viewpoint
最初に背中の違和感が気になり、それから尻や足のあたりが妙に痛むと気がついた。
居心地がわるいというか、寝苦しいというか。
うまく働かない頭では状況が理解できず、見慣れない木製の低い天井を見上げながら、リリアーナはしばらくぼんやりしていた。
<お目覚めですか? おはようございます、リリアーナ様。もう少し眠っていても大丈夫そうですよ>
「ん……? ええと、なんだっけ……?」
<昨晩は兄君たちも遅かったので、まだ就寝中のようです。先に支度を済まされたトマサ殿もしばらくは起こしに来ないかと>
頭に響く兄という言葉に、昨晩の出来事が薄っすらと思い出される。
櫓の上でアダルベルトと話している途中、レオカディオも上って来たことは覚えている。毛布に包まったままあれこれと話し込んで、何やら吹っ切れた様子の次兄も交え、転がる話題はイバニェス領の産業や商工業にも及び――
そこから先の記憶が全く残っていない。
「ま、まさか、わたしは寝落ちたのか? あんな楽しそうな話題のさなかに?」
普段の雑談ではなく、領の内情や商業にまつわる話で兄たちと意見を交わしたのは初めてだった。訊きたいことも色々あったというのに、どうしてそう肝心なときに寝こけてしまうのか。
後悔に頭を抱えて左右に転がっていると、危うく端から落ちそうになる。慌てて体を起こしてみれば、そこはベッドではなく狭い長椅子。あたりを見回しているうちにようやく目も覚めてきた。
そういえば、昨晩は厩に停めてある馬車で夜を越すことになったのだ。携行用の毛布は薄く、椅子もあまり柔らかくないせいで体のあちこちが痛む。
櫓の上で眠ってしまった後は、アダルベルトがここまで運んでくれたのだろうか?
一昨日もマグナレアに洗われて気持ちよくなっている間に寝落ちたばかりなのに、今度は話している最中にまで寝てしまうとは。
「はぁ、惜しいことをした。幼い体は貧弱な上に、睡眠欲に弱いのが難点だな……」
<夜更かしは健康にも悪影響を及ぼすそうですから、しっかり眠るのは良いことかと>
「ん、確かに。食事と睡眠は大事だ。兄たちとは帰りの馬車も一緒だろうし、そこで話の続きをねだるとしよう」
そう切り替えて、そばに置いてあったタオルを濡らして顔を拭き、適当に身支度を整えた。
本来であればトマサを呼んで手伝ってもらうべきなのだが、今朝はひとりでないと都合の悪い用事もある。
「アルト、昨日の起床もこれくらいの時刻だったか?」
<そうですね、お目覚めは昨日のほうがもう少しばかり早かったでしょうか>
となると、身支度を挟んだ分だけ昨日よりも時間が過ぎている。「必ずこの時間帯に」と言われたのは別に約束というわけではないけれど、勝手に破れば小言が三倍くらい増えそうだ。
彼が向けてくるであろう不機嫌そうな顔を想像しながら、小さく聖句を唱えて周囲の精霊たちを集める。聖堂からは離れてしまったけれど、この地にいる限りは呼び集めるだけでも昨日の朝と同じ状況を作れるはず。
『唄おう 唄おう 光る友ら 手伝っておくれ――』
目蓋を閉じて、思い浮かべるのは空を望む大きな窓。
白い壁。
白い部屋。
その中に佇む神経質そうな細い面差しの少年。
陽に透ける白髪と綻びひとつない刺繍のローブ。
意識が抜き取られるような浮遊感と、思考まで塗りつぶされる白い靄を抜けた先、目を開けばそこは三度目の訪れとなるノーアの部屋だった。
これまでは不意をついて意識を剥がされたけれど、今回は意図して訪れることができたから驚きはない。余裕をもって対峙すれば、眼前の少年はきりりと眦をつりあげた。
「遅い!」
「言うと思った」
開口一番、予想通りの不機嫌顔で告げられた文句にこくりとうなずく。
「昨晩遅くてな、つい先ほど起きたばかりなんだ、許せ。今度は寝間着ではないし、ちゃんと顔も拭いたぞ?」
「それくらい当然だろう、礼節以前の問題として年頃の娘どころかそもそも人間としての自覚が足りないんじゃないのか?」
「朝からそうカリカリ怒るな。そんなに長くは待たせていないだろう?」
「別に待ってない、不意を突かれるのが嫌だっただけだ」
思っていた通りの反応は、もはや挨拶代わりのようにも感じる。片手をひらりと振ってその挨拶に応え、周囲を見回した。
柳眉をしかめる少年は昨日と同じように座っており、自分の視点はその向かい、テーブルの上だ。
首や眼球を動かすのではなく、視点そのもの―― 【遠視】を使ってサルメンハーラの町を見下ろしていた時の感覚で、視野角を調整してみる。
「……ふむ、なるほど。やはりこういう感じか、だいぶわかってきた」
「何が?」
「この『精霊の悪戯』も、仕掛けさえわかれば魔法での再現が可能だろう。とは言っても、この場所の正確な座標が判明するまではわたしから勝手に繋ぐことはできない、安心しろ」
「その言葉のどこに安心しろと……」
頭痛をこらえるように眉間を押さえるノーアは、今朝は部屋にひとりきり。昨日に続きこうして会いに来るだろうと予想して、あらかじめ人払いしておいてくれたようだ。
「お前はもう朝食は済ませたのか?」
「済ませたけど、何?」
「それなら良かった。わたしはまだだから、腹が空いていてな。目の前で食べられたら会話に身が入らないかなと思った」
「そもそも人と話しながらひとりで食べたりしない。君と一緒にしないでくれ」
清々しい朝だというのにすでに疲れたような顔をする少年は、どかりと音をたてて椅子の背もたれに寄り掛かった。
