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五歳記の祝い⑥ 願い


「……っぐ、うちの娘が、こんなにかわいい……」


 ふわりと綻ぶような微笑みの直撃を受けたファラムンドが、口元を両手で覆って震えだす。顔を赤らめ、感涙に咽ぶ乙女のポーズだ。

 その不審さから視線を誘導するように身を乗り出したカミロは、香茶のお代わりを用意すると共に、菓子の載った小皿をリリアーナの前へ差し出した。

 乳白色の中に赤が混じる、つるんとした円筒形。そばに森の苺とそれを潰したジャムが添えられ、皿には溶いたソースで華麗な模様が描かれている。形はプディングに似ているが、磨いた石英のような菓子は初めて見る色合いだった。


「木苺のパンナ・コッタです。厨房長から午後のデザートとして預かって参りました。どうぞ冷たいうちにお召し上がり下さい」


「ほう、木苺の菓子か」


 布巾に載せられた小さなスプーンを手に取り、さっそく上端をすくい取ってみる。卵色をしたプディングよりもなめらかで、気をつけていないとスプーンから滑り落ちてしまいそうだ。

 一口、ぱくりと口に含んで目を見開く。

 舌の上に広がる柔らかなミルクの風味の中に、木苺の甘酸っぱさが見事に調和して、まるでその組み合わせが運命だったとでもいうような余韻を残し、噛むまでもなくすっととろけていく。

 ふんわり包み込むようなミルクの甘さと木苺の酸味のバランスが絶妙だ。つるりとした不思議な食感と冷たさが相乗し、仲良く喉を滑り落ちていく。

 添えられたジャムを乗せて食べてみると、甘酸っぱさに天秤が傾くが、これも中々悪くない。木苺の野性的な酸っぱさを甘いミルクが陰でそっと引き立てている。なんと息の合った組み合わせだろう。

 ふと思い立ち、口の中に酸味の余韻を残したまま香茶を含んでみた。するとどうだ、そのままで飲んでいた時とは風味が全く異なる。甘いミルクの後だから苦みをより強く感じるが、鼻を通る香気と喉越しのなんと心地よいことか。香茶が持つ本来の旨みと芳醇な香りが、甘酸っぱさを覆いながら後味ごとすっと流れていく。


「……すごく、おいしい」


 感動した。アマダには何度感動させられてもその都度に新しい驚きがあり、飽きることがない。本当にこの屋敷の子どもとして生まれてきたことは幸運だった。もぐもぐと舌の上の美味とともに喜びを噛みしめる。

 この世界には未だ知り得ない、おいしいものがまだまだ他にもたくさんあるに違いない。肉も魚も野菜も果実も菓子も、調理や組み合わせ次第で無限の可能性を秘めている。どこの領地でどんな作物がとれるのか、気候に合った特産品は何なのか、畜産はどこが活発なのか、今後の食生活をより豊かなものとするためにもしっかりと学ばなくては。

 そして元気なまま出来る限り長生きをして、たくさんおいしいものを食べよう!

 リリアーナは新たなデザートに感動し、健康と成長、そして身の安全への意識を新たにした。



 おいしいものを食べたリリアーナの、花咲くような満面の笑みを真正面から喰らったファラムンドは、昂奮のあまり腹を押さながら顔面をテーブルへ打ち付ける。……が、予測のついていた侍従長はそれを銀のトレイで受け止め、娘の視界から遮りつつ領主の頭蓋を掴んで上体を仰け反らせた。

 瞬き一回の間に眼前で起きたことにはまるで気づかないまま、おやつに集中していたリリアーナは最後の一口を飲み込み、香茶を啜った。



 白い不思議な菓子を食べ終え、満足の息をつく。次は何を話そうかと考えながら視線を巡らせると、銀盆を持った侍従長の肩越し、書架へみっしりと詰められた本が目に入る。

 片側の書架は資料の数々と思われる厚い背表紙が並ぶのに比べて、一方は製本をされていない、紙を綴じただけの束に見えるのだがあれは一体何だろう。

 リリアーナの視線に気づいたファラムンドは、「棚の資料が気になるかい?」と鼻を押さえながら首をかしげる。幼い子どもの興味を引くようなものは何もないと、そう不思議に思ったに違いない。

 気にはなるが、せっかくの対話の機会なのだ、おかしいと受け取られかねない挙動や言動はなるべく控えておきたい。知識が足りない今の自分では、何がおかしいのか明確な判別もつかないのだから。


「そちらは処理の終わっているものばかりですし、施工関係でしたらリリアーナ様の目に触れても問題はないかと」


 リリアーナの遠慮を透かし見たように、カミロが紙束の詰まった方の棚を指し示す。


「施工……領内の土木事業に関するものか?」


「リリアーナはそんなことにも興味があるのかい?」


「ある。もし構わないのであれば、少し見せてもらいたい」


 なぜか鼻頭を赤くしたファラムンドは、先に席を立って書架の前へと向かう。詰められた束のうちから薄めの一冊を抜き取り、後について立ち上がっていたリリアーナへ手渡した。


