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兄上――――っ!


 お茶を飲み干して満足したので、トマサに移動を付き合ってもらい書斎へやってきた。

 このあと午後に入っている授業を思うと際限なく気落ちするため、今のうちに英気を養っておかなくては、とても保たない。何か好みの本を読んで、精神を平坦に、なるべく心安らかにして挑まなければ。


 授業の開始前よりもっと早く、教師の到着と同時くらいに迎えに来てくれるようトマサへ頼んでから書斎へ足を踏み入れる。しんとした紙の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、早くも降下しかける気持ちを何とか落ち着けた。

 そうして机の並んだ読書スペースまで行くと、一冊の本が机の上へ置きっぱなしになっているのが目に入る。いつも読み終わった本は必ず元の場所へ戻しているから自分ではないし、背厚が薄いその本に心当たりはない。誰かの忘れ物だろうか、と表紙をのぞいてみる。


「これは……、領内の収穫物についての資料ではないか?」


<厚紙で表装を作ってありますが、中身は紐で綴じた紙束ですね>


「うぅ、読みたい……これは何の罠だ、いや、他人の本を勝手に開いたりは……でも書斎にあるからには、書斎へ置いてある本という扱いになるのでは? ……いやいや、駄目だ、見ない、見ないぞ!」


 その冊子を手に取って開きたいという誘惑と戦いながら、視線を逸らそうとしては失敗する。摺り足で近づきつつ、だが理性が勝って手を伸ばすことはできない。表紙に書かれたタイトルはどう見ても領政関係の資料だ、きっとファラムンドかアダルベルトの忘れ物に違いない。

 たとえ目の前に気になる情報が転がっていようと、今の自分には知的好奇心より家族の信頼が勝る。まだそれを目にする許可を得ていない以上、勝手に開くことはふたりへの裏切りに相違ない。


<あ。リリアーナ様、本と机の間に挟まっている紙をご覧ください>


「紙?」


 アルトに言われて、挟まっている紙とやらを探る。のぞく角度を変えてみると、本の下に一枚の便せんが挟まっていた。

 そっと引き抜くと、一行目には自分の名前が書かれていることに気づく。自分宛てなら目を通しても構わないだろうと、葉の透かしが入った上品な便せんを持ち上げる。



『 リリアーナへ


 遅くなってすまない、借りたままでいた勇者の物語を本棚へ戻しておいた。読んでみてもし面白かったら、そのうち感想を聞かせてほしい。


 それから、こちらはついでではあるが。自室にある政務関係の資料の中から、貸しても問題がないと思われるものを置いておく。イバニェス領内の耕作物・牧畜については領民たちもよく知っているため、書き写したり他者へ話しても構わない。


 だが途中の仕切紙から先の内容、収穫量の推移や地域別の分析などは他言無用のこと。これをリリアーナへ貸し出すことは、父上の許可も得ているので気にする必要はない。

 数年前に使っていた資料だから、返却は急がない。読み終わったら辞典の棚の右下に差しておいてくれ。

 何かわからないことや質問があったら、手紙を挟んでおいてもらえれば答えられる範囲で回答する。


            アダルベルト』




「兄上――――――っ!!!」


 全身が感動に打ち震え、手紙を持つ手がぶるぶると揺れた。

 一時は避けられたり、会うたび不機嫌そうな顔を向けらていたため、もしかしたら嫌われているのではとも思っていたのだが。どうやらそれは自分の勝手な思い込みに過ぎなかったようだ。ここまで妹のことを想い、取り計らってくれるとは何て良き兄なのだろう。

 未だ言葉を交わしたことは少なく、一個人としてのアダルベルトをあまり理解はできていない。それでも兄として十分過ぎるほど敬愛に値する人物だ。さすがイバニェス家の嫡男としてファラムンドの後を継ぐ男なだけはある。


