崩落⑥
キンケードの行動があまりに素早く、自分も連れて行けと言葉を足すのが間に合わなかった。今から追うにも体力を使いきってしまって手足に力が入らない。自力では馬車の外へ這い出るのも難しそうだ。
ひとまず生きている者がもうひとりいるというアルトの言葉を信じ、その容態を診せるべく潰れたぬいぐるみを掴んだ。
「父上、その窓の隙間から、これを外へ落としてもらないだろうか?」
「何だいこれ? 中になんか丸い物が……ん、もしかしてリリアーナが大事にしてくれている、ボアーグルのぬいぐるみか?」
首をかしげながらもこちらの頼みを疑うことなく、ファラムンドは受け取った布切れのようなアルトを窓の外にぺいっと投げ落とした。
「テオドゥロ、しっかりしろ、生きてるか!?」
窓枠ごと潰れているためそこから外の様子を伺うことはできないが、回り込んだキンケードの大声が聞こえてきた。一番窓に近いファラムンドが顔をしかめて両手で耳を塞ぐ。
<リリアーナ様、若者がひとり馬車と馬の間に挟まっていますが、外傷は軽微です。右足の打撲と他は擦り傷、意識がないのは脳震盪と酸欠によるによる気絶かと>
「たまたまココに挟まって助かったってことか? テオドゥロ、お前……良かった。ちょっと待ってろよ、すぐに出してやるからなっ!」
キンケードが救助のために何かしたのか、重い物を引きずるような音と共に馬車が少しだけ傾いだが、揺れと木の軋む音だけで済んだ。支柱と梁が折れていても倒壊する様子はない。あの土砂の山に押し潰されてもこれだけ保ったのだから、領主が長距離移動に使うというだけあって造りのしっかりした馬車なのだろう。
「キンケード、何か助けはいるか?」
「いや、こっちはオレだけで大丈夫だ。他の奴らも……あぁ、オレがもう少し何とかしとくさ。嬢ちゃんはそこで休んでろ。話さなくちゃなんねぇこともあんだろ」
外に散らばる遺体はいずれもキンケードの同僚たちだ。じきに街から救援が来るとはいえ、それまで野晒しにはしておけないのだろう。
もうひとりの生存者の負傷が軽いという知らせにほっと息をつき、そこで自分が未だカミロの服にしがみついたままだったことに気づいた。大部分は修復したとはいえ、未だ完治には程遠い怪我人だ。無理な体勢を取らせていたのではないかと、慌てて手を放す。
じっとりと濡れた両手は血の色に染まっていた。
もう嗅覚が麻痺してしまったのだろう、吐き気を伴う鉄臭さも感じない。
スカーフはすっかり汚れてしまったが、お陰でカミロの表情がわかる程度には血濡れの顔を拭うことができた。そんな侍従長は視線だけで周囲を見回したかと思うと、リリアーナの足元からレンズの割れた眼鏡を拾い上げた。蝶番が動くのを確かめると、つるの部分が曲がっているのも構わずそれを装着する。視力補正の役目は為さなくとも、かけていないと落ち着かないのかもしれない。
「ここは、境坂の辺りですよね。なぜリリアーナ様とキンケードが?」
「ええと……そうだな、うん。街から自警団の者たちが来る前に、ふたりには色々と話しておかねばならないな」
さまよわせた手がつい腰のポシェットをさぐるが、それは先ほど外したばかりだしアルトは外でキンケードと共にいる。無意識のうちにすっかり心の拠り所となっていたようだ。柔らかい感触が手の中にない心許なさを飲み込み、膝立ちの体勢から割れた床へと腰を下ろした。
「リリアーナ、こちらへおいで、お父さんの膝の上に座るといいよ」
「いや、手短に終えるからそのまま聞いてほしい」
「えー……」
ファラムンドの心遣いは有り難いけれど、向かい合っていた方が話しやすい。落胆に肩を下げる父へ申し訳なく思いながら、まずどこから話すべきかと考え視線を落とす。彼らには打ち明けられる範囲で本当のことを話し、後で口裏合わせなり状況説明なりに協力してもらわなければならないだろう。
どうせ隠し立てしたところで、不自然な部分は山ほど残る。このふたりが追求に回れば、自分とキンケードだけで誤魔化しきれるものではない。
「……地震のような揺れの中、土砂が落ちてくるのを見ました。我々は山崩れに巻き込まれたのですね?」
潰れた屋根を見上げながらそう口にするカミロは、疑問の形を取りながらも確信しているようだ。気を失う前に見たものと、意識を取り戻してから目の当たりにしているこの状況。それに自分がどれだけの怪我を負っていたのかなんて、全身を濡らす出血と衣服の破れを見れば一目瞭然だろう。
