落命
まさか柱にぶつかった程度の衝撃で建物が崩れるはずあるまい。
そんな飛沫の考えを吹き飛ばすように床が傾き、天井から砂ではない大きな破片が落ちてくる。頭を庇うより先にカミロに抱えられて、何も見えなくなった。
「なん、なんだこれは! オイまさか本当に崩れっ、」
<リリアーナ様、すぐに防御を! 天井が落ちてきます!>
男が喚き続ける中、警告を呼びかけてくるアルト。
自分とてそうしたいのはやまやまだが、もう体のどこを絞っても魔法を扱う力は残っていない。カミロの服を掴んだまま何とか構成を浮かべようとしてみるが、目の奥が激しく痛む。
せめて簡単な、最小限の障壁だけでも――
鼓膜を殴りつけるような轟音と、傾いた床から伝わる振動。圧迫に窓ガラスが全て割れ、雨のように様々なものが落ちてくる。
そして、度々味わっている内臓の浮く感覚。
まずい。
そう思った一瞬、意識が真っ黒に塗りつぶされた。
ずきずき、ガンガンと頭が痛み、暗がりの中で目を開けた。
ひどく頭が痛む。
後頭部をおさえようとした手はうまく上がらなかった。
次第に意識がはっきりしてくると、頭以外にも体中のそこかしこが痛み、しばらく意識を失っていたのだと自覚した。
どれくらいの間、目を閉じていたのだろう。まばたきを繰り返しても視界は晴れない。光源がないのか、明け方にふと目を覚ましたときのような、暗く薄ぼんやりとした像が目の前に。
もう建物の崩壊はおさまったらしい。時折、近くでぱらぱらと破片の落ちる音が聞こえてくる。
状況を探ろうと腕に力を入れても、体が思うように動かない。痛む全身がどこもかしこも重い。
「……?」
そこで、いつもなら真っ先にこちらの安全を気にかけるカミロが黙ったままでいることに気づく。
自分と同じように気を失っているのかもしれない。動く範囲の手探りで、目の前にある布地がカミロの服だろうと見当をつける。
<リリアーナ様、あまり動かないでください、ひどいお怪我です。ここから脱するよりも外からの救助を待ちましょう。幸い、近くに衛兵や自警団員たちがおりますから>
「う……、カミロと、トマサと、頭領殿はどうした?」
<トマサ殿はちょうど階下の吹き抜けにいたようで、倒壊には巻き込まれておりません、ご安心ください>
宙をさまよわせた手が、すぐそばにある固いものにふれた。壁面のような、さらりとした手触りの平たいもの。転がった時にそばにあった黒檀の机だろうか。
動く範囲で頭を持ち上げてみると、どうやらこの机が斜めになった石の柱を受け止め、その隙間に自分たちが上手いこと収まっているようだ。
周囲は上階が崩れて落ちてきた建材や石で埋まっており、小さな隙間から光が差している。床が抜けて落下したダメージは手痛いが、たまたま転がった先に頑丈な机があったお陰で命拾いしたらしい。
「……カミロ、大丈夫か?」
まだ目を覚まさないなら、自分と同じように頭でも打ったのだろうか。怪我の具合はどうだろう、未だぼんやりとした視界の中、服を辿って顔面にふれる。
落下の衝撃で眼鏡はどこかへ飛んでしまったらしい。せっかく修理してもらったばかりなのに、この状態では掘り返して見つけ出すまで当分かかりそうだ。
指先でふれた頬は、それが肌とは思えないほど冷えていた。
あまり良い状態とは思えない、早く外にいる者たちに居所を知らせて治療しなければ。
「アルト、カミロはどこを怪我しているんだ? もし傷が深いなら念話で誰かに知らせて、早くここから掘り出してもらわないと」
<リリアーナ様、どうか動かずに、そうして起きているだけでもお体に負担が。骨折も打撲も複数箇所ございます、私がトマサ殿へ呼びかけて救援を呼びますので、今はそのままじっとして体温と体力の保持に努めてください>
焦りの滲む念話は、至極真っ当なことを言っている。だが、アルトバンデゥスが自分の問いを無視したことなんて、これまで一度もなかった。
二回も訊ねたのにどうして答えない?
カミロは大丈夫なのか?
