イバニェスの報せ②
鳥の図鑑を隅々まで眺めているだけであっと言う間に午前が過ぎ、昼食と休憩を挟んで、午後は物語のほうを開いてみることにした。厚みもあるし、今日中には読み切れないかもしれない。
本へ手をつける前に、持参した物の中から便箋を出してもらい、適当な大きさに切って栞代わりの紙片を作る。いつも愛用している金属製の栞は、万が一壊れたりしたら嫌だと思い屋敷から持ってこなかった。
便箋はトマサへ手紙を書くかもしれないから、このまま机に出しておこう。
領道の季節外れの花畑を見られたこと、サーレンバーの街並みが見事だったこと、料理がうまいこと。書斎から本を貸し出してもらい、探していた本も見せてもらえるかもしれないこと。わずか数日なのに、トマサにも伝えたいと思う話は案外出てくる。
身の回りの話題はフェリバと重複するかもしれないが、トマサならどれだけ書いても喜んで手紙を読んでくれそうだ。
それから、例の栞について。こちらで調べてもし現物が出てくるようであれば、ファラムンドへ伝えるのとは別にカミロにも手紙を送らねばならない。
以前、自分が被害に遭った時には構成を破壊するのが精一杯で、そのあと栞は大人たちに回収されたきり。一度見た構成は覚えられるとしても、解析用にもう少し触らせてほしかったというのが本心だったりもする。
雑な構成でも、あれは決してカステルヘルミのような素人の作ではなかった。手元でもう少し精細に調べることができれば、何か新たな手掛かりが見つかるかもしれない。
屋敷の仕事で忙しいであろうカミロの手を煩わせるのも気が引けるが、あの栞の件はできるだけ早く解決したほうがいい。
切り出した紙片を手元に置いて、物語の本を開く。目で文章を追いながらも、思考の大半を占めるのは出発前にカミロからもたらされた、三件の報告についてだ。
――サーレンバー領へと向かう二日前。
授業のない時間をいつものようにサンルームでくつろいでいると、珍しくカミロが顔を出した。
出立前の準備で問題でも生じたのかと思ったが、内心を見せない平らな表情からは何も掴めない。断られることを半ば予測しながら向かいのソファを勧めると、男は意外にもすんなり腰を下ろした。杖を傍らに立てかけ、膝の間で手袋をはめた指を組む。
「何かあったのか?」
「いえ、何かというほどでもないのですが。ご出立の前に、リリアーナ様へいくつかご報告をと思いまして」
その口調からは、報せの良し悪しすらも判断はつかなかった。この男がわざわざ出向いてまで話す内容といえば、ここ最近起きた問題についての続報だろうか。
先にいくつか、「小耳に挟んだ」と言うアルトからもたらされた報告もあるが、ちゃんとカミロの側から開示してもらえるのを待っていた話もある。しばらくイバニェス領を離れて話を聞けない分、今わかることだけでも教えてもらえるのはありがたい。
「そういえば、このサンルームを整えてもらったのは、お前とこういう話をしやすいようにというのが切っ掛けだったな。お茶はどうする?」
「用件をお伝え次第、すぐに失礼いたしますから」
「わかった。フェリバ、下がっていい」
指示とともに軽く手を振ると、そばに控えていた侍女は一礼をしてサンルームの入口付近まで下がっていった。それと同時に、入口で控えていたトマサが静かに扉を閉じる音が聞こえる。
「もうすっかりこの部屋の主ですね」
「いや……せっかく整えたのだから、兄上たちももっと利用すれば良いと思うのだが。先日ここでお茶を共にしたきり、姿を見せないな」
「気が向かれれば、またいらっしゃるでしょう。リリアーナ様がサンルームを気に入っていると聞いて、旦那様もお喜びです」
あまり外出できない母のために、ファラムンドが大判のガラスを取り寄せて設えたという日当たりの良いサンルーム。せっかく見事な造りなのだ、誰も使わないまま埃を被っているよりは、こうして有効活用したほうが良いだろう。
兄やキンケードも、自分がここにいることを殊の外喜んでいる様子だった。本来の部屋の主を透かし見るようにして。
一度薄曇りの庭を映すガラスへ目を向けてから、膝の上のレース編み道具を籠へとしまう。籠の中にいるアルトの、ボタンの目が何か言いたげにしているような気がした。
「お耳に入れておきたいお話は、三点。あまり芳しい報せでないことを先に謝罪させて頂きます」
「いや、こうして伝えてくれるだけでも十分だ。それで、何がわかった?」
「はい。まずは先日コンティエラの街で遭遇しました、不審者について」
いきなり一番気になっている情報がきた。感情の波をなるべく顔に出さないよう努めながら、対面の男を見上げる。
「転移によってあの場から消えた男ですが、依然として足取りは掴めないまま。定時連絡や符丁を利用して調査した結果、イバニェス領内にはいないようだと報告が上っております。御身の安全に関わるというのに、不確かな情報で申し訳ありません」
