ぶらり庶民の味
そうこう話しながら歩いているうちに、何やら空腹を刺激するいい匂いが漂ってきた。
炙った脂の匂い、香ばしい焼きたてパンの匂い、みずみずしい果物の香り、そういったものが渾然一体となって進むごとに濃度を増していく。
周囲には再び出店の類も増えてきた。このあたりから飲食物を扱った商店の並びになるらしい。
「いい匂いだな」
「ああ、腹が減るなぁ」
「……先ほど購入に寄った雑貨店、鉢などを買って銀貨一枚相当だったようだが。たとえばあの露天に積まれた大きな林檎なら、銀貨一枚でいくつ買える?」
「んー、そうさなぁ、十個買えばオマケでもう一個つけてくれるって辺りじゃねぇか?」
オマケとやらの概念はよく分からないが、銀貨一枚で林檎が十個。果実は近隣でもよく採れると聞くから、遠方より取り寄せる茶葉と違ってそう高価なものではないだろう。
「では大人の食事、一食分では銀貨何枚くらい使うんだ?」
「まぁ食うモノや人によって違うだろうけどよ、銀貨じゃなく、銅で大体五枚くらいか? オレは腹いっぱい食うなら銀貨一枚ちょいかかるけどな」
そう言ってキンケードは着ている衣服をごそごそと探ると、煉瓦色をした一枚のコインを取り出して見せた。「やるよ」と言うので素直に受け取って眺めてみる。酸化のため元の色がわからないほどくすんでいるが、銅でできた貨幣らしい。銀貨よりやや大きく、表面には一枚の葉が刻印されている。
銅十枚で銀貨一枚分、銀貨十枚で金貨一枚分、ということだろう。
「なるほど、参考になるな。感謝する」
「へっへ、どーいたしまして!」
商いの様子を観察していると、金銭のやり取りに使っているのは銅か銀貨ばかりに見える。一食分の十倍以上もするなら、飲食物の売買に金貨が使われないのは納得だ。ヒトの領では金が大層な価値をもって扱われていることは以前より聞き知っていたため、貨幣制度に馴染みがなくとも三種類の貨幣についてはすんなりと納得できた。
侍従長は、もしかしたらレオカディオには金貨と銀貨で『お小遣い』を用立てたのかもしれない。枚数と重量がかさんでしまうことを考えれば、リリアーナへは小さな金貨五枚だけを渡すだろう。発生するお釣りで貨幣の種類と価値の差を知ることも考慮の上で。
鈍い色をした手の中の銅を、そこに浮かぶ葉の図柄を再度眺める。銀貨には花が、金貨には横に葉の広がった樹が描かれていた。貨幣の図柄として鋳造されているからには、これらの植物には何か意味があるのだろう。後で書斎の本を調べてみて、それで分からなければアーロン爺にでも訊いてみよう。
「……む。何やら、とてつもなくおいしそうな匂いがする」
「するな」
焼いた肉と小麦の匂い。そこに何か香辛料のようなつんとした香りが混ざり、油で揚げる煙たさを伴って流れてきた。鼻を掠める香ばしさだけでたまらない。
首を巡らせて匂いの元を探してみると、道の少し先にあるやや大きめの屋台で何かを揚げているようだ。
「あれはブニェロスですね」
「ぶにぇ……?」
「麦を練った生地に、たれで絡めた肉や野菜などを乗せ、折り畳んで油で揚げているのです。領民にはごく一般的な軽食ですが、リリアーナ様がお口にされるようなものでは」
野外で調理されたもの、それもどこの誰とも知れない者が作っている料理。使われている食材も調理器具も本当に安全かわからない上、毒味だけで不安要素が取り除けるものでもない。監督責任を負っているトマサとしては、リリアーナの口に入れるべきではないと判断するのも当然だろう。
だが、今は、とてつもなく腹が減っているのだ。馬上にあった時点ですでに小腹が空いていたというのに、長く歩いた先にこの匂いを嗅いで果たして我慢ができるのか。できるものか。できないとも。
安全面に対する合理的な判断は、肉と麦と脂の誘惑にあっさりと折れた。
「よし決めた。物価の学習の一環として、領民の一般的な軽食とやらを試しに購入してみよう!」
「そうだな、それは名案だぜ、勉強のためなら仕方ねーよな!」
「さぁ行け、キンケードよ!」
「了解!」
息のあったやり取りと共に、リリアーナの指さす屋台へ向けて足を早めるキンケード。引き留めることを諦めたトマサは、たまの外出くらい羽目を外すのも仕方ないかと息をつき、足早にふたりへ続いた。
ブニェロスという食べ物は、トマサの言う通り中に肉などの具材をたっぷりと詰めて揚げた、重みのある揚げパンのようなものだった。具をのせて左右上下を折っているため形は四角く、注文するとしばらく冷まして油紙で包んだものを手渡される。
同じものを三つ購入すると、銀貨を一枚渡して銅一枚のお釣りがきた。受け取ったあつあつのブニェロスはキンケードとトマサに任せ、手に握っていた分とお釣りの銅の二枚をポシェットの小袋へと収める。買い物をして貨幣は消費しているのに、反して量と重みは増えていく。小袋が膨らむ分だけ鞄の中ではアルトが圧迫されていそうだ。
<いえ、まだまだ……まだイケますぞ!>