「命を救って頂いたこと、感謝いたします。本来であればこちらがあなたをお守りするべき立場だというのに。お恥ずかしい限りです」
「カミロは、そのぶん父上を守ってくれただろう。それで十分だ」
命を投げ出すなとは言えない。それが職務であり己の役割だと心得ているからこそ、極限状況の中で身を挺して主を守るなんて行動が取れたのだから。生きていてくれたことは嬉しいが、この男の矜持を決して否定はすまい。
きっとまた同じことが起きても、カミロは自分の命を盾にしてファラムンドを守るだろう。
「リリアーナ、今日は護衛のヒゲと侍女を連れて、街でお買い物という予定だったはずだが。どうしてこんな場所にいるんだい?」
「うん、まずその辺りからかいつまんで話そう」
コンティエラの別邸で、馬車が崩落に巻き込まれたという報せを受けたこと。トマサは本邸へ報告に行かせ、護衛のキンケードと共に馬で近道を突っ切って現場へ来たこと。(ここでファラムンドとカミロが揃って額を押さえた)岩場の上から崩落の現場を見て、先に来ていた自警団員たちは人手を連れて来させるため一度街まで戻したこと。
――そして。
「それで、その、精霊にお願いをしてな、土砂をどかしたのだ」
「……そうかー、どかしてくれたのかー」
「……左様でございますか」
どこか棒読みなファラムンドと、いつも通り淡々とした口調のカミロ。なぜかふたりとも視線が遠い。
思ったほど驚かれなかったことは意外だが、説明しづらい部分を追求されずに済むのなら正直助かる。精霊たちに力を借りて土砂を何とかしたことも嘘ではないのだから。
胸元からポケットチーフを取り出したカミロが、それを広げてリリアーナの後ろへ手を伸ばす。振り返ろうとするその視線を片手で遮りながら布で覆い隠したのは、馬車の出入口に倒れる侍女の頭部だった。未だ生々しい血臭を漂わせるそれは、込み入った会話の席にはそぐわないだろう。リリアーナとファラムンドの目に触れないようにという配慮からの行動であることも明らかではあるが。
上半身を馬車の外へ投げ出した格好のまま息絶えている死体は、頭部が完全に潰れているため顔を知っている侍女なのかの判別もつかない。その少し向こうには大きな血溜まりの中、ちぎれかけた馬の死体が転がっている。話をしている間にキンケードが回収したのか、リリアーナから見える範囲に自警団員たちの遺体は見当たらなかった。
アルトが報告をしてこなかったということは、姿の見えない御者はおそらく馬車の前方で死んでいるのだろう。
「……すまない」
「なぜリリアーナが謝るんだい。ヒゲとこんな所まで来たことは、まぁ後でしっかりお説教タイムを用意するけれど。私もこいつもリリアーナに救われたようなものなんだし」
「ええ。崩落はリリアーナ様のせいで起きたものではないのですから。彼女らのことも含め、何も気に病まれることはありません」
ふたりの言葉に首を横へ振る。崩落に関与していないことは勿論、この場を巻き戻しカミロの体を修復をしたことは悔いてはいない。他者が何人死んでいようと、ふたりの無事に安堵したことだって何も悪いとは思わない。謝罪するべき事柄はひとつだけ。
「とても、大事なことを伝えなければならない」
この場でどこまで打ち明けるのか。ギリギリまで悩んだ問題だが、自身が扱える権能と生前のこと、それからパストディーアーの関与以外はほぼ全て本当のことを伝えようと決めた。
崩落が事故であればまだ誤魔化しようもあった。だが、これが人為的に起こされた、領主の暗殺を目論んだものである以上、真実を詳らかにしなければ今後の危険に繋がる。また同様のことがあったとして、次も運良く間に合うとは限らないのだから。
「崩落は、自然現象ではない。父上を狙った誰かがこの辺りの精霊を利用し、だいぶ大掛かりな魔法を行使して起こしたものだ。でも、その犯人は取り逃がしてしまった……すまない」
「うん。現場の検証やその辺の洗い出しはしっかりやろう。あとは、私たちに任せてくれるかい?」
「え? あ……、あぁ。もちろんだ」
ファラムンドは軽い口調で応えると、伸ばした手でリリアーナの頭を優しく撫でる。血で汚れていない大きな手は、治癒の間にほどけた髪をゆっくりと梳いていく。
