何のために生きている? ✧
北東の方角に見える聖堂に背を向けて、商店通りの奥へと向かう。
雑貨店のあたりを離れても、露店の並ぶ通りや赤煉瓦通りよりは人混みが落ち着いている。冬の季の備えにあまり関わりのない店が多いのだろう、道行く人々の手荷物を見ても比較的身軽なものだ。
それでもはぐれたりしないように、リステンノーアと名乗った少年の手はしっかり握っておく。
今のところ大人しくついてきており、特におかしな様子も見られない。フードに半分隠れた白い顔を横目にうかがい、そっと安堵した。
精霊眼を持つ者が減っているというヒトの中に、果たして自分と同等と思われるほどの眼を持つ子どもが自然発生するものだろうか。
聖堂まで送ると申し出たのは、その身が心配だったというのも本心ではあるが、数割くらいはもう少しそばで様子を見ようという目論見もあった。
だが急な転移のあとはおかしな素振りも見られず、周囲を漂う汎精霊たちも時折興味深げに寄ってくる程度。
注意深く観察していても、普段自分の周囲で見られるものと何ら変わりはない。
もっとも、考えてみれば『魔王』並みの精霊眼を有していたところで、肉体がヒトである限りそう大した構成を扱えるはずもない。こんなか細い少年ならなおさら、いたって健康体の自分よりも魔法の扱いには不自由をしているだろう。
精霊眼は虹彩に包まれた瞳孔を介し、精霊たちに望む現象を実行させるもの。構成を描くことを抜きにしてしまうと、常人との違いは「そこらの精霊たちを目視することができる」「厄介な精霊に目をつけられる」、くらいか。
……どう考えてもマイナス要素のほうが大きい。本当に災難なことだ。心底同情する。
「何? 何か言いたいことがあるなら言えば?」
「別に言いたいことはないが、大人しいなとは思っていた」
「自分から拘束しておいて何を言ってるんだ。それとも暴れて欲しいのか?」
「歩きながら暴れ出したら普通に止めるが、たぶんわたしのほうが腕力は上だぞ。疲れるだけだからやめておけ」
「…………」
こちらの同情を含んだ視線をどう受け取ったのか、訝し気に問いかけてきた少年はそこで再び黙り込んだ。
歩きながらこっそり様子をうかがっていたことが悟られていたのかもしれない。
不躾な視線を受けていたら、それは誰でも気になるだろう。あまりじろじろと観察するのはやめて、ちらちら伺う程度にしておこう。
ノーアは唇を線のように引き結び、やや俯いてフードの中へ顔を隠した。
反対の手から振動が伝わってきたようだが、カミロの顔を見上げると、こちらも口元に力を入れて前を見ている。手が揺れたと思ったのは気のせいだったかもしれない。
会話や所作に何か問題があれば直接伝えてくれるだろうし、その素振りがないのなら別にいい。
歩くに任せて両手を軽く揺られながら、自分もちゃんと視線を前へ向ける。また躓いて転んだりしてはさすがに格好がつかない。
そうして改めて周囲を見回して気づいたのだが、何となく、道ですれ違う人々が微笑を浮かべながらこちらを見ているような気がする。
主に大人たちだが、いずれも妙に生暖かい表情で自分たちのほうを眺めていく。
自分には何もおかしな所などないし、カミロも同様だ。
……となるとやはり、円錐か。隣にいる黒い円錐が不審なのだ。
白い聖堂のローブが目立つということなら、頭は出していても構わないのではないだろうか。
それとも自分がフードを被らされているように、この辺りでは色素の薄い髪が珍しいとか?
<体温や心拍の上下は見られますが、やはりこの少年自体には何も異常はありませんね>
黒い三角の怪しさへ思いを馳せていると、ノーアの体を精査していたらしいアルトからそんな報告が入る。
ノーアは自分の目から見ても、赤い精霊眼と不健康そうな肌以外は特に気になるところのない、普通のヒトの少年だ。
身近にいる比較対象となりうるサンプルはレオカディオだけだが、道行く親子連れや路地で遊ぶ子どもたちと見比べても大差はないように見受けられる。
やや口が悪いとか素っ気ないという部分はあっても、そこは個性の範疇だろう。自分だって他人のことはとやかく言えはしない。
――ひとつ、気掛かりな点があるとすれば、ノーア自身にではなくその身元。魔法の行使に関しておかしな情報を流布しているらしき聖堂が、この少年を手元に置いているということだ。
これだけの精霊眼を持つ者が聖堂関係者でいるのは、決して偶然などではないだろう。ならば聖堂側は、構成を扱うにも精霊を目視するにも、精霊眼が必要だということをちゃんとわかっていると思われる。
ならばなぜ過剰に精霊を崇敬させて、「聖句」や「魔法の詠唱」なんていうものを唱えさせるのか。
いくら考えても、書斎で本を漁ってみてもわからなかった疑問点。
この幼い少年が大人たちの妙な行いについてどこまで知っているかはともかく、食事や行動を共にする間に何かしら聞き出すことはできるかもしれない。
手を繋いで共に歩く。これは、そんな二心あっての同行だ。
親切心から送り届けることを申し出たであろうカミロとは異なり、自分には利己的な動機がある。
己の好奇心を満たしたいという我欲からの行動が、そう悪いものとは思わない。それでも、こうして歩きながら手を繋ぐふたりに対し、罪悪感のようなものが心の内でじくじくと痛みを発する。
