「目覚めは悪夢のように、 ✧
※流血表現注意。
ふと、意識が浮上する。
乾きを感じる瞼を何とかこじ開けると、いつもの天蓋が目に入った。
何枚も重ねられている細かなレース製のベールは、レース編みの授業で習っているようなものなど及びもしない、細かな花が無数に連なる精緻で見事なものだ。いつかあれくらいのものを自分の手でも編めるようになってみたいと、眠る間際などによく眺めている。
ぼやけた視界でそれを見上げていると、いくらか意識がはっきりとしてきたので体を起こしてみる。就寝前はだいぶ具合が悪かったような気もするが、多少だるさが残るくらいで難なく起き上がることができた。
しっかりと眠った体感はあってもまだ侍女たちが起こしに来る気配はなく、普段の起床よりもだいぶ早い時間なのかもしれない。カーテンの隙間からは薄明かりが漏れている。ここのところ曇天が続いているから、外の明るさで時間を計るのは難しい。
たしか眠る前にどこかへ触れたような気もするが、何だったか。誰かと話していたかもしれないし、何か考えていたかもしれない。頭がぼんやりして上手く思い出せない。額をさわってみると、さほど熱はないように感じる。
そろりと掛け布団から両足を出し、ベッドを下りる。
素足のままでも特に寒くは感じない。足の裏が柔らかいような、浮き足立つような、何とも不思議な感覚がする。悪い心地はしないから気にすることでもないだろう。
そうして違和感の正体も掴めないまま、リリアーナはふわふわとした足取りで寝室を出た。
白を基本とした淡い色調にまとめられた自室、その中央にあるテーブルではフェリバが朝食の支度をしているようだ。こちらに気がつくと、綺麗に腰を折って礼をする。
「おはようございます、リリアーナ様!」
「うん、おはよう。少し早かったか?」
「そろそろ起床のご挨拶にと思ってたとこです、もうじきトマサさんたちも来ますよー」
そうか、と小さく返事をして、支度の邪魔をしないようにいつものカウチソファへもたれ掛かった。柔らかなクッションに肘を置き、ワゴンからせっせとカトラリーや皿を移動するフェリバの仕事を眺める。
起きたらフェリバに頼みたいと思っていたことがあったはずだが、なぜかすぐには出てこない。まだ寝ぼけているだろうか、顔を洗ってすっきりすればそのうち思い出すかもしれない。
カーテンを開け放った窓からは薄ぼんやりとした明かりが差し込む。その逆光の中できびきびと働くフェリバの姿は、紙を切り抜いた影絵のようだった。
「昨日、アーロンさんの赤い花が咲いたそうですから、後でご覧になられるといいですよ」
「赤い花? ……あぁ、そんなことも言っていたか。うん、書斎へ行く前に中庭に寄ってみる」
「いっぱい掘り返しましたからねー、張り切って元通りにしないと」
「アーロンにはベーフェッドの骨を渡してあるからな、肥料は十分だ」
わかり切ったことだと受け答えをしながらも、どこか頭がぼんやりとする。何の話だったろう。あまりソファで楽な姿勢をしているとまた眠ってしまいそうだ。
無意識に右手が周辺を探る。一体何を探しているのだろうと考えて、寝室からアルトを持ち出すのを忘れていたことに気づく。
いつも起床の挨拶を交わしてからこちらの部屋へ伴っているのに、どうして今朝は忘れていたのだろう。忘れていたなんて言ったらまた機嫌を損ねるだろうし、朝食の支度が済む前に持ってこよう。
「フェリバ、アルトを持ってくる……、あぁ、そうだ。ぬいぐるみの綿と中に入れた玉が少しずれてしまったんだった、後で直してくれないか?」
「アルちゃん壊れちゃったんですか? それは大変です、大急ぎで治してあげないと!」
「壊れたというほどでもないから、手が空いた時で構わない」
手にしていたカップをテーブルへ置いたフェリバが、銀盆を片手にこちらを振り向き近寄ってくる。慌ただしい駆け方なのに毛足の長い絨毯が吸い込んでしまって足音がしない。それまでせわしなく響いていた支度がぴたりと止み、何の音もしない間が生まれた。
無音の中。
薄明かりの窓から『線』が一条、走るのを視た。
