これまでの信用や伝手を一挙に失うことになりますから」
「大して知っているわけではないが、あの男がそんな愚かなことをするとも思えないな。何か理由があって危害を加えるにしても、もっと迂遠で卑怯でバレにくい手を選ぶタイプだろう」
そこでなぜかカミロが小さく噴き出した。
珍しい。おかしなことを言っただろうかと首をかしげると、手のひらを見せて「すみません、ええ、同感です」と何やら含みのある同意が返ってくる。突いたところで白状する様子もないし、追求はせず引き下がる。
するとカミロはわざとらしく咳払いなどして見せ、続く話を切り出した。
「仮に、……たとえ話としてですが。もし私がこの屋敷の外の人間で、リリアーナ様のことをよく存じ上げない立場だったとして。何らかの害意をもってあの栞を用意し、企てたとします」
「ん、それで?」
「運良く事が運んでリリアーナ様のお手元に栞が届いたとして。……まさか十歳にも満たない令嬢が、栞に精神へ影響を及ぼす魔法を込めてあると見破るなんて、想像もしないでしょうね」
「……まぁ、そうだな。わたしの身近に魔法師がいたとしても、個人的な本に挟まった栞の、しかもあんな小さな構成を見つけるのは困難だったろう」
つまり、あの商人が同じように考えた可能性もないとは言い切れない。
こんなに早く露見することが予想外だったか、それとも見破られない自信でもあったか。調査へ着手する前から穿った見方をしてかかるのも危険ではあるが、今のところ一番怪しいのはどう考えてもあの男だ。
紙の出所とレオカディオが本を入手した経路、そこから商人の男……アイゼンの関与を明らかにできれば、領主の権限で一旦拘束をして吐かせるという多少強引な手も使えるのだろうか。
「だが、仮にあの商人が何か企てたとしても、やはり目的が分からないな。大した知り合いでもないし、わたしに侍女たちを失う悪夢なんか見せたところで、どうなるというんだ?」
「……あぁ」
カミロは呻くように呟き、口元へ拳をあてる。何か心当たりでもあるのか、しばらく思案に固まる様を見つめていると、男はいつもの硬質な表情で顔を上げた。
「そう、ですね。ただの悪夢に収まらない場合もあるいは。思い出させる様で申し訳ありませんが、リリアーナ様が見たという夢は、トマサとフェリバと、あのぬいぐるみを失う内容だったと伺っております」
「あぁ、うん。そうだな。窓から魔法を撃ち込まれて……」
夢の中のカミロが無事なうちに目覚められたのはまだ良かった。血の海に沈む姿、二度目はさすがに御免被る。
表情を曇らせては不要な心配をかけるだろうと、軽いうなずきを返す。すると、男は予想外の方向に話を切り替えた。
「リリアーナ様は隣領、サーレンバー領のことをどのくらいご存知でしょうか?」
「サーレンバー? 西側に隣接している領だろう、石材と木材の産出を得意としているんだったか。あとは、あちらの領主は父上とも懇意にしていると聞いたことがある」
「ええ、その通りです。現領主であるブエナペントゥラ様の嫡男夫妻が旦那様の古いご友人で。……ですが、八年前に不幸な事故で揃って他界され、一人娘であるクストディア様だけが残されました」
「それは……、つらいな」
会ったことがない母親のことは何とも思っていないリリアーナでも、父は敬愛している。そのファラムンドを事故で喪っていたら、あの山崩れでもし命を落としていたらと思うと、今でも胸が詰まる。
両親揃って亡くした娘は自分などとは違い普通のヒトなのだ、さぞ辛い思いをしたことだろう。
そこで、カミロが何を言いたいのか理解した。目を見開いてその顔を仰ぐと、神妙な様子で首肯する。
「心を痛めたクストディア様は長くお部屋に籠もりきりの生活をしておいでです。もし、今回の栞が彼女の元へ渡っていたら……」
「ただの悪夢では済むまいな、弱りきった精神への追い打ちも甚だしい。まさかとは思うが、量産品の可能性もある以上、一度報せを出しておいた方が良いだろう」
「ええ、そうさせて頂きます」
悪夢、怖い夢、こわいもの。……リリアーナにとっての『恐怖』が何なのか、まざまざと見せつけられた思いだった。自分を害されることより、命を失うことより、何より身近な者を奪われることを恐れている。
あの栞が一体どんな意図で作られた物なのかは知れないが、発案者はロクな人間ではないだろう。体調を崩しているとはいえ、現実との境を明確に認識できるリリアーナであったから、何より精霊眼とアルトを備えていたからこそ目覚めてすぐに対処ができた。
だが、同じ物がもしサーレンバー領の令嬢の元へも届いていたとしたら、どうなっていただろう。大切な者を喪う苦しみが、栞を手放すまで延々毎晩続いたとしたら。
果たして精神を壊すのが先か、眠りに怯え衰弱死を迎えるのが先か。
「ただ悪夢を見せるだけの構成かと甘く見てしまったが、とんでもないな。精神と肉体へ変調をもたらす危険が十分にあり得る品だ」
そんなものを兄からの贈り物に紛れ込ませるという形で、手元へ差し向けられた。
自身への明確な悪意に、さすがに渋い顔をしてしまう。
「悪夢だけですか? リリアーナ様の不調にも何か関わりがあるのでは、……あぁ、本は体調を崩された後に受け取ったものでしたね」
