サルメンハーラ空中戦①
頭の中へ直接響くような雄叫びのあと、ぐっと速度が増した。
落ちないように体を強く抱きしめてくれるアダルベルトの腕がきつく、息が詰まる。急激な加速に体が押しつぶされ、このままでは口から内臓が出かねない。
意識が飛ぶ寸前の圧に耐える中、どうにか簡単な【浮遊】の構成を描きあげる。
「これで……っ」
ただ体を浮かせるだけの魔法が、これほどありがたいと感じたことはない。途端に全身へかかっていた重みが消え、呼吸もできるようになった。
重力から半ば解放されたことで、腹部への圧迫も消える。そうして腕にかかる負担が減ったことを感じ取ったのだろう、顔のあたる胸の動きで、兄も安堵の息をついたのがわかった。
もうこんなに力いっぱい抱き締めなくても落ちはしないと示し、体の間に空きを持たせる。
「……はぁ、危なかった」
「急に軽くなったな。リリアーナが魔法で何かしたのか?」
「うん、兄上とわたしの体を、浮かせて、重量を緩和して、いる」
そう短い言葉を交わす間にも激しい風が吹きつけ、息をするだけでも苦しくてかなわない。空気抵抗の激しさに目も開けていられなかった。
手探りでポシェットを探すがどこにもない。そういえば先ほど紐の切れた感触があったから、あの時に落としてしまったのだろう。あの中にはアルトだけでなく、花畑で回収してきた精輝石も入っていたのに。
周囲に精霊たちがおらず、補助となる石もない。こんな状況であといくつ魔法を使えるだろう。
ひとまず苦痛の緩和ができたから、次は呼吸の確保だ。極楽鳥に乗っていた時と同じように球形の障壁を作り出し、自分と兄の体を包み込んだ。
「これで、少しは楽になったか……」
ほっと胸をなでおろすものの、この状況では安心してもいられない。最近は地力が増してきたとはいえ、このふたつを維持したままでは軽い魔法をあとひとつ扱えるかどうかという所。
体力的な持続時間の問題もあるが、それより――
「……っぐ、ぅ」
大きく旋回するたびに体が振り回されて内臓が浮く。頭蓋の中身を上下に振って混ぜられるような不快感。
そうして飛行の角度が変わったことで、靄の中心部にはっきりとした鳥影があるのを視認する。
いや、鳥なんて規模ではない、遠近感がおかしくなるような大きさだ。翼を広げたその白い影は、巨大に思えた飛竜のゆうに二倍はあるだろう。
久し振りに目にするその姿へ、今は懐かしさよりも畏怖が勝る。
気軽にその背へ乗っていた頃はあまり気にしなかったけれど、そういえば竜の姿をしたセトは何人も乗せて運べるほどの巨体なのだ。そのくせ中身の内臓や骨格をしっかり作り込んでいるのだから、総重量はいかほどか。
上空に佇む白い巨躯に唖然としながらも、顔を上げて兄の様子をうかがう。
「兄上、大丈夫か?」
「俺はまだ、なんとか。リリアーナのほうこそ仰向けのままで苦しいだろう、すまない……、俺が余計なことをしたせいで巻き込んだ」
「いや、兄上がひとりで攫われてしまうよりはずっと良い。でないと、ここまで追ってきた意味がないからな」
霧のような薄雲をまといながら、首を持ち上げた巨竜が鳴き声を轟かせる。
鼓膜に、肌に、頭の中にビリビリと直接響いてくるような大音量。それが音声なのか念話なのかも判然としない。
同じような音で応えるエトが顎を大きく開き、そのまま溜めなしに眩いブレスを放つ。
――一閃。
構成という設計段階を経ない、純粋な力の波動だ。帯電する光の放射は瞬時に白竜へと辿り着き、その眼前で破裂音とともに霧散した。
「セトは何か不可視の障壁を張っているようだな、魔法ではないから原理はさっぱりわからんが」
「あの白い竜、セトっていうのは、本当にエトの母親なのか?」
「そのはずだ。てっきりエトを迎えに来たものとばかり思っていたが、この険呑な気配は一体……まさか自分の仔がわからない訳でもないだろうに」
そういえば生前に収蔵空間内の整頓をしていた折、エトは母竜と争って家出してきたようなことを言っていた。
未だその時の鬱憤を忘れていないにしても、セトのほうは姿を消した仔を心配してキヴィランタ中を探し回っていたのだ。四十年振りの再会ならもっと喜んでもいいはずなのに、全くそんな様子には見えない。
光の先制攻撃を凌いだ巨竜は、空中で白い翼をゆっくりと羽ばたかせる。その動作に何かを予感したらしく、飛竜の姿を取るエトは突如体を傾けて大きく旋回した。
風圧を残し通り過ぎる、目に映らない力。
アダルベルトとともに身を固めて遠心力に耐えるが、浮遊と風膜のお陰で先ほどよりは苦しくなかった。空中を回ったり傾いたりしてばかりで、もう上下の感覚が曖昧だ。
