天井裏にあったのは
案内された客室はリリアーナの生活圏となっている西側の棟ではなく、中庭を挟んだ反対側にあった。とは言っても渡り廊下を進んで短い階段を上下するだけなので、さほど時間をかけずに着いてしまう。
フェリバの話では、外客が泊まる際に案内する部屋ではなく、本邸を訪れた親戚筋や分家の者が利用するために誂えられた部屋ということだ。
内装はリリアーナの私室よりも多少ごてごてとしていて、派手な額の絵画や金色の熊、謎の彫刻なども置かれている。元々そういった物に頓着しないたちであるし、仮宿なら生活の不足さえなければそれでいい。眠るために寝室を利用する以外、ここで長い時間を過ごすつもりはないのだから。
「大抵のものは揃っていますので、ご不便はないと思います。私たちもすぐそばの控えの間にいますから、何かあったらいつも通りベルで呼んでもらえればすっ飛んで来ますよー」
「普通に歩いて来てくれ。本も着替えもあるし、特に不便はなさそうだな」
来賓用らしく、居心地より装飾を優先していると思しきソファへ腰掛ける。艶やかな表皮は立派でも、何だか動物の背に座っているような感触だ。
内装も置物も上質であり決して下品ではないのだが、どうにもすわりが悪い。不足さえなければいいとは言っても、できればもっとシンプルな部屋が良かった。
「明日の朝はこちらで支度をして、隣室で授業を受けて頂いたら昼食まで自由時間です。ここの方が書斎に近いから良かったですね」
「まぁ、そうだな。午前中こちらへいる間に、天井の点検とやらは終わりそうか?」
「はい、その予定です。入り込んでる動物を探すみたいなこと言ってましたけど、ネコちゃんでも迷い込んじゃったんでしょうか?」
探すではなく、カミロは駆除と言っていたが。対象の正体が不明である以上、そのことは黙っていよう。
その後は普段通りの生活を送り、湯浴み後の髪を梳いたフェリバと寝室のチェックを終えたトマサは礼をして部屋を出ていった。
内装も匂いもいつもと異なるから多少落ち着かない気持ちになることは否めないが、一時的なことだ。余所の宿にでも泊まっていると思って我慢をしよう。
生前はベッドで眠るという習慣自体を持っていなかったが、ヒトとして生まれたことで得た『睡眠』はなかなかどうして、心地の良いものだった。
羽毛を詰められたふかふかの寝具に、さらりと手触りの良いシーツ。頭が沈み込む枕にはほんのりと花の香りが焚き込められている。
それらの柔らかな寝具へ体を沈めて深く呼吸をしていれば、たちまち睡魔がやってくる。
精神の墜落感を伴うそれは、意識が落ちるという未知の感覚があり、はじめの頃は大層戸惑った。だが眠りに落ちる前触れとして、当たり前のことだと慣れてしまえば心地の良いものだ。綿の中へ浮かぶような気持ちの良さを味わっているうちに、すっと落ちていく。
落ちた先には、たまに『夢』というものが待ち受けている。
知識として得ていた現象でも、実際に体感してみるとこれも面白い。過去にあった出来事、現実ではあり得ないこと、様々な場面を体験したり、時には物語のように見せてくれる。
それら全ての夢が、リリアーナとしての生を受けて以降の物事しか登場しないのも興味深い。デスタリオラの記憶を引き継いでいても、リリアーナの体と脳に刻まれている記憶は八年分しかないということなのだろう。
ベッドに腰掛け、その感触を確かめるように体を上下に揺らしてみる。
ベッドマットはしっかりとした厚みがあるけれど、普段使っている寝具よりも少しだけ硬いようだ。八歳の子どもの体が柔らかすぎるだけで、きっと大人にはこれくらいがちょうど良いのかもしれない。
「さて、人払いもできたしな。……アルト、先ほどは何か言いかけていただろう、天井裏の件に心当たりでもあるのか?」
枕元に置いてあったぬいぐるみを手に取り、黒くつぶらな瞳をのぞき込む。縫いつけられたボタンから視覚情報を得ているわけではないと頭ではわかっているのに、つい目の部分を見ながら話しかけてしまう。
両手で掴んだアルトは、落ち着きなく角を立てたり倒したり、尻尾の紐を揺らしながら思念を飛ばす。
<はい。実は以前に私を引き出して下さった時と同じような位置に、卵がありまして>
「待て。なに? 今……何と言った。たまご……?」
もにりと中央部を押し込むと「ぷぇ」なんていう鳴き声じみたものが返ってくる。相変わらず芸の細かいことだが、今はどうでもいい。
「何だそれは、初耳だぞ、何の卵だと?」
<あわー、すみません! 場所が場所だったので、私はてっきりリリアーナ様が用意されたものとばかり! 一年ほど前から気づいていたのですが、どうやら最近になって孵化したようです>
「孵化」
驚きすぎてそのままを繰り返してしまう。
天井裏に卵があったなんて知らない。毎日無防備に眠っているベッドの上にそんなものがあったとは。しかも天井の板は外れていたのだ、もしかしたら孵化した『何か』はそこから寝室へ降りて、眠っている間に危害を加えられていたかもしれない。
この脆弱な体では、薄い膚をほんの少し裂かれるだけで……爪や牙で動脈を切られるだけで、簡単に息絶えてしまう。
心穏やかでない報せに、ぬいぐるみを掴む手へ力が籠もる。