「これは一昨年完成した、街の西側にある水路の図面や工期計画書、諸経費の写しなんかをまとめたものだ」


「拝借する」


 水路とはまた、リリアーナの興味のど真ん中を突いてきた。生前のことなど何も知らない父だから、これを選んだのは偶然のはず。……そんな考えが頭の隅に押しやられるほど、手にした書類を開いた瞬間から釘付けとなった。


 まずキヴィランタと聖王国では『紙』の品質が段違いだ。原料としている植物も工程も異なるらしく、こちら側で使われている紙は驚くほどなめらかで薄く均一。それを子どもの手習いにも用いるほどなのだから、決して高価なものではなく一般に広く普及しているのだろう。教本や書籍の類もとても指触りが良い。

 そんな上質な紙に書かれた図面の何と精密なことか。測量や設計における単位、記入方法などは大差ないものの、書き込みの緻密さ、設計図としての完成度にリリアーナは心底驚いた。かつて懇意にしていた職工たちがこれを見たら、一体どれだけ興奮するだろう。円や水平線など図面を引くために使われている工具にも興味が湧く。

 そうした図面や工程、経費の表などがそれぞれ何枚もの紙に書かれており、十数枚の同じ大きさの紙をまとめ、前後を厚手の紙で挟んでから穴を開けて紐で留めたものが、紙束の正体だった。糊で製本したものとは異なり、穴と紐で紙を束ねているから背表紙がなかったのだ。

 現物を手にしながら、リリアーナは感動と感心、そして羞恥に震えた。


「どうかしたかい、リリアーナ?」


「い、いや、そうか。事業で使用したものをこうして束ねて、保管しているのだな」


「そうだね、他にも決済書だとか領収書だとか面倒なものがたくさんあるよ。かさばって仕方ないが、原本はいずれも手元に置いておかないといけないものだから」


 特別なことを語る風でもない所を見るに、ヒトの領内ではこうしたやり方が昔から行われてきたのだろう。

 紙も手法も、自分が存命のうちに取り入れたかった。口から濁音の羅列が漏れそうになるのを耐えながら、リリアーナは回顧に目を閉じる。

 キヴィランタ領内での書類といえば、長く粗悪な紙一枚に図面も表も指示も全てを書き付けた、巻紙のことだった。インクを乾かしてからくるくる丸めて紐で留め、それを伝達の者へ託したり棚へ差して管理する。

 古くから城にある書物はいずれも紙質が良く、印刷を経た本と書き物に使う紙は、違うのが当たり前だと思っていた。普段は均一な薄い紙が使われていなかったせいもあり、同じ大きさに切って束ねて綴じるという発想自体がなかった。想像力の欠如だ。もし自分の存命中に次の魔王が生まれるなら教えてやりたい。「紙、切って使え!」と。


 書類の詰められた棚を見上げる。紙束の間、所々に飛び出ている紙片には年月が書かれている。一番上の段で六年前、一番下は去年の終わり。


「これが全て、過去に父上が手がけてきた領内の施工関係の仕事か」


「ああ。もっと古いものは移動してあるから、ここ最近のものだがね。この辺はみんな水路で、この年は北部で土砂崩れがあったからその復旧が大変だったな。道の舗装もやり直しになったし。その翌年にはひとつ大きな橋を架けて……これが実はちょっとした仕掛けをしていてね」


 ファラムンドが年月のタグを指さし、楽しそうに事業について話すのを、リリアーナは憧憬と興奮に高鳴る胸を押さえながら聞いていた。


「水路は、上水路を?」


「まずはそうだね。水は生活に不可欠だからこちらは領民や職人たちの理解も早いんだけど、下水路と主要道の舗装についてはなかなか必要性を分かってもらえなくて。まずは上水路を行き渡らせながら説明を……、いや、すまない、こんな話はつまらないか」


「そんなことはない!」


 父の上着の裾を掴む。本当は両肩に手を置きたかったが、残念ながら届かない。

 リリアーナは手の震えを必死に抑えながら長身の父親を仰ぎ見た。


「生活にも耕作にも水は必要不可欠だ、灌漑や河川の治水についてはどの土地を治める者も頭を悩ます問題だろう。だが、居住部の下水路の必要性を理解して、それを造ろうと動けるものはそういない。父上はすごい」


 大勢がひと所に集まって暮らすならば下水路は必要だ。疫病を防ぎ、飲用の河川を保つためにも。遥か昔には大陸中で整備されていた頃もあると聞くのに、昨今のキヴィランタではその技術と知識は失われてしまった。ヒトの領でも同じなのだろう。