 リリアーナの中での好人物順列が一気に変動した。それくらい、読みたかった本を貸してくれるという行為のポイントは高い。


<よ、良かったですね、リリアーナ様>


「うむ、アダルベルトには後で重々礼を言わなくては。何冊も所持しているであろう中からこの資料を選び抜いた慧眼も、ちゃんと父上に許可を得てくれていることも素晴らしい。さすがは我が兄だ!」


<あ、その冊子、先日にも兄君が手にされてましたね>


「先日?」


 アダルベルトからの手紙を高く掲げ持ったまま、アルトの収まるポケットを見下ろす。先日と言うが特に覚えはない、何のことだろう。


<ええと、天井裏の騒ぎがあった翌日です。リリアーナ様がここへいらしたら先に兄君がいて、後から眼鏡野郎が訪ねてきた時。兄君が書斎を出る際に手にしていた本のうち、片方がこの冊子だったかと>


「え……」


 そう言われて、机の上に鎮座する資料を良く見る。表装は初めて目にするものだが、確かにあの日、書斎を出て行くアダルベルトは本を二冊持っていた。ちらりと見えた表紙は古い読物語だったと記憶している。重なって見えなかったもう一冊はこの資料だったのか。

 ……ということは、だ。


「兄上はあの日、この資料と勇者の本を貸してくれるつもりで、わたしが来る時間に合わせて待っていたんだな。そ、それを、追い出したということか……?」


 手紙がしわにならないように机へ置いてから、動揺と後悔に頭を抱える。後からカミロがやってくることは互いに予測不可能だし、仕方がなかったとも言えるが事実は事実。

 せっかくの気遣いを無下にした上、日を改めて置き手紙まで用意させるとは。日々の勉学に忙しい相手へ何てことをしてしまったのか。


「気遣いが、優しさが、沁みる……」


<いえ、えっと、私などがこんなことを申し上げるのもおこがましいのですが。リリアーナ様がそこまでお気にされる必要はないかと。兄君からの好意のみ、有り難く受け取っておけばよろしいのでは?>


「そ、そういうものか……?」


<おそらくは。魔王城の面々が大変にアレでしたので、不慣れなことに動揺されるお気持ちもお察しいたしますが。後日改めてお手紙にて、お礼申し上げれば十分でしょう>


 頭を抱えていた手を下げて、ポケットからアルトを取り出す。無機物ではヒトの心情など理解できまいと侮ったこともあるが、そこまで断言されればそれが正しいようにも思えてくる。

 侍女たちならともかく、人を使う立場であるカミロもアダルベルトも他者への配慮をそつなくこなす。思い返せば街を案内してくれたキンケードだって、様々な面でそれとなく気を遣ってくれた。ヒトの文化圏ではこれくらい相手を慮るのは、成人として当たり前のことなのだろうか。

 何となく、キヴィランタの住民たちを取りまとめる上での抜本的な問題点が見えてきたような気がする。死後にそんなことを悟ってもどうしようもないというのに。


「精進が足りないな、わたしも気をつけなければ」


<あわわ、リリアーナ様はそのままでも! むしろ、それ以上相手のことばかりお考えになられるのはちょっと、いかがなものかと!>


「む、そうか? そういえば、デスタリオラであった頃も似たようなことを言われたっけ。加減の難しいものだな……」


<眼鏡野郎は立場上当然の気配りであり、上の兄君におかれましてはお若いのに良くできた人物でいらっしゃる。兄君を手本にされるのは結構ですが、どうか程々に>


 角を振りながら力説するアルトを、ひとまず机の上に下ろす。最近では尻尾の紐を器用に使って水平移動までするようになったから、あとは放っておいても好きな位置に収まるだろう。底面に不要な布など取り付けられるようにすれば、そのうち掃除の役にも立つかもしれない。