瞬きの間に左から右へと、真っ直ぐに伸びた光線が部屋の中を横切る。
音も気配も、何もない。
一拍でもまばたきが遅れていたら視界にすら入らなかったかもしれない。
赤色にも見えた一本の線、窓から差し込んだそれが一体何だったのか目を凝らしていると、あと数歩という所まで来ていたフェリバの頭が落ちた。
ッゴ
絨毯が殺しきれなかった落下音が鈍く耳を打つ。
小柄な体が前のめりに崩れ、銀盆が転がっていった。
ひゅっ、と吸い込んだ空気が気管を鳴らす。
声が出ない。鋭く吸った息は肺で滞留したまま体から一切の動きを奪ってしまう。
目の前に倒れた体から、思い出したかのように赤い液体が噴き出した。温かなそれはリリアーナの足元まで飛び散り、頬を塗らし、絨毯に色濃い染みの面積が広がっていく。
「……フェ、」
まばたきも呼吸も忘れたまま、ソファから床へ崩れ落ちる。両手を伸ばし、そばに転がった頭を拾い上げた。
力を失った膝に抱えたそれは、触れればまだ体温を感じる。断面からぼたぼたと粘性の高い液体が落ちた。べったりと赤く濡れた頬を手で拭ってやりながら顔を上向ける。
――フェリバの顔だ。
驚いた表情を凍り付かせたままそこに顔だけがある。首から下には何もない。
手の中にフェリバの頭を抱えたまま、ヒトの頭部はこんな重さだったのかと見当違いなことを考えた。
それから、目に触れて、随意筋のコントロールを失った後の瞼はこんなに容易く閉じることができるのかと。赤く濡れた顔を指先で撫でる。
「フェリバ……?」
声を出してみたことで、呼吸が返ってきた。心臓がひどい拍動を繰り返す。息も荒い。
頭に手足に身体中に血液を送り込みながらバクバクと脈打つ心臓が痛い。眼球の奥やこめかみに熱を持つほど血液は循環しているのに、頭の中心がたまらないほど冷えていく。
「おい、……フェリバ?」
目の前の現象が理解できない。脳が理解を拒んでいる。嘘だ。こんなのは、こんなことが。あり得ない。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ!
混乱に目の前が白く染まりかけ、きつく瞼を閉じる。
それでも特大の危機を告げる深層意識が、感情の濁流に飲まれそうになるリリアーナを一歩手前で踏み留まらせた。
浅く早く繰り返していた呼吸を、意識して深いものに切り替える。
外の白んだ窓を見ると、ガラス面は変化がないのに対し、線が通過した後の窓枠がわずかに歪んでいる。端に纏められたカーテンは半ばまで焦げ、ちぎれていた。
可干渉性を備えた光の束、有り得ない制御を要する透過の光熱。
あの赤い線には見覚えがある。赤い赤い、燃える、焔の色の。
どくりと、心臓が一際大きく脈打った。
「フェ、リバ、……フェリバ……ッ」
白い顔。どう確かめるまでもなく、命が失われている。首と身体を繋げたところで息を吹き返すことはない。元には戻せない、もうフェリバは返ってこない。
目の前で失われた。
「……っぐ、……ぅ」
こみ上げる吐き気を押さえる代わりに、目から熱い水が溢れ出た。
唇を噛みしめて嗚咽をこらえ、抱えていたフェリバの頭をそっと倒れた体のそばに置く。
一瞬で命が失われたのは、彼女の苦痛を思えばまだ幸いだったかもしれない。だが一瞬ではなく少しでも猶予のある負傷なら、まだ損傷を癒せる可能性もあったかもしれないのに。
敵は屋外にいる。そうわかってはいても、激情に駆られすぐに窓へ駆け寄るわけにはいかない。位置と正体を確かめるためにもアルトを取りに戻らなければ。
力の入らない膝を叱咤しながら、座り込んでいた床へ手をついたその時――
「……リリアーナ様? お目覚めになられましたか?」
廊下側の扉が開き、タオルの束を手にしたトマサが入ってきた。
「トマサッ! だめだ、入ってく、」
叫びが届くよりも一早く、無情な光線は彼女の体を横薙ぎにした。
二の腕のあたりを通過した線は一瞬でかき消える。積み上げた石が突き崩されるように、バラバラと、トマサの腕と体と胸上が床へ落ちた。放り出されたタオルが遅れて広がり落ちるのを、ただその場で見ていることしかできなかった。