「それで、今朝は何の用? まさか、また精霊が勝手にやったとか言うつもり?」
「いや、今日は自発的に繋いでもらった。おそらく今日中にはサルメンハーラを発つだろうから、お前とこうして話せるのもしばらくお預けだ」
「そう。用事が終わったということ」
訳知り顔でそう応える少年に対して、あまり驚きはなかった。昨日の朝、自分たちがサルメンハーラを訪れていることは話したから、もしかしたらその後に、とは思っていた。
「単刀直入に訊ねるが、こちらの事情はどの辺まで把握している?」
「どの辺も何も……」
「お前は離れた場所の出来事を知れるのだろう? 精度や範囲まではわからんし、想像の域を出ないが……あの商工会の副会長の悪事をばらした時のことを考えるに、『対象』の指定が必要なんじゃないか?」
「……」
応えないノーアに構わず、視点をもう少し下げて目線が同じ高さになるよう調整する。
自分がこの通話を魔法で再現するとしたら、互いに丸窓を覗くような形になるだろう。ヒトであるうちは、こうして部屋を訪れていると錯覚するような思念の転移までは手が届きそうもない。
「探査の魔法とも違うようだし。街であの男を転移させたように、精霊たちを働かせているのか?」
「まぁ、そんなところかな」
「別に手の内を明かせとまでは言わん。昨日の時点では、サルメンハーラを訪れていることと聖堂に寝泊りしていることしか、わたしの口から言えることはなかったが。もし本当に知る手立てがあるなら、お前が自分で調べるのではないかと少しだけ期待もしていた」
そもそも、自分に自治領の存在を教えてくれたのはノーアの方だ。
民間で広く知られている以上の知識を持っていた上、隠されているらしい曾祖父の暗殺にまで言及してきたことを思えば、『知っている』ということを彼自身が隠していない。
同席したカミロのほうも、この少年になら知られていてもおかしくないというような反応だった。
(昨日聞こえた、『大精霊様の宣託』とやらが関係しているのだろうな……)
転移なんていう難度の高い魔法を行使させているなら、大精霊クラスの存在がノーアについているのは予想できていた。
自分と同じ精霊眼を持っているにも関わらず、なぜか自身では魔法を扱わずに精霊を働かせている。
色々と訊いてみたいことはあるけれど、ひとまず今は後回しだ。
「昨日の朝から、事態があれこれと動いてな。すでにお前がある程度知っているなら話も楽になるんだが」
「別に、君がどうなろうと何の興味もないけど、サルメンハーラで揉め事を起こされると僕も面倒だから調べただけだよ。……イバニェス領主邸が飛竜に襲われて、誰か攫われたんだろう。わざわざ君が追いかけたってことは被害者は身内か?」
やはり調べてくれたのかと予想の的中に満足しながら、首肯を返す。
「うむ。サーレンバー領で捕まえた『勇者』が乗り物を用意してくれたから、カミロと一緒にそれに乗って追いかけて、ついでに手配をかけていた行商人を捕らえ、武器強盗をしていた異種族の少年も捕まえて、その流れでサルメンハーラ側の衛兵たちと揉めることになったが何とか逃れ、うちの長兄を攫った飛竜も今は大人しくしているから、昨晩合流した次兄とともにこれから屋敷へ帰るんだ」
「ま、まて。待って。ひとつずつ言え、何なんだそれは?」
「いやぁ、我がことながら改めて言葉にするとせわしないな。とにかく色々あったが、全部片づいて良かった」
「色々で済ませるな! 襲われたのはイバニェスの嫡男だったのか? 大ごとじゃないか! それに異種族が武器強盗で衛兵と揉めて次男までそこにいると? って、あの『勇者』が同行? は? は?」
白い少年は驚愕と困惑のない交ぜになった表情のまま、唖然とこちらを見返す。
混乱のしかたが少しレオカディオと似ているな、なんて思いながら、固まったまま思考を整理しているらしいノーアを眺める。
「全部片がついたから大丈夫だ、心配するな」
「誰も心配なんてしてないだろ。……昨日の朝、君がのほほんとしているものだから、そんな大ごとだなんて想像もしなかった。僕の予見が浅かった。もう少し情報を深掘りしておくべきだった。本当に君の周囲はろくなことが起きない」
「失礼な奴だな、まるでわたしのせいみたいに言うな。たまたま厄介事が重なっただけだろう」
実体はないけれど不機嫌を表明すべく頬を膨らませる。自分だって大変だったのにあんまりな言い草だ。
もっとも、全て穏便に済んだからこそこうして笑い話にもできるわけだが。
テーブルに肘をついて項垂れるノーアの頭頂部を見ながらむくれていると、少年はのそりと白い顔を上げた。
「まさか、全部偶然だ、なんて言うつもり?」
「たまたま色んなことが重なっただけだ」
「……本気でそう思うのか?」
前髪が落す影の向こうから、妙に真剣な眼差しがこちらへ向けられる。
まるで自分の考えなしな呑気さを射抜くように。
「不穏なことを言うな。だって、どれもこれもが別件だろう。詳しく説明するほどの時間はないが、飛竜に攫われた長兄を追うと決めたのは私自身だし、サルメンハーラは行商人と武器強盗の少年にとって所縁のある地で、別にここにいても……」
――そう、いても不思議はない。
アイゼンはこの町に実家があり、八朔は牢に捕らえられていた。
だが、この広い町の中、たった一日の滞在で自分がそのふたりと顔を合わせることになったのは、本当にただの「偶然」と言えるだろうか?