……その直後、背後で響いた爆音に息を飲む。エトが大振りに回避した何かが、離れた岩山を爆散させたようだ。遠目に崩れる土砂と岩を呆けたように眺めながら、急激に血の気が下がるのを感じる。
「あ、あんなものが町を直撃したら、被害は計り知れないぞ、早く止めさせないと」
「エト、エト! やめるんだ、俺の声が聞こえないのか!」
エトをなだめようとアダルベルトが声を張り上げても、一向に効果は見られない。あれほど懐いていたというのに、脚に掴んだ体を顧みることもなく一心に上昇を続ける。
興奮しすぎてこちらの声が届いていないのか……と考えてから、ふと、両腕を広げたくらいの範囲に風の障壁を張っていることを思い出した。余程大きな声でなければ空気の層に阻まれてしまう。
慌てて範囲を拡大させ、エトの頭部までを包み込む。途端に体へかかる負担がぐっと増したけれど、今ばかりは仕方ない。
「エト! 落ち着け!」
<アデュー、おれ、やるぞーやるぞー!>
「いやいやいや、やらなくていい止めてくれ! せっかくお母さんと会えたのに、どうしてケンカなんかするんだ!」
<今度こそ、やっつけないとだめだ! やっつけてやる!>
ようやくアダルベルトの声が届いたのに、まるで聞く耳をもたないエトは相手を見下ろす位置で上昇を止め、そこで口を大きく開いて波動の第二波を放った。
眩い閃光にぎゅっと目を閉じる。その間に先ほどと同じ破裂音が響き、またも障壁に弾かれたのだと知れた。
見たところ常に全身を覆っている訳ではなく、着弾の瞬間に発動する防御のようだ。
戦闘態勢のセトを目の当たりにするのはこれが初めてだが、もし生前に本気で戦う機会があったとして、果してデスタリオラの力で勝つことができただろうか。
初めて会った時には、内臓まで完璧に『生物』として作っていたことと相手の油断もあり危うく殺しかけた相手だが、今の状態こそが本来の翼竜。
精霊と生物の境、この世界の要素をカタチにして命芽吹いた精霊種。
白い竜という見た目をしていても、実体は要素の塊だから物理攻撃や普通の魔法はまず通用しない。
「兄上、エトに声をかけ続けてくれ。衝突を止めようにも、あの白竜にはわたしたちの声が届かない。何とかエトを落ち着かせて母親のことを宥めてもらわねば」
「ああ、もちろん。ご挨拶もしないといけないし、せっかく会えたのに親子喧嘩だなんて。こんなぶつかり合いをしなくとも、言葉を扱えるなら対話で分かり合えるはずだ!」
心根の純粋な兄はそう言って拳をかため、エトに向かって声を張り上げる。
その間にできることはないかとセトに目を向ければ、巨体の前に多数の光球が円をなして浮かび上がるところだった。
構成を挟まずとも力を扱える翼竜の、明らかな予備動作。一目でまずいとわかる。
「エト、避けろ!」
その忠告は間に合っていたのかどうか、急旋回して角度を変えたエトは真っ逆さまに地面へ向けて急降下した。浮遊を使っていても慣性には敵わない、内臓の跳ねる感覚をこらえる中、すさまじい光量の波動が通り過ぎていくのを見た。
だがセトの眼前には未だ円環が浮かんでいる。高度を下げたエトめがけ、すぐに第二射が撃たれた。
「――~……っ!」
腹に力を入れて耐えるしかない。
エトは脚にアダルベルトを掴んでいることを忘れているのか、それともヒトの体の脆弱さを未だ知らないだけなのか。自分が魔法を使っていなければ、とっくに肺が潰れ背骨も折れてふたりとも死んでいる。
腹膜を打つ衝撃と、度重なる遠心力の暴力。
それが過ぎ去り、どうにか二撃目もかわしきったらしいと薄目を開く。
そこで目にしたのは、空振った波動光が地上を薙ぎ払う爆煙だった。
乾いた平地が遠くの海沿いまで深く抉られ、線状の痕跡がもうもうと砂煙を上げている。
地面に描かれた一直線の傷。直に目の当たりにしていなければ、とても現実とは信じがたい光景が眼下に広がっていた。
体の奥底まで響いた今の衝撃は、爆音だったのかと遅れて気づく。
「なっ……」
頭の上でアダルベルトが絶句する。自分も言葉が出てこない。
ほんのあと少し、角度が悪ければ町の端にも当たっていただろう。
あんなものがサルメンハーラの町を直撃すれば、建物への被害だけでなく途方もない数の死人が出てしまう。住民たちはもとより、あそこにはレオカディオやカミロ、トマサたちもいるというのに。
「エト、やめるんだ! セトにも言ってくれ、こんなところで戦うなーっ!」
限界まで張り上げた叫びは障壁の外まで漏れたのだろうか。高高度の空中に佇んだまま羽ばたき以外に動きを見せなかったセトが、そこで何かに気づいたようにゆっくりと首をもたげて移動を始めた。




