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おいしい転生


 生きていると、最初にそう知覚したときは未だ視覚も聴覚も未発達な状態で、言葉を発することすら叶わなかった。


 口から出るのは生まれたての赤子のような泣き声と、意味をなさない呻きのみ。

 開ききらない小さな指に回らない首、視界は薄らぼんやりとして音もよく聞き取れない。指どころか四肢も満足に動かすことができず、頭の中は常に薄く霧がかかったように不確か。

 そうして柔らかな肌で触れる世界は、これまでと一変していた。

 腹が減れば乳を吸い、思うまま泣きわめき、排泄は大きなヒトの手によって始末される日々。

 赤子のような、どころではない。自分の肉体がヒトの赤子そのものになっているのだ。

 だが、正確に状況を把握するまでには、それからさらに半年程の月日を要した。



「リリアーナ様、今日もたくさんお食べになられましたね」


「リリアーナ様はすり潰した林檎がお好みのようですね」


「リリアーナ様は、菜っ葉を混ぜ込んだ離乳食も残さず食べてくださるから偉いなー、うちの弟どもとは大違いですよ」


 毎日世話を焼いてくれる侍女たちが、華やいだ声をあげる。

 その頃にはリリアーナという新しい名で呼ばれることも、不自由な体にも、他人から赤子としての扱いを受けることにもすっかりと慣れていた。順応性には自信があるのだ。

 『魔王』デスタリオラとして生きていた頃の記憶も未だ鮮明で、食事から排泄まで全ての世話を焼かれることに、いささかの気恥ずかしさを覚えないでもない。

 だが、元々従者たちへ身支度などを任せることに慣れた身であり、何より今はヒトの介添を必要とする乳幼児なのだ。何を遠慮する必要があろうか。


 一日に四回、侍女らの手で赤子用の椅子へ移され、細やかに食事の世話を焼かれる。

 生後数ヶ月も経つと乳母のもとから離されて、匙を使って粘性の食物を口へ運ばれるようになっていた。

 赤や黄の果物をすり下ろしたものや、砕いて蒸した穀物へ細かい青菜を混ぜ込んだものなど、日々様々な食物を用意される。

 口を開いて舌の上で咀嚼し、ごくりと飲み込んでみせれば大げさなほど喜ばれた。


 生育過程で必要な量が用意されているのだろうと、毎日の食事は残さず平らげていたが、それは必要な栄養素の補給という目的のためだけではない。

 ……「おいしい」と、初めて感じたのだ。


 以前の体でも味覚そのものは有していたはずだが、食事による栄養補給の必要がなかったため、生きている間にほとんど食糧を口にすることがなかった。

 麦の穂ひと房、木の実ひと粒であろうと限りある物資なのだから、不要な自分よりもそれらを必要とする者が食すべきだと考えたためだ。

 乾燥した土地の広がる魔王領キヴィランタは農作物が育ちにくく、自らの在任中も食料の入手が困難という時期が長かった。摂食の必要がない自分などより、飢えた弱小種族らの食い扶持が優先されるのは当然のこと。

 ゆえに生前は水と、必要な場面であれば色の濃い酒、それくらいしか口にした記憶がない。


 だから色とりどりの果実が、白い穀物が、緑色の葉物が、こんなにもおいしいものだとはついぞ知り得なかった。

 せっかく『役割』以外のあらゆる自由を許された身でいたのに、少々もったいないことをしたという思いが今さらながら沸き上がる。

 貢ぎ物の中にあった大きな肉塊や、珍しい形をした魚介類、庭へ植えた樹に実る金色の果実など、一口だけでも味わってみればよかった。

 後悔先に立たず。過ぎたことはどうしようもない、食物へ対する好奇心が足りなかった自分が悪い。

 そのかわり、新たな生では目の前の食事を堪能し、未だ見ぬ食物の数々を心待ちにするという楽しみができた。


 そう。過ぎたことはどうしようもないのだ。

 自分は一度死んだ。

 それは覆すことのできない現実。

 生き返ることは不可能だが、こうしてヒトの赤子として改めて生まれてきたのだ。取り戻せないものを嘆いたところで仕方ないのだし、今は食の楽しみを満喫しながら自身の生育を進めていこう。


 歯が生え揃えば、もっと色んなものを食べられる。

 体が大きくなれば、それだけたくさんの料理を食べることができる。

 歩けるようになれば、自分で美味なものを探し求めることも叶う。

 成人し肉体が成熟すれば酒も嗜めるだろう。

 何と先々の楽しみなことか!



