うまやの朝
馬車の扉を開けて一歩外へ出ると、ちょうどトマサが厩に併設された小屋からこちらへ向かっているところだった。片手をあげて朝の挨拶をすれば、見慣れた丁寧な礼が返される。
「リリアーナ様、よくお休みになられましたか?」
「ゆっくり寝させてもらえたお陰でな。他の皆はもう起きているのか?」
「はい、レオカディオ様と八朔様が中で朝食をお召し上がりに。アダルベルト様は先ほど仔竜の様子を見るため、馬車へお戻りになられております」
どうやら自分が一番の寝坊だったようだ。とはいえ兄たちは先に朝食をとっているようだし、ノーア以外の誰かを待たせずに済んで良かった。
いい匂いの漂う小屋へ向かおうとしたところでふと足を止め、右手を上げてトマサに北の空を指し示す。
「ところでトマサ、あっちの空に何か見えるか?」
「……? 申し訳ありません、私の視力では特に何も」
「いや、見えないなら良いんだ、わたしも空しか見えないから気にしないでくれ。それはそうと、昨晩は櫓のあたりに鎧が転がっていたと思うんだが、あれはどこへ行った?」
空から視線を下ろした厩の敷地に、あの艶やかな甲冑の姿はどこにもなかった。
泥酔していたエルシオンが目を覚まして移動したのだろうか。地面をよく見てみれば、昨晩蹲っていた場所から何かを引きずったような細い跡がついている。
「あの鎧は今朝方、侍従長が手押し車に載せてあちらの納屋へ運んでおりました」
「ああ、なるほど、この線は車輪の跡か……」
ということは、奴はまだ寝こけたままらしい。
昨晩までどこで何をしていたのか、それとデスタリオラの死骸の行方などエルシオンに問いたいことは多々あるけれど、せっかくカミロが片付けてくれたのだし、そばにいるとうるさいから起きるまで放っておこう。
そうして朝食の支度がされている小屋へと向かいながら、なぜ屋敷にいるはずのトマサがレオカディオと一緒にこの町へ来たのかを訊ねてみることにした。
――三日前、屋敷でアダルベルトが攫われたとき、ちょうど下の庭にいたアーロンは窓が室内から破られるのを目撃したらしい。
トマサ自身も駆けつけた部屋の中には窓ガラスの破片がほとんどないことを確認し、その窓から見上げれば空を旋回する飛竜の影。
外部からの刺客ではないようだとアーロンや守衛部とも相談して、いち早くそれを報せるためにまごつく警備の面々を差し置き、ひとり馬を駆けてコンティエラへ向かったらしい。
決断と行動が早いのは結構だが、危ないことをする。
カステルヘルミといいトマサといい、もう少し保身を優先してほしいと思うのだが、それを指摘すればそのまま返ってくる気がしたリリアーナは黙っていることにした。
「旦那様のご判断もあり、そのままレオカディオ様に同行させて頂きました」
「そうだったのか、いつもレオ兄についている侍女がいないからどうしたのかと思っていた。馬車での強行移動は大変だったろう」
「とんでもない。私などより空を行かれたリリアーナ様のほうがどれほど怖ろしい目に遭ったことでしょう。本当に、ご無事で何よりです。旦那様も心配しておいででした」
「ん、父上には無理を言ってしまった。三人揃ってこちらに来ているから心配をかけているだろうが、ひとまずアダルベルト兄上が外から襲われたわけではないと把握しているなら良かった」
未だコンティエラへの報せを出せず、アダルベルトの無事を伝えられていない。
現状を知る手立てのない中、悪意ある誰かによって誘拐されたわけではなさそうだと、安心できる要素を把握できているだけでも大違いだろう。
何も訊かず自分を送り出してくれた父には感謝しているし、レオカディオやテオドゥロをこちらへ向かわせてくれたお陰で昨晩は困難な状況を切り抜けることができた。無事にアダルベルトを確保できたのは、ほとんどがファラムンドの判断のお陰だ。
早く帰って彼を安心させるとともに、自分も父の顔が見たいと強く思った。
「それから、旦那様からアダルベルト様への伝言をひとつ承っております」
「伝言?」
「『ペットの躾はちゃんとするように』だそうです」
「……」
兄が隠れて竜を飼っていたことも、今回の騒動はそれが原因だということもすっかりバレているようだ。
後続として向かわせた人選といい、ファラムンドは一体どこまでお見通しなのだろうかと、肌寒い中でも額に汗がじんわりと浮かんでくる。
小屋の扉を開けると、ほっと肩から力が抜けるほど室内は温かかった。火をくべた暖炉が赤々として、そのそばのテーブルではレオカディオと八朔が朝食をとっている。
厩の管理員の駐在所ということでその他の調度品はないも等しい状態だが、今は温かな部屋で食事をとれるだけでも有難い。
兄の手招きに応えてそちらへ近寄ると、給仕のエプロンを身に着けた老婆が果物の乗ったプレートを運んできた。慣れた様子でトマサが支度を受け継ぎ、入れ替わるようにして奥へと戻って行く。
ここの管理をしている者なのだろうか、厨房があるらしい奥の部屋でカミロと話している声がかすかに漏れ聞こえてくる。
「おはよう。レオ兄と八朔もよく眠れたか?」
「おはようございます、お嬢。お陰さんで久し振りにぐっすり寝た気がする」
「僕もだよ」
八朔に続いてそう答えるレオカディオは、相変らず顔色が優れない。疲労の残った目元からはとても熟睡できたとは思えないけれど、本人が言うならそういうことにしておこう。
トマサに椅子を引かれ、次兄の向かいの席に腰を下ろす。
食卓には綺麗にカットされた果物やパン、チーズとハムを使った片手でつまめるような軽食など、あまり手のかからなそうな料理が並んでいた。
おそらく火や調理器具を使う設備がないのだろう。この状況で贅沢を言う気はないし、限られた食材と道具でここまでおいしそうな朝食を用意してくれたなら十分すぎる程だ。器用なカミロがいてくれて良かった。
「あまり減っていないようだが、ふたりともちゃんと食べているのか?」
「こっちの彼はもりもり食べてたよ、リリアーナが起きる頃だから追加されたんだ。僕は朝あんまり食べないのは知ってるだろ、気にしないで食べなよ」
カミロが作っているから毒見もいらないし、と付け足しながら、レオカディオが切られたパンの詰まった籠を押してくる。
何かいつもと様子が違うなと考えて、その表情が眠たそうに緩んでいることに気がつく。いつもであれば、他人のいる場でこんな油断は決して見せない。
八朔に気を許しているという風でもないし、昨晩のあれで何か心変わりでもあったのだろうか?
開きかけた口が、胃袋の収縮音によって止められる。頭の中に厳しい顔をしたバレンティン夫人が浮かぶものの、幸い向かいの席までは届いていないようだ。
トマサがお茶を注いでくれた簡素なカップを手に、ひとまず朝食をとることにした。