 すでにある街の中へ上水路を建設することは、工期と労働力と資材さえ工面できればそう難しいことではない。かつてデスタリオラも中途まで成し遂げたことだ。だが、大掛かりな下水路を後から施工するのは相当困難だろう。大前提として地下の掘削技術が必要となる。


 『魔王』という立場を以てしても、周囲への理解を求めるには大変な時間と労力を要した。変わり者と謗られ、軍備より施工に力を入れる様を嘲笑われることもあった。それを、領主とはいえただのヒトが、必要性を理解した上で自らの寿命内にそんな大事業を成そうとしているのだ。

 できることなら、生前に会って話をしてみたかった。ファラムンドという男と腹を割って話し合い、互いの見識を交換し、忌憚のない意見を出し合って着想を練り上げて、そしてそれぞれの領の発展へと貢献したかった。ーー生きている間に。

 デスタリオラは全ての工事をやり遂げる前に命を落とすことになった。勇者の襲来に、間に合わなかった。興した事業を最後まで見届けることができなかったのは、以前の生への唯一と言っていい未練だ。

 一度死んだ自分がこの男の娘として再度生まれてきたのは、何らかの運命が働いたとでもいうのだろうか。とても現実的ではないそんな思いが去来する。

 もし、本当にそうなのだとしたら。この生には与えられた役割以上の意味がある。


 言葉にしがたい想いがこみ上げ、体温が上がる。幼い体はちょっとしたことでも情緒が揺らぎ、肉体への影響まで出てしまうから扱いにくい。


「父上は、本当にすごい。すごいことを、している。自領の民のために頑張っている、その努力も献身も誇っていい。もっと皆に理解されるよう祈ろう……どうか、父上の願いが達せられるよう」


 顔面が熱い。鼻の奥が痛む、と思った時には両の目からぼろぼろと水がこぼれ落ちた。眼球の奥で水分を搾り取っているかのように、後から後から湧き出て止まらない。


「リ、リリアーナ!?」


 ファラムンドが慌てて膝をつき、赤い目から流れ出る涙を指先で掬った。そう、涙だ。リリアーナとして生まれ自意識を取り戻してから、初めて泣いている。勿論デスタリオラであった時にも泣いたことなど一度もない。

 経験のない出来事に、どうしたら目から溢れる水が止まるのかも分からず、眼球の熱さや鼻の奥の詰まる感覚に耐えながら立ちすくむ。

 困り果てたところで、目元に柔らかな布が当てられた。


「リリアーナ、すまない。お前を悲しませるつもりはなかったんだ」


「ご、ごぢらも、なぐづもりは、ながっだ……」


 ひどい鼻声が出る。落ち着くまでしばらく会話はできそうにない。父が当ててくれるハンカチに身を任せ、腫れた目を閉じた。




 リリアーナが感極まって涙する様も、その直前の言葉も、ファラムンドへとてつもない衝撃を与えた。衝撃なんて言葉ではとても言い表せない。心臓が早鐘を打ち、全身をかけ巡る血液が発火しているかの様だ。

 娘につられて鼻頭が熱くなってしまう、瞬きを繰り返して目の潤みを何とか阻止する。手にしたハンカチで娘の濡れた目元を優しく拭い、その小さな体をそっと抱きしめた。


 誰に褒められたかったわけでもない、自分で決意して始めたこと、民のためだけではなく外でもない自身のために。どれだけの年数を要しても、やり遂げるまで決して揺らぐことはないと固く心に念じて。

 ……それでも、決心から十数年、本当は誰かに理解してもらいたかったのかもしれない。褒めてもらいたかったのかもしれない。領主だから当たり前だなんてことはない、お前は良くやっている、頑張っていると。本心のどこかではそう、努力を認めてもらいたかった。


『どうか、父上の願いが達せられるよう』


 愛娘のその言葉を、これから先きっと死ぬまで忘れることはないだろう。この記憶があれば、いつまでだって頑張れる。


 腕をそっと開き、抱きしめていたリリアーナと額同士をつけた。互いに体温が上がってしまってどちらが熱いかなんてもう分からない。身じろぎもしない細い肩を包むように手を置く。


「お前がいてくれるなら、私は平気だよ。リリアーナ……ありがとう」


 これまで触れることすら避けてきた、掛け替えのない宝。

 世界中で一番愛した女性が残してくれた三人目の子。大事なものは今度こそ手放すまいと、きつく目を閉じて誓う。

 もう二度と失ったものと重ねたりはしない、この子は娘のリリアーナ。こんな不甲斐ない父を理解しようとしてくれる、アダルベルトやレオカディオ共に、自分にはもったいないくらい賢く優しい子だ。愚かにも接触を恐れたこの五年間の分まで、これから先は全身全霊をかけて愛し、慈しみ、守り抜こう。そう、全身全霊で。


 ファラムンド=イバニェス、三十二歳。愛娘への子煩悩を全力解放することを誓った、五歳記での出来事だった。



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