「あ、あ、あぁぁぁァァ ァ…………!!!」
両手が真っ赤に濡れているのも構わず額を、頭を押さえる。
目の前で起きていることが信じられない。自分の目に映すものが、とても現実とは思えなかった。だが痛みがある、胸骨を吹き飛ばして破裂しそうなほど心臓が鳴っている、目眩がする、……五感はたしかにあるのだ。
どうにかなってしまいそうだ。癇癪のまま喚き声を上げる体と、状況をどこか冷静に見ている心が分離して、自分が今何をしているのかもわからなくなる。
どうしてこんなことに。
なぜ、どうして、その問いに頭を占拠されたまま、這うようにして寝室へ向かった。
膝が震えて立ち上がることもできない。閉じられたままのカーテンに賭け、足を蹴り出して一気にベッドへとすがりつく。
「アルト……、う、ぁあ、……っ!」
サイドチェストの上には、細切れになった青灰色の布が散らばっていた。その中には散乱した綿と、青いガラス片のようなものも混じっている。
蒼穹よりもなお深い、唯一無二の青色、アルトバンデゥスの杖の思考を司る宝玉。粉々に砕かれたそこからは、この非常事態において何の思念も飛んでこない。
容易には砕けないはずの老師たちの遺産がなぜこんな無残な姿になっているのか、いつから、誰が、どうやって。もの言わぬ残骸は黙したままで何もわからない。
「アルトバンデゥス……」
ふれようと伸ばした手を、途中で止めて戻した。もし一欠片でも失われてしまえば復元の際に支障が出るかもしれない。形を戻すだけで、果たして中身も元通りになるのかは知れないが、今は下手に触らないほうがいいと判断する。
今すぐ復元するために精霊たちを集めるか、それともこの場は保持したまま一刻も早く部屋から離れるべきか、迷いに瞳が揺れる。
この身ひとつで、窓の外にいる『敵』に対し一体何ができるというのか。
……いや、できなくてはならない。自分が、他の誰でもないこの手で仕留めなくては。ファラムンドたちを奪われ怒りに我を忘れた三年前とは訳が違う。今回狙われているのは明らかにリリアーナであり、関係のない侍女たちは理不尽に巻き込まれ殺されたのだから。
もう奪わせないと心に誓ったばかりなのに。目に視えているものは護れるはずだったのに。
乾きかけてべたつく赤い手を見る。これが本当にフェリバの血なのか、トマサまで死んでしまったのか、やはり信じられない。何かタチの悪い冗談じゃないのか。現実味が薄い。
歯の根が噛み合わない。震える手を握りしめ、寝室の出入り口から廊下へ出るための扉を見る。トマサだったものがばらばらと散乱している床、開け放たれたままの扉の向こうに動くものがあった。
――こつり。
床を突く硬質な音。息を飲み、瞬間、出せる限りの声を振り絞って叫んだ。
「カミロ! 伏せろっ!!!」
「っ!」
声が間に合っていたのかもわからない、ほとんど同時に壁を灼く赤い光線。
三本目の焦げ痕をつけるそれは、素早く前のめりに転がったカミロの頭上すぐ上を薙いでいった。
トマサを飛び越える形で前転したカミロはそのまま姿勢を低く、床を蹴って置かれたソファの後ろへと滑り込み身を隠す。ちらりと壁を見上げ、窓の外からの攻撃だと悟ったのだろう。不自由な足を庇うような体勢で座り直し、首だけでリリアーナの方をうかがった。
「リリアーナ様、お怪我を」
「わたしは大丈夫だ。これは、わたしの血ではない。だが……」
「あれは、トマサと……フェリバですか」
苦いものの滲む声に、無言でうなずきを返す。
今余計なことをしゃべろうと口を開けば、また嗚咽が漏れ出てしまいそうだ。失ったものへの悲嘆と、信頼する相手が無事にそばにいてくれるというたまらない安堵に。
ひどく震える手を握り、胸元で強く押さえ込む。……大丈夫だ、感情の手綱は握れている、あの時とは違う。
寝室の扉の縁にもたれかかったまま、濡れた顔を乱雑に拭って今やるべきことだけを考える。その他のことは、自分と家族らの安全を確保した後でいい。
悲しむのも憤るのも嘆くのも泣くのも叫ぶのも、全部。
全ては、この悪夢が終わってから。