男のコートにもたれたまま、動かしづらい腕を支えて自分の上半身を起き上がらせる。狭い空間の中で膝を立てようとしたが、そこからどうしても動けなかった。足が何かに引っかかっている。
足元へ目をこらすと、右足の膝から下が大きな建材の下敷きになっていた。
見なければ良かった。知ってしまったことで、ひどい痛みを知覚する。全身くまなく痛いものだから紛れていたけれど、途端にこれまで味わったことのない激痛が襲ってくる。
「……っ!」
歯を食いしばり、息を殺しながら自覚してしまった痛みに耐える。そこでカミロの体に沿わせていた手が、何か硬質なものにぶつかった。
正面にある男の体、胸から右下、ここは腹のはずなのに、服でも肉でもないものがそこにあった。
柱の一部、それとも階下にあった家具だろうか。瓦礫に寄り掛かるカミロの腹の半分を突き破り、石なのか木なのか材質もわからない何かが生えている。
様子を探っていた手が、いつの間にかぬるりとした液体で濡れていた。鉄のにおい、いきもののにおい。
良く知っている、赤い血の匂い。
「カミロ……?」
呼びかけ、顔にふれる。冷たい肌、首筋に指をあててみるが、脈拍はよくわからなかった。
胸元に耳をつける。鼓動は、……微かに聞こえる。
体を伸ばして口元へ顔を近づけると、わずかにだが呼吸を感じられた。
どっと汗があふれ、不安に詰めていた息を一気に吐き出す。
大丈夫だ、まだ生きている。
「カミロ、……カミロッ!」
「……、」
何度か呼びかけると閉じられた目蓋が震え、少しだけ目が開かれる。
焦点の合わない目がこちらを向き、何か言おうとしたのだろう、唇からか細い息が漏れた。
「カミロ、大丈夫だ、今すぐ助けを呼ぶから」
「……リ、……」
「わ、わたしは平気だぞ、またお前が身を挺して守るから……いつも、そんなボロボロになるんだ。この調子ではお前、命がいくつあっても足りないではないか」
全く平気とは言えない状態だが、それを隠して叱りつけるように言うと、口の端がわずかに動く。笑おうとしたのかもしれない。
力なく傾きそうになるカミロの頭を両手で支えたまま、焦燥に自分の心音が早くなるのを感じた。
「アルト! エルシオンはどこだ、あいつならすぐに治せるはずだ、奴を呼んでくれ!」
<……申し訳ありません、念話の範囲外のようです。先ほどトマサ殿へ場所をお伝えしましたので、もう少しで救援がこちらへ参ります>
アルトから返ってきた応えに歯噛みする。どうして必要な時に限ってそばにいないのか、いつも鬱陶しいくらいまとわりついてくるくせに、役に立たない――
そんなことを考えかけ、否定する。
今日までエルシオンには十分すぎるほど助けられた、ついさっきだって奴のお陰で墜落死を免れたばかりなのに、一体何を考えているのだろう。
こんなところで八つ当たりをしていても仕方ない。荒い呼吸を抑えながら、片手を下ろして傷の様子を探る。
「とにかく止血を……救助が来るまでもたせないと。アルト、傷の具合を報告しろ」
<リリアーナ様……>
「報告しろ! カミロが死んでしまう!」
その言葉を口にしたことで現実を痛感し、体が崩れ落ちそうになる。
足が震える、全身が痛い。
激しい目眩にふらつく頭を気力だけで支え、目の前の肩に額をのせた。
自分の耳にふれる首筋が冷たい。どれだけの血液を流したのだろう。
本当はわかっている。いくら止血しても、傷を塞いでも、失った血液は戻らない。
アルトがどうしてカミロの状態を伝えてこなかったのかも、わかっている。この律義な忠臣は、よほどのことがなければ自分の言いつけを無視するはずがないと。
「どうして……」
どうして、こんなことになった。
トマサに任せて外で待っていれば良かったのだろうか?
いや、トマサひとりを行かせたとしても、同じように建物が崩れ、ふたりとも下敷きになったかもしれない。
カミロを領事館へ行かせなければ良かったのか?
もっと早くセトを止めていれば防げたのか?
そもそも、この町にカミロを連れてこなければ、こんなことには……
後悔が尽きない。いま目を閉じるとそのまま意識まで落ちそうだ。
なけなしの力を振り絞り、かすむ焦点を結び、治癒の構成をえがく。
どれだけ消耗していようと、心臓を握り締めてでも捻出してみせる、自分が生きている限りゼロではないのだから。
「――……っ」
眼球の奥がちりちりと弾け、毛細血管の千切れる感触がある。
鼓動がさらに早まり、頭蓋を引き絞られるような激しい頭痛に苛まれる。
痛い。痛い。体の隅々が限界を訴える中、その何もかもを無視して魔法を使う。
<リリアーナ様っ、だめです、どうかおやめ下さい! それ以上はヒトの身の生命活動に差し障ります!>
「い、やだ、……いやだ、いやだ、いやだっ!」
こんなところで、こんな死に方をするべき男ではない。
自分がいるのに、みすみす死なせてなるものか。絶対に、そんなことは許さない!
目蓋の下が黒ずんだ白い顔、冷たい肌。構成が像を結びきるのを待たずに、細い呼吸音がそこで止まった。