「そう言うな、記憶への対策を取りながら調べるのも一苦労だったはずだ。ひとまず身近にいないとわかっただけ良い。せめて、跳ばされた方角や距離だけでも掴めればな……。カミロはノーアのことを知っているのだろう、書状などを送って訊ねることはできないのか?」
「はい。その手も旦那様と検討いたしましたが、正直難しいですね」
やはり相手が聖堂内の要人となると、内密にしておきたい情報のやり取りは困難なのだろうか。
あちらとあまり仲が良くない以上、やり取りの途中で聖堂側の第三者にこの話が漏れれば、イバニェスの弱点ともなりかねない。
あの魔法は転移先座標の指定が必要だから、行使した当人なら跳ばした先がわかっているはず。だがノーアは「落とす」と言っていた、もしかしたらどこへ跳ばしたのか訊いてもわからない可能性もある。行先を掴める可能性が低いのなら、無理を押してまで書状を送ったり、面会の要請をすることもないだろう。
それにしても、イバニェス領主をもってして、書状も面会も難しいような相手……。この先、ノーアの身元を掴むのは骨が折れそうだ。
「他領へ出している者を使って、引き続き情報収集に努めて参ります」
「……うん、そうか」
「何か?」
「いや、いいんだ。大変だろうがよろしく頼む」
遭遇した相手の記憶を消し、何の痕跡も残さないまま姿を消した『勇者』エルシオン。
その正体を掴むための重要な手がかりについて、あの日からひとつ気になっていることがある。しかし、ここで自分から言うものでもないと思って曖昧にごまかした。
飲み込んだ言葉を告げる気はないとわかったのだろう、何もなかったようにしてカミロは報告を続ける。
「次に、年始から領内を騒がせておりました武器強盗についてです。つい先日、犯人の身内を名乗る相手から、旦那様宛てに手紙が届きまして」
「身内? 共犯者がいたということか?」
「犯行はあくまで単独犯によるものだったようです。告発文に近いですね。犯人は捕らえてあり、イバニェス領と事を構えるつもりもなく、奪った武具も全て返却するから、どうか内々で処理して欲しいといった内容です」
「それは何というか……捕らえているのが本当に犯人なら、手間が省けて助かるのかもしれんが。真偽のほどは?」
「サルメンハーラの領事館が仲介を請け負っておりますので、丸きりの虚偽ということはないと思われます」
そこで突然出てきた無関係のはずの地名に首をかしげると、カミロは説明の補足をした。
「遠方からの手紙なので、一度サルメンハーラを経由してコンティエラの商工会本部へ届けられたのです。そのため、つい先日に面通しのためキンケードを伴ってサルメンハーラへ赴いたのですが……残念ながら、送り主との対面や、犯人の拘束には至りませんでした」
<……>
籠の中でアルトが身じろいだような気がして、目だけをそちらに向ける。特に念話の声も聞こえないし、気のせいだろうか。
「なぜだ? サルメンハーラにはいなかったのか?」
「ええ、その通りです。仲介を請け負う者の話では、奪った武器を返すし望むなら死体も引き渡すが、生きたまま身柄を渡すのは渋っているとの事で。引き続き、あちらの領事館に仲立ちを頼んで交渉中です」
「何だかおかしな話だな。事実関係の聴取をするためにも、生きたまま引き渡して欲しいのはわかりそうなものなのに。なぜそれを渋る必要がある。……もし口封じをしたいなら、押さえた時点で殺していれば済む話だし、そもそもこちらへ打診する必要もなかった」
イバニェス領と事を構えるつもりはないと言いながら、こちらの要望をはねつけるような対応は道理に反する。身内と名乗る者に拘束されているらしい強盗犯は、本当にまだ無事なのか?
そうも強硬な態度を取られると、生きたままの引き渡しを拒んでいる理由は、何か漏らされたくない秘密でもあるのではと勘繰ってしまう。だが、そうするとなぜ告発文など送ってきたのかという疑問が生じる。
「ええ、下手に出ている割にはその一点のみ強情で。どうにも先方の考えが読めないので、慎重に対応しているところです」
「そうか……。ひとまず犯行が止まったことは喜ばしい。被害も多かったようだから、早く奪われた武具を返却してもらえるといいな」
キンケードの手元に奪われた剣が戻れば、あの強化済みの剣はしばらくお役御免となるだろう。多少残念ではあるが、本人があまり持ち歩きたくない様子だったし、必要となるまで保管しておいてもらえばそれでいい。
香茶で唇を湿らせ、カップを置くと、カミロは眼鏡の中央を押さえるように一度表情を伏せてから、再びこちらを向いた。三件目の報告に入るようだ。
アルトから小さく、<厄度の入れ替え……だと……>という意味のわからない念話が漏れ聞こえる。