 にじり寄るようにして机上の冊子へと近づくぬいぐるみの、その脇を指でつつく。


「どうもお前は、カミロのことばかり変な呼び方をするな。奴が気に食わないのか?」


<うぅ……っ>


 さらにつつくと体が転げる辺りまで傾いたが、宝玉が重りとなってすぐに直立する。そのままゆらゆらと揺れながら、何やら憤慨したように尻尾を振りだした。


<あいつは、だって、だって、リリアーナ様を抱っこしたりお手紙もらったり修復に御髪を頂いたり差し向かいでお茶したりあまつさえそのお茶に手をつけなかったりとかンモ~無礼千万っ!>


「あぁ、うん……」


<だ、第一、リリアーナ様へ助言したりご相談に乗ったり時にはお諫めしたりするのはこの私、アルトバンデゥスのお役目でしたのに! リリアーナ様に頼りにされているからって最近あいつ調子に乗っております、ノリノリです、ずるい!>


「そうか……。アルトはカミロになりたいのか?」


<えっ! いや、あいつに成り代わりたい訳ではないです……>


 ぬいぐるみがうつむくように折れ曲がった。これは全体がボアーグルの顔面を模しているはずだが、細かいことは気にすまい。ぺたり下がった角の片方を持ち上げ、軽く揉む。


「わたしだって、お前がお前でなくなったら困る。何のために二年もの月日をかけてまで、宝玉だけでもとお前を取り出したと思っている。アルトバンデゥスの杖として我が手元へ在った時のように、時には話相手として、時には相談役として、そばにいてもらいたいと思ったからこそ真っ先にお前を呼んだのだぞ。アルト」


<リ、リリアーナ様ぁ……!>


 ぬいぐるみは再び直立し、小刻みに震え始めた。杖の頃にはなかったこうした表現手段も、きっとアルトバンデゥスの成長と言えるのだろう。製作者だって考えもしなかったに違いない。

 思考の先に自ら感情を得た思考武装インテリジェンスアーマ、古い友を片手に乗せて額を合わせる。


「デスタリオラであった頃からお前には助けられている。これから先もずっと、今のわたしが死ぬ日まで、どうかそばにいてくれ。アルトバンデゥス」


<はい、必ず。最後の最期のその時まで、誰よりもそばでお仕えいたします、リリアーナ様……!>


「うん」


<……ハッ! 死ぬまでそばにって、これはもしやプロポーズというものでは? 勝った、眼鏡に勝ったぞォ――!!>


 さすがにそれはない、と思ったが、喜んでいるようなのでそっとしておくことにした。

 アルトを机の上へ放ると、何やら騒ぎながらその場で跳ね続けている。平行移動からついには垂直方向への跳躍まで身につけたらしい。このまま行けばそのうち空を飛び始めるかもしれない。


 はしゃぐぬいぐるみを放って、アダルベルトが貸与してくれた冊子を手に取る。軽く中をめくってみると、細かな字でびっしりと紙面が埋められ、時には図解やどこかの風景のスケッチなどが載っていた。

 筆跡は手紙と同じものだ。おそらく原本からアダルベルト自身が書き写した控えなのだろう。五歳記の日に執務室で見せてもらった、施工事業の資料とよく似ていた。


 期待と喜びに、再び鼓動が速まるのを感じる。

 ここで時間を気にしながら中途半端に読むのも惜しいから、部屋へ持ち帰って夜にでもゆっくり見てみよう。

 それから、手紙の末尾にあった件。資料についての質問が許されているのも助かるし、ちょうど誰かに訊いてみたいと思っていたことがある。

 顔を上げ、歴史書などが収められた書架へ目を向けた。なくなった授業の補填にと、精霊教については読書による自習を続けている。時折新しい本が聖堂から届くためその都度目を通してはいるが、どうにも不自然な点があって気になるのだ。

 今さら別の官吏を呼んで質問する訳にもいかないから、疑問の解決は保留としていた。その点、すでに必要分の授業を履修しているアダルベルトなら何か知っているかもしれない。ちょうど良い、この機に手紙で兄へ訊ねてみることにしよう。



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[一言] タイトルみてなにか不穏なことがおこると思って一旦閉じてお茶飲んで深呼吸してから読みました ズコー
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