 ――と、そんなことを考えていた生後八ヶ月目。

 成長にともない脳がある程度の発達をしたためだろうか、それまで靄がかかったようだった記憶と思考がはっきりとしてきた。

 そして思い出したのだ。



「『悪徳令嬢として悪辣に振る舞い、短い生を謳歌せよ』と、生まれる直前に大地の意志から声をかけられてな。その何やら悪い感じの令嬢とかいうのが、我に与えられた新たな『役割』らしい」


<……>


 リリアーナは手からこぼれ落ちた宝玉を拾い上げ、生後からの顛末をかいつまんで語り聞かせる。


 以前であれば言葉を発して語る以外にも、念話同士のやりとりで意志の疎通を行うこともあった。しかし思念波の送信は魔法行使の一端だ、未成熟なヒトの幼体ではまだ難しい。

 そのためアルトバンデゥスからは思念波、リリアーナからは声音での会話となるわけだが、なぜか宝玉は先ほどから黙り込んだまま何も言葉をよこさない。

 相手の話を一通り聞こうという姿勢なのだろう。相も変わらずの謙虚さに口の端へ苦笑が乗る。

 ならば手短かに、その後のことも語らねばなるまい。

 手のひらに乗る冷たい感触を握りしめながら、リリアーナはカーテンの向こう、薄い水色の空へと視線を向けた。




 乳幼児を過ぎて四肢がわずかばかりしっかりしだした頃、リリアーナはそれまで過ごしていた離れの建物から、本邸のこの部屋へと移された。

 乳は乳母から、離乳食は三人の侍女たちから与えられたが、それまで母親らしき存在を見かけたことがない。

 無理な出産であったのか、それとも産後の肥立ちが悪く命を落としたのだろうか。

 親というものに若干の興味を持っていたため、母親と接する機会が失われたことは正直残念にも思ったが、父親のほうは健在であった。


 周囲の世話人たちから漏れ聞こえる話によると、リリアーナの父はこの一帯を治める領主をしているらしい。

 食事の豊富さや侍女の数などから、それなりに身分の高い者なのだろうと予測はしていたが、土地を治めるほどの立場とは思わなかった。食に生きる目的を見いだした以上、扶養する者が裕福であるに越したことはない。


 そんな実父であるが、数日に一度どころか月に一度顔を見せれば良い方で、その手にリリアーナを抱き上げることもふれることもなかった。

 いつも離れた場所から観察し、生育状況に変わりはないかと侍女に少しばかりの聞き取りをすると、赤子を抱きもせず部屋を後にする。

 たまに土産物などを持ってくることもあるが、リリアーナ本人へ声をかけることはない。

 女児であり、すでに嫡子を得ているのであればその態度も仕方がないのかもしれないが、父親はほとんど娘のリリアーナに興味を持ってはいない様子であった。

 別段、そのことを残念に思ったり恨んだりという気持ちはない。満足な衣食住を与えられ、きちんと育ててもらっているだけでも十分にありがたい。

 土地を治めるような立場にある相手だ、叶うことならそのうち、領地経営や治水などについて意見交換をしてみたいとすら思っている。

 そのためにも、まずは対等な会話が可能となる年齢まで自身の生育を進めるべきだろう。


 今のままでも対話は十分可能であるが、生後四年ほどの幼児が突然執政について語りだせば、さぞ不審に思われるに違いない。

 あと十年程度は待って、それなりにヒト社会の知識を身に着けたあとならば不自然でもないだろう。と、適当な算段をつける。

 リリアーナとして生きていくと決めた以上、できれば家人に無用な不安を与えたくはない。

 血縁者と接する機会は稀でも、日々甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる侍女たちには愛着のようなものも湧いていた。

 ヒトの娘として育ててもらっているのだから、ここで扶養を受けている間は期待通りに普通の娘として振る舞うべきだろう。教育を受け、父と兄を敬い、領主の娘として相応しい礼儀作法と教養を身につける。

 立場の急変はあるがそれを屈辱と感じることはなかった。むしろ新しいことへの挑戦を好む性質のデスタリオラ……改め、リリアーナは、未知の境遇にわくわくと心躍るような気持ちを抱いていた。


 魔王としての在任中はヒトの領内への侵攻に興味がなかったことと、ベチヂゴの森に阻まれているという立地上の問題もあり、ほとんどヒトの文化には触れないまま生を終えることになった。

 物好きな行商人や領地を行き来する部下から話だけは聞いており、いつか自分の目で見て、直にその生活に触れてみたいと内心思っていた願望が、まさかこんな形で実を結ぶとは。

 リリアーナは自身の境遇にも、再び得ることが叶った生にも感謝している。

 だからこそ与えられた役割を十全にこなし、周囲の期待通りにきちんとヒトの淑女として生命を全うすることを決めていた。


 無論、中身が元魔王だなんてことは、誰にも打ち明けるつもりはない。



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