間章・とある深い森の片隅で③
負傷した少年を屋敷へ連れ帰って四日。傷の治りは順調だったが、蓄積した疲労と安堵によるものか、ひどい熱を出してずっと寝込んでいた。
エルネストが替えた包帯や薬袋をまとめたトレイを手に部屋を出ると、侍女が素早くそれを受け取り、入れ違いで来た侍従が微妙な顔でこちらを見てくる。何を言いたいかはだいたい察しがつくため、素通りするように設えられたソファへと腰かけた。
「何も、旦那様が自ら世話をなさらずとも……」
「あの子は知らない人間がそばにいると警戒するだろう? 熱がもう少し下がるまでは、心の負担も減らしたほうがいいと思ってね」
治療を受ける間もずっと神経を尖らせていた少年は、今は隣室のソファで寝ている。
どうもベッドの柔らかさが慣れないらしく、目を離すと床に転がっていることが度々あり、折衷案として硬めのソファで納得してもらった。背もたれと肘掛けに沿って体を横たえると、少しは安心できるらしい。
私室としているフロアには空き部屋がいくつもあるし、世話ついでにそのひとつを貸し出すくらいわけもない。ここで過ごして二日、多少は慣れてくれただろうか。
街の治療院で目覚めた時、そして眠っている間にこの屋敷へ連れてきた翌朝は、まるで捕獲したての野良猫のような有様だった。
常に気を張りつめ、周囲の全てに警戒を向けて。そうしなければ生きていられない環境に長くいたことは想像に難くないし、無理にそれをやめろと言う気もなかった。
目が、野生動物のそれだ。
踏み込み方を誤れば、いつ喉笛を噛み切られてもおかしくないような獰猛な攻撃性が潜んでいる。
発熱と疲労によって意識が落ちるまで、毎日そんな調子では回復にも差し障るだろうに。侍女や医者よりはまだマシなようだと判断し、こうして自ら世話役を勝って出てはいるが、それでもあの子どもは決してこちらに気を許していない。
「それで? 今朝も報告が上ってきたのだろう。山賊どもの件はもう調べがついたのかい?」
「あ、ええ、強奪品の大半はクレーモラ側の村落で狩ったものと思われます。微妙な辺りなので移動経路は未だ調査中ですが、あの少年の証言通り、最近は領境に目をつけて一定期間ごとにねぐらを変えていたようです。あの辺りなら集落が丸ごとひとつ消えても外に知られにくいでしょうし。なんて卑劣な……」
「うん。あの日の昼食後に移動予定だったと、彼も言っていたからね。生モノや重たい食糧を使い切るため、豪勢に具だくさんのシチューにしたんだって。全員が料理を口にするようになるまで四十日、よく耐えたものだよ、あんなボロボロになって」
ファラムンドによる左目の創傷はさておき、少年の体中に刻まれた傷跡は何年も経っているような古いものもあったが、目立つ多くはここ最近につけられたものばかり。薬草と応急処置によって化膿などは止められていても、医者も顔を顰めるほどの酷い状態だった。
憂さ晴らしの理不尽な暴力、火傷に打撲痕、無尽蔵な切り傷。点々とした同じ幅の傷が気になって訊いてみると、「ナイフ投げの的にされた」と何でもないことのように言っていた。
まだ若いからある程度は癒えるとしても、きっと消えきらない傷のほうが多いだろう。
あの少年は集落への襲撃を目の当たりにし、山賊らの後をつけてねぐらまで追いかけると、所持していた肉や炭を差し出して自ら「炊事でも狩りでも何でもするから仲間に入れてくれ」と頼み込んだらしい。
日々暴力を受け、毒見くらいしか食事にありつけず、奴隷として寝る間もなくこき使われて。
それでも辛抱強く待ち続けたのだ、あの細腕でも屈強な男たち全員を殺しきれるそのタイミングを。
「例の痺れ薬入りのシチューですか。でも、あの子どもは毒見として口にしたのに、どうして無事だったのでしょう?」
「野草やキノコの類は、微量なりと毒分の含まれているものも多いからね。普段から口にして、体が慣れているから平気なんだと言っていたよ」
「それでも、あんな……、」
生真面目な侍従は何かを言い淀んでから、耐えかねるように顔を逸らす。
「私もあの日、検分には同行しましたが……、あんな幼い子どもがアレをやっただなんて、未だに信じられません」
言いたいことはおおよそ理解できるが、事実として起きたことであり、現場に残された痕跡からも少年が嘘を言っていないのは明らか。報告を受けた時はそれなりに驚いたものの、疑いはしなかった。
「あんな、まるで作業のように同じ……十人もの人間の喉を掻き切って殺害するだなんて……」
エルネスト自身は残念ながらその現場を目にしてはいないが、生きたまま喉をナイフで裂いたのだから、十人分ともなれば現場はまさに血の海だっただろう。初めて会った時に返り血でドロドロだったのも納得だ。
十一人目、山賊の頭領だけはシチューの具材しか口にしていなかったとかで、痺れ薬の効きが悪く揉み合いになってしまったらしい。それでも、満身創痍になりながら彼は仕留め切った。
いつ気まぐれに殺されるかもわからない状況の中、一体どんな精神をしていたら何十日ものあいだ牙を研ぎ、たった一度のチャンスを待って耐え忍べるのだろう。
まだ十歳にも満たない子どもが、本当に大したものだ。
「呼吸困難と出血で、せいぜい苦しんで死んだならいい気味だけどね。あのあたり、領境の被害状況は引き続き調べてもらうとして、襲われた集落の方はどうなった?」