うなずき返すとカミロは視線を落として考え込む。
体調不良と精神操作の魔法は明らかに別件。とはいえ、嫌なタイミングで重なってくれたものだ。
確認のために開いたファラムンドとカミロに影響がなかったのも、健常であれば効果が出にくいほど脆弱な構成だったという証だろう。
刻まれていたのは粗雑で、簡単に崩せてしまうような脆い構成陣だった。そう大した魔法師の手によるものではないと思われる。
「……あ、そういえば、カミロに訊きたいことがあったんだ。今この屋敷に魔法師はいるのか?」
「魔法師ですか? もうじきリリアーナ様の講師になられる方がいらっしゃることになっています。使用人棟にご用意したお部屋はどうやらお気に召さなかったようで、現在客間の準備を進めているところです」
「そうか。……いや、なるほど。では紹介を受けた時にでも一度、この部屋の中を確認してもらうのも良いかもしれないな」
「ええ、是非そうして頂きましょう」
アルト以上の探査能力を持つ者がそうそういるとは思えないが、そんな方向で質問を切り上げる。
あえて今朝の夢と同じ事を訊ねてみて、どう返ってくるのかを知りたかった。
やはり夢は夢、すでに知り得ている範囲のことしか反映されないらしい。夢で会ったカミロとは異なる答えが返ってきたことにそっと胸を撫で下ろす。
……あれは現実に起こることではないのだと、確かめられて。
とは言っても、簡単に許せるものではない。
たとえ夢の中だけの出来事だとしても、目の前でフェリバとトマサを殺され、アルトまで破壊されたのだ。あの衝撃、嘆きと憤り、胸を八つ裂きにされたような痛み、喪失の苦しみ。目覚めてからも記憶に焼き付いて消えない赤い光景。
仕組んだ犯人は決してこのままにはしておかない。絶対に許しはしない。必ずや同じ目に遭わせ――、いや、百倍返しにして思い知らせてくれよう。
「……栞の件についてはこんなものか。では、レオカディオ兄上への聞き取りと、出所に関する調査を頼む」
「はい、お任せください。範囲と対象が明確ですので、今度はそうお待たせすることなく結果をお知らせできると、お約束いたします」
居住まいを正したカミロは、僅かに目を伏せながらそう請け負った。
何を指して「今度は」と言っているのかは明らかだが、そう申し訳なさそうにされてはこちらとしても責めることなどできはしない。その件については怒ってなどいないのだと、応える言葉を探して、結局口の中でもごもごとした不明瞭な返事になってしまう。
――――三年前の領道の事件。
未だ犯人は特定できず、リリアーナに対してはその後の顛末も一切報告されていなかった。
手がかりは見つかったのか、何か目星はついているのか、隣領へ逃げ込んだと思われるがそちらでの捜索はどうなっているのか。
領主の命が狙われ、幾人もの犠牲者を出した大きな事件だが、大人たちの間だけで交わされる話がリリアーナの元までもたらされることはついぞなかった。
ただ「はっきりとしたことが判明したら話す」とファラムンドに言われたきりだ。つまり推論や手がかりの段階では、何も打ち明けることはないと言われているに等しい。
そうして情報を遮断されたまま、待っているだけで三年も経ってしまった。
「……その件は、わかっている、父上も皆も調べは進めているのだろう。わたしが手出しすべき事柄でもない。話してもらえる段階になるまで、ちゃんと待っている」
三年前、目覚めてすぐに犯人を突き止めるため、アルトバンデゥスの探査を使おうとした。だが宝玉だけの状態では地に刻まれた記録を読み出すどころか、リリアーナ共々閲覧権限がないとアルトに謝られてしまい、そのままベッドに突っ伏した。
手元にアルトバンデゥスの杖があれば。それとも、この身が構成を自在に扱えるデスタリオラのままであれば、あの地に残された記録を読み解き、誰が山崩れを引き起こしたのかを突き止めるくらい容易いのに。
ヒトに生まれたことを喜んではいても、こういう時ばかりは強力無比な魔王の肉体を惜しく思う。
大抵のことを力業で解決できたのは、魔王という立場と力あってのことだ。無力な子どもになってみて初めて、その傍若無人とも言える解法がどれだけ無茶なものであったかを噛みしめる。
例え捜査の進展を話してもらえたところで、今のリリアーナにできることは少ない。
ならば、隠したがっている事柄には深く突っ込まず、娘の気持ちを不用意に荒立てまいとする父の意向を汲んでおくべきだろう。何も意地悪で隠し事をしているわけではなく、彼らのそれは優しさの表れだ。
それに何より、崩落の現場に居合わせなかった自分などよりも、狙われたファラムンドとカミロの方がよほど犯人に対し憤りを感じているはずなのだから。
「大丈夫だ、きっと教えてくれる時がくると、父上やカミロを信じている。……どうだ、わたしは物わかりの良い娘だろう?」
「ええ、まったく。我々の方がリリアーナ様に甘えきっているようで、お恥ずかしい限りです」
肩を落とし、口の端を持ち上げて気が抜けたような苦笑を浮かべるカミロへ、こちらも笑い返してやった。
大人は何かと大変らしい。