背筋を這う落ち着かない感覚。恐怖というよりも、おそらくこれは不安だ。自分の命を脅かしたかもしれない未知の存在、一体何が潜んでいたというのか。
「アルトにも何の卵かはわからないのか?」
<はい、申し訳ありません。大きさはリリアーナ様の手のひらほどの物でした。一年以上放置された状態でも細胞分裂を繰り返し孵化へ至ったとなると、通常の鳥類や爬虫類ではないようです>
「卵の殻が残っているなら、そこから何かわかるのでは?」
<殻は孵化した際に、栄養源として食してしまったようですね>
「足跡は追えないか?」
<申し訳ありません、現在の最大探査範囲はおよそ部屋ひとつ分ほどとなっておりまして。先ほど天井を通り過ぎた気配も速すぎて追えませんでした>
言葉をなくし、思わず瞑目する。
手のひらほどもある卵。それを覆っていた殻を食べてしまえるほどの顎、もしくは牙を持ち、素早い移動を繰り返す謎の生物。
正体不明のままにしておくのは心許ないが、証拠が残っておらず、孵化したものが移動してしまった以上ここでリリアーナにできることはない。明日の検査とやらで無事に捕獲、もしくは駆除ができれば良いのだが。
アルトの見立てでは通常の動物ではないと言う。となると、厄介な魔物の類かもしれない。たいした大きさではないらしいが、果たして小動物の類だと思った状態で敵うだろうか。
「ひとまず、明日の結果を待つしかないな。害のあるものでなければ良いのだが……」
一体何の卵が、なぜそんな場所にあったのか。何が生まれてどこへ行ったのか。疑問と不安の晴れない胸を抱えたまま、リリアーナは慣れない感触のベッドへもぐり込んだ。
◇◆◇
長い長い時間、身を閉じこめていた殻を食い破り、『それ』はついに外界へと顔を出した。
暗い場所だった。夜なのかと思った。脚を下ろした場所の材質から、すぐに何らかの建物の中であることが理解できた。鼻を鳴らし周囲を嗅いでみると、埃っぽさの中に木材と石と、何か甘い匂いが混じっている。
しばらくそのまま様子をうかがっても変化がないことを確かめ、『それ』はそっと脚を動かしてみる。腕も尻尾も不具合はない。視界が効かない狭い空間では他の部位を試すことはできない。
ひとまず移動の前にと、自身を包み閉じ込めていた殻を残らず平らげた。
最後の一欠片を飲み込む際に、甘い匂いが脚元から漂ってくることに気がついた。爪先でひっかいた感触は厚みのある木材のようだ。
いくらかそうしているうちに、爪の引っかかる部分がある。前脚も使って何とか引き剥がしてみると、床らしき部分が四角く外れた。
首を突き出し、下方へ現れた空間をのぞき込む。
……間違いない、何か甘い、いい匂いがする。
飛び降りてみようかとさらに顔を伸ばしたところで、慌ててそれを引っ込めた。
よく見れば、その空間には厄介な精霊どもがうようよと漂っているではないか。異様な密度だ、なめらかな背がぶわりと粟立つ。身の危険を察知し早々にその場から離れることにした。
歩いても歩いても、狭く暗い場所が続いていく。たまに壁のようなものに突き当たったが、沿って歩けば溝や穴がいくらでもあった。進める場所を見つけては歩き、行き当たればその都度向きを変えているため、すでに方向感覚は失われている。
いつになったら外に出られるのか。ここは一体どこなのか。木材で覆われた大きな建造物など知識にない。疲れては休み、また歩き、たまに休んでは進むことを繰り返してどれくらいになるだろう。覚えのある匂いが鼻先を掠めて、つられるようにそこへ近づいた。
何もない場所、かすかな甘い匂い。しばらくその場をぐるぐると回っていて脚裏の感触に気がついた。爪で引っ掻いた痕跡が残っている。ここは自分が最初に目を覚まして、木の板を引き剥がした場所だ。
板を元通りにした記憶はないが、どうやらぐるりと回って同じ場所へ戻ってきてしまったらしい。頭を抱えたくなるような思いに、脚を思い切り鳴らして駆け出した。
穴をくぐり隙間を抜け細い木材を渡り、とにかく走った。早くこの場所から抜け出したい、広い空間で羽を伸ばしたい、外の空気が吸いたい、もう暗いところはイヤだ。
そうして駆けるうちに、今度はまた違う匂いに鼻をひくつかせる。
嗅ぎ取った香ばしい匂い、どこか懐かしさを感じる、これは間違いなく食べ物だ。殻を食べて摂取した以外、久しく取っていない食糧を思い頭がくらくらする。空腹感はないが、何かを食べたいという欲求が急速に膨れ上がる。
匂いを辿り、注意深く脚を進めた先には、棒がいくつも突き立って行く手を塞いでいた。
爪で引っかいてみても金属製らしきそれはびくともしない。棒と棒の隙間に体をねじ込み、皮と肉の引き攣れる感覚に耐えながら何とか隙間を抜けきった。
草地のように脚が沈み込む、不可解なほど柔らかい地面を進む。匂いの元は近い。目の前の木を駆け上がる。
「な……っ、何だ!?」
ヒトの声が間近で上がった。木を登りきった先は平らになっており、驚いたような表情でこちらを伺うヒトがいる。
――匂い。甘い匂い。懐かしい匂いがする。空腹。そう、自分は腹が減っていたのだ。
ガチガチと牙を鳴らす。足りない、足りない、いっぱい欲しい。噛みつきたい、喰い破りたい、気の済むまで存分に。
目標を見定め、駆けだす。『それ』は急速に沸き上がった激しい飢餓感の赴くまま、眼前の白く柔らかな獲物へと食らいかかった。