そう言ってツノを立てて見せるぬいぐるみの頭をぺちりと叩く。やはりツノの部分を自在に動かせるようになっているらしい。万が一誰かの目に入って不審に思われたらどうする気なのか。中綿を圧縮するように上から強く押さえ、頭のてっぺんまでポシェットの中へ押し込んだ。
商店の喧騒から少し離れた並木の陰、腰掛けるのにちょうど良さそうな石組みがあったので、そこへ布を敷いて小休憩を取ることにした。囲われた中は土砂で埋まっているから、元は花壇だったのかもしれない。
両手をハンカチでよく拭われ、一言断ったトマサがブニェロスのひとつを軽くちぎって毒味を済ませる。内容物も味も特に問題はなかったらしく、「少しだけ辛味があります」という忠告と共に、紙で包まれたブニェロスをそっと手渡された。
「まだ中の具は熱いですから、ヤケドにはお気をつけください」
「うん。キンケードも遠慮なく食べろ、今日の労いだ」
「そんじゃ遠慮なくいただくぜ。小腹の空く時間だよなぁ」
隣の大男とそろって、揚げたてのブニェロスへかぶりつく。一口目は周囲の皮ばかりが口に入ってきたが、それ自体もほんのりとした甘みがあって非常にうまい。バリバリと音がするほど固い表面は、アマダの料理では食べたことのない食感だ。
二口目になると中身の具材も出てきた。細切れにされた肉と深い緑の野菜が、濃いめの味付けをされていっぱいに詰められている。じゅわっと溢れる肉汁と野菜の歯応え、それに絡められた香辛料混じりのたれが舌を痺れさせる、かなり刺激的な味わいだ。
だが辛すぎるということもなく、皮の甘みと肉の旨みがそれをほどよく中和している。甘いようで辛くて旨い、舌の上の情報量が多い。固い皮と柔らかい肉の合わさった噛み心地も面白く、普段食べている料理より荒っぽい作りだが、これはそうあったほうがおいしい物だとわかる。
小さな口で夢中になって咀嚼していると、隣のキンケードはもう食べ終わったらしい。くしゃっと手の中で丸めた包み紙を、当たり前のようにトマサが受け取った。
「あー、うまかった。ごちそうさん!」
「……うん、これは、うまいな。とてもうまい。トマサもちゃんと食べているか?」
「ええ、いただいております。久しぶりに食べましたが、リリアーナ様のお口に合ったようで何よりでございます」
温かいものを食べたためか、別邸を出た時は青白かったトマサの顔もだいぶ血色がよくなっている。キンケードの素行を注意してばかりで、自分の世話以外にも余計な気苦労を負わせてしまった。今は一息ついたことで細いかんばせもいくらか和らいでいる。休憩ついでに腹がふくれ、体も温まったのなら良かった。
「フェリバたちへも土産に買って帰りたいところだが、帰り着く頃には冷めてしまうだろうしな」
「そのお気持ちと土産話だけで、十分喜ばれますよ。ですがリリアーナ様、戻られた後に少しお休みされたら、もう夕食のお時間になるかと思われますが……大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。これくらいなら普段のおやつと大差ない」
多少腹が膨れていたところで、アマダの料理を残すなんてとんでもない。腹の空き具合が足りないようであれば、休憩はせずに中庭でも散歩していればいい。
ちゃんと目当ての品を購入することができて、領民たちの売買の様子を見学し、こうしておいしいものまで食べられた。今日の外出は満足度、充実度ともに満点と言っていいだろう。
以前はキヴィランタまで自力で渡ってきた武装商人たちとの、物々交換による交易しか行ったことがなかった。貨幣制度にも興味はあったから、自身の手で金銭を用いて買い物をすることができたのは喜ばしい。食べながらもつい頬が緩む。
「嬉しそーだな、そんなにうまいか?」
「嬉しいし、うまいぞ。やっと自分で買い物ができたのだ、今日のことは生涯忘れない」
「大げさだな、……まぁ何つーか、喜んでもらえたなら良かったぜ。さっきオレが言ったこともよ、その……」
何やら隣で口をもごもごとさせて言い淀む。大男が背を縮めてしおらしそうにしている様など、あまり食事中に眺めていたいものでもない。食べ進めながら視線で促すと、キンケードは決まり悪そうに言葉を続けた。
「店に入る前に言った、贈り物の話だよ。渡したら終わりっていうよかさ、貰う物じゃなく贈る物だってこと」
「……つまり?」
「つまり、えっとな、満足どうこうもそうなんだけど。贈る物なんだから、贈る側のための物でもあるって言いたかったんだよオレは。贈ることを楽しめばイイっていうか……」
贈り物は自己満足、という話の続きだろう。要約すると、贈り手側に主体があるからこそ『贈り物』と言うのだから、義務感などではなくもっと気楽にそれ自体を楽しめ、と言いたいらしい。
……つまり満足感を得ることと同義ではないかと思うのだが、言い回しによって受け取り手に与える感情が異なる点を気にしているのかもしれない。図体のわりに意外と繊細な男だ。
「大丈夫だ、お前の言いたいことは概ねわかっている。お陰でちゃんと選ぶのも楽しかった」
「そ、そうか? それならいいんだけどよ」
キンケードはそう言うと、首の後ろをさすりながら情けない顔で笑って見せた。