その仕草に父親の包容力のようなものを感じながらも、あっさりと娘の説明を飲み込み、何も疑問を表に出さないファラムンドが逆に不自然に思えた。明らかにおかしい状況なのに、力を借りた精霊のことも、どうやって治療したのかも何も訊いてこない。ヒトの領域では精霊と対話できる者などほとんどいないはず。自身の命を狙われた上、幾人もの死者が出たこの状況でなぜ目前にある不審な情報を放置できるのか。
すでに何か知っているのか。それとも子どもの言うことだからと話半分に聞いているのだろうか。ファラムンドやカミロに限ってそんなことはない、と……思いたい。
また何か、配慮や心配をされているのかもしれないし。
頭を撫でる優しい感触と、朝から積み重なった疲労もあいまって、父の体温を感じるうちに些細なことがどうでもよくなってくる。
そうして一度疲れを意識すると、途端に全身が重くなった。
「……ん? リリアーナ、ここだけちょっと髪が短いね?」
「うん。……カミロの修復に使った」
「は?」
「え?」
瞼が重い。
頭が揺れる。
思考が霞む。
……もう目を開けていられない。内側から急激な睡魔が押し寄せ、座っていることもできなくなった体からすとんと力が抜ける。温かい腕に抱き留められたと感じたのを最後に、リリアーナの意識は暗く深い眠りの底へと落ちていく。
力を使い切った幼い少女が自室で目を覚ましたのは、それから二日後のことだった。
◇◆◇
大人たちの間だけで全ての事後処理が行われた後、事件から三週間ばかり経ったある日のこと。
就寝前の読書タイムをまったりと楽しむリリアーナの眼前にパストディーアーが姿を現した。くどい顔が突然本と自分の間に現れて、羽虫を払うように手を払う。
「邪魔」
〘んも~、そのヒドい扱いも段々と癖になってきたわ……。あ、それよりもリリィちゃん、ちょっと伝言があるのよぉ〙
「伝言?」
大精霊をメッセンジャーに使うような存在がいるのかと、訝しげに眉根を寄せればパストディーアーはさもおかしげに口元へ指先をあてた。
〘この前の崩落があったあそこ、リリィちゃんが領域指定したトコ。あそこに棲みついてる子たちがね、もっと何かすることはないのか~ってごねてるわよぉ〙
「もっと何かって、あれでは足りなかったというのか?」
〘集めすぎたのと、楽しいことを見せすぎたのよ。元気が余って遊び足りないから、もっと何か命令してほしいみたい?〙
人差し指を唇へあてながら首をかしげる。そうした動作のたびに波打つ金髪を眺めながら、光の奔流となって助力してくれたかの地の汎精霊たちを思う。
ヒトの領域で初めて従えた精霊ということになるが、彼らは土地に棲んでいるため、たとえ喚んでもあの場所を動きはしないだろう。何か命じるのであれば、その場で完結するものしか頼むことはできない。あまり近寄る機会はないにせよ、領土を守るという意味ではきっとそれが正解だ。
「じゃあ……、天災にしろ人為的なものにしろ、もうあの場所で山崩れが起きないように、とか」
〘状態の保持だけじゃ足りないと思うわー〙
「んー、変化か。それなら花でも咲かせたらどうだ、あの辺は乾いて殺風景だったからな。ナスタチウムの種でも蒔いていっぱい咲かせたら見応えがありそうだ」
そんな思いつきを口にしただけの言葉は、大精霊を介してしっかりと伝えられた。
待ちに待った新しい仕事に全力で沸き立つ精霊たち。
土地を耕し、水分を引き込み、どこからともなく種を調達して増幅させた小さきものたちは、広大な円形の領域いっぱいに主の指定したナスタチウムを植えた。養分の集約された種は見る間に芽吹き、陽光をいっぱいに浴びて育ち、細胞分裂を促され、それから五日後には見事な花を咲かせるに至る。
突如出現した花畑に驚くのは、領道を通って行き交う商団や旅人たちだ。
主の瞳を想う汎精霊たちの意志を映したような、真っ赤なナスタチウムが咲き誇る一帯のことは、そうした者たちの口伝いに瞬く間に周辺領や中央で噂の的となった。
――曰く、幼い娘を溺愛する辺境伯が、その娘を喜ばせるためだけに用意した花園だとか。
――曰く、領内で問題を起こした聖堂が、領主への詫びのために加護を総動員して作り上げた庭園だとか。
――曰く、付近で起きた落石事故の犠牲者を偲び、土地の精霊たちが美しい花を咲かせたのだとか。
真偽の入り交じる様々な噂が飛び交う中、陽の季が過ぎても枯れない花々は単調な領道を通る者たちを大いに和ませ、イバニェス領の新たな名所となった。