「あ……、ええ、住民らの埋葬は終えたとのことです。遺体はすべて集会場のような小屋に集められており、妙な匂いのする枝を被せていたせいか、腐敗はしても獣や虫に食い荒らされた様子はなかったと」
「へぇ、そういう木もあるんだねぇ、あとであの子に訊いてみよう」
「そんな呑気な……」
神経のか細い侍従はまだ顔色を悪くしたまま、続く文句を飲み込んだようだ。にこにこと楽しそうに笑うエルネストをしばし見つめてから、胃痛でも起こしたように顔を引きつらせる。
「まさかとは思いますが、旦那様……」
「うん?」
「あの少年を、このまま屋敷へ置くつもりですか?」
「うん」
ここへ連れてきた時点でわかりそうなものなのに、何を今さらとばかりに無邪気な笑みで返すエルネスト。もっとも、手元に置こうと決めたのはもう少し後のことだけれど。
「あの子は逸材だよ。知識量からも地頭が良いのはわかるし、思考力、決断力、実行力とも年齢にそぐわないほど備えている。忍耐力もあるね。腕っぷしも確かだし、ここで育てれば面白いかんじに育つんじゃないかな?」
「あんな身元も知れない孤児を引き取るおつもりで?」
「ふふふ、そんなこと言って、僕がそうするって決めたらどうせ逆らわないくせに」
傍らの侍従は、「逆らわないんじゃなく、逆らっても何言っても無駄なだけじゃないですか」と声に出さないまでも顔にありありと描いている。
仕事はできるのだが、どうも主張が薄く押しも弱い。そのうち本当に胃を痛めるのではないかとちょっと心配だ。
「それにね、あれくらい強い子を今から育てておけば、ファラムンドの手綱を取れる良い侍従になるかもしれないじゃない? 君んとこのソラも賢くて良い子だけど、まともすぎて振り回されるのが落ちでしょ?」
「普通の、侍従は、賢くてまともなら、務まるはずなんですよ……」
沈痛な面持ちで俯く背中を叩いて励まし、ついでに手にしていた書類を下から抜き取ってぱらぱらと目を通す。昨日の報告と、今聞いた話が簡潔に書き留められただけのメモ書きはもう不要だろう、このまま火にくべるよう指示をする。
自分と関係各所だけが把握していれば良い情報だ。
「あの子には、救助した女性は聖堂が面倒を見てくれることになったと伝えてある。余計なことは言わないようにね」
「心得ております」
負傷した自分をではなく、捕らえられている女性を助けてくれと、真っ先に頼んできた少年。聞けば家族というわけでもなく、名前すら知らない間柄だというのに。
山賊がねぐらにしていた廃村、鍵のかかった小屋の中には、足の腱を切られた若い女ふたりの死体があったと聞いている。死因はまだ定かでないが、使い終わったから移動するのか、移動するから処分したのか。どちらにせよ胸糞の悪くなる話だ。
「心根の素直さと、獣の獰猛さが同居している。面白い子だよね」
うっそりと微笑み、エルネストは節くれだった細い指を組む。
「育ての親が、外部に報せるために小屋を燃やして煙を上げたんだって、あの子は言っていたけどね」
「……?」
首を傾げるような気配を背に、独白のようにそのまま続ける。
「僕はたぶん、違うんじゃないかって思うんだ。あんな深い森の中じゃあ小屋一軒分の煙が上ったところで、行商人も一番近くの村ですらも、誰も異常に気づきやしないよ」
「では、燃やしたのは徒労だったと?」
「そうじゃなくてね。そもそも、誰か来てくれの合図ではなく、こっちに来るなというつもりで煙を上げたんじゃないかなって。たったひとりに向けて、危険だから近寄るなと報せたかったんだよ。もう自分は助からないと悟ったから最後の力で狼煙を上げたんだ」
本当はどうだったかなんて、もう誰にも確かめるすべはない。
だが、育ての親である老爺の立場になってみれば、考えずともそっちが正解だったのではと思う。森の中での生活だ、山火事の危険性や煙の嗅ぎ分けについても教え込んでいたはず。
あそこで生きていくために必要な知識、技術、自分に伝えられる全てを。
どういう経緯であの子どもを育てていたのかは分からないけれど、結果的にあの少年はその教えと経験してきたことを生かし、逃げるのではなく仇を討ってみせた。
「……だとしたら、やるせないですね。逃がしたかったのに逆に呼び寄せてしまうだなんて」
「それでも、あの子に後悔はなかろうよ。彼が細い可能性に賭けて頑張ってくれたおかげで、山賊による犠牲も打ち止めにできた。ウチに引き取って面倒見るくらい正当な報酬と言えないかい?」
同情心を嵩増しされたせいだろう、お人好しの侍従は物憂げな面持ちのまま何かを考え込む。後でもう一押しすれば、使用人棟の部屋や登録の手配を進んでやってくれそうだ。
作法や座学は年の近いソラと一緒に習わせるとして、荒事に関してはアーロンに任せておけば良いだろうか。
侍女の用意したカップを持ち上げ、その陰でエルネストはひっそりと微笑む。
一律に喉笛を掻き切られた山賊の死体のうち、端の一体だけは傷が深かったと聞いている。『最初』だから躊躇により手元がブレたのだと、現場を検証した者たちはそう判断しただろう。
だがエルネストは少年から老爺の最期を聞いて、ああ、本当は全員の首を切り落としたかったのだなと理解した。
でも一撃で切断するには少年の力が足りず、痺れ薬が効いている間に全員を始末するには時間をかけていられない。それで、仕方なく最短手で命を刈り取った。
その潔さ、切り替え、思考、どれも非常に興味深い。
手元に置いて育てたいと思ったのは、正にその時だ。
 