精霊たちの悪戯という災いに巻き込まれた少年には何の落ち度もないのだから、これ以上彼に不都合が起きないよう、せめて聖堂まではきちんと安全に送り届けよう。
構成に頼らない転移には驚かされたし、未だ正体の判然としない少年だが、アルトが「ただの人間」と断定したのなら過剰に警戒する必要もないだろう。
カミロの態度を見ている限りでは、聖堂関係者の中でも高位にある者の身内ではないかと思われる。
官吏や女官などよりも刺繍や装飾の細かなローブは、雰囲気的には祭司長の老人が纏っていたもののほうが近い。ということは、ノーアはあの老人の子どもか孫なのだろうか。
「なぁ、ノーア。お前の身内も聖堂にいるのか?」
「身内……の範疇に入るかはわからないけど、後見人はいるよ」
「後見人? 親ではなく?」
「親はいない」
その短い答えに「そうか」とだけ相槌をうつ。
ならば祭司長である老人がノーアを引き取ったのかもしれない。五歳記の折の短いやり取りだけでもあまり良い印象は受けなかった相手だが、悪くは言うまい。
ただ、整った広い部屋を用意され、豪奢な身なりをしているわりに、ノーアの不健康そうな顔色と手指の細さが気になった。
「お前が細身なのは体質なのか? 同じような年頃に見えるが、手だってわたしよりも細いだろう」
「ほそ……本当に失礼だな君は。まだ十歳前後なんだから体はこれから成長するよ、放っておいてくれ」
「前後って、何歳なんだ?」
「わからない、自分が生まれてからの年数なんて数えてない」
「そういうものか。わたしは今年で八年目になる」
ちなみに生まれてからの年数も自分で数えているが、そこは内緒である。
「わたしの兄のレオカディオも、体つきが細くて季節の変わり目などは体調を崩しがちなんだ。お前も兄のように生まれついての性質なら仕方ないが、きちんと必要な栄養を摂取して、日頃からほどほどに動いて身体を健やかに保つと良いぞ」
「……何が、良いの」
「病にかかるとしんどいだろう? わたしも先日、しばらく寝込んで辛い目に遭ってな。食事をとるにも本を読むにも、庭歩きをするのも、やはり健康でいたほうが楽しめる」
体の不調とは全くの無縁であった『魔王』の頃には他人事でしかなかったが、いざ自分に降りかかることとなってみれば、健康の大事さは身に染みてよくわかる。
頭と体がまともに動かない状態では好きなことを楽しめないし、周囲の者たちにも心配や手間をかけてしまう。
せっかく二度目の生を得たというのに、そこからうっかり悪化して死んでしまっては一大事。
先日の一件は別に原因があったからともかく、常日頃から健康には気を配っておかなければならない。
「体調を悪くすると胃腸の働きが落ちて、味覚も低下するしな……あれには参った。食事が楽しめないなど、生きている目的の半分を封じられるようなものだ」
「食べるために生きてるって、逆じゃないのか?」
「そうか?」
生物は、生きるために摂食している。ノーアはそう言いたいのだろう。
理屈としては同意できるけれど、自分がヒトの身となって得た感慨はそういう話とは少しばかり異なるものだ。
「ヒトは、命があるだけでは『生きている』とは言わないのではないかと、わたしは思う」
顔を上げて空を見ると、綿を引き伸ばしたような雲がゆっくりと流れていた。
フードを揺らすさわさわとした微風が心地よく、着込んでいる背に日差しが暖かい。空腹感はあるけれど体調は良く、こうして見慣れない道を歩いているだけでも心が浮き立つようだった。
「知らないことにふれる時、おいしいものを食べている時、睡眠や入浴など心地よさに身を任せている時、あとは……そうだな、色々な楽しいと思えることをしている時、自分は『生きている』のだと強く実感する。なにも、全てのヒトが自分と同じだとは言わない、それぞれに生きる目的も楽しみもあるだろう。だが……」
見上げていた目を隣へ移す。今度は伺い見るのではなく首ごと傾けると、ノーアも深く被ったフードの陰からこちらを見ていた。
「せっかく自分の意思があって、自由に動かせる体があって、味覚もあるのだから。楽しみを持って生きないともったいないだろう? ただ動いているだけなら人形と変わりないし、感情だけなら他のモノにもある」
「……」
感情だけで動くモノたち。何を指しているのか、ノーアには通じただろう。
思い浮かべたものに対する心証の現れか、ほんのわずかに眉根をひそめた。気持ちはわからなくもないため、何となく口元が緩む。
物理的な不都合さえなければ、全ての命は自由意志によって生き方を選んで良いものだ……という考えは生前から変わっていない。
自分の生き方を自分で決める。そんな当たり前の自由が個々の生命には許されている。
たとえ生まれた時から『役割』を与えられた者であっても、その舞台から降りない範囲でならどんな生き方をしても問題はなかった。一度実践をしたのだから、これは間違いないと自信を持って言える。
「……じゃあ、もし、体に自由がなければ?」
「体を動かせないのではなく、行動の制限という意味か? それは大なり小なり誰にでもあるものだろう。立場によるものとか、責任に由来するものとか。わたしだって何でも自由にできる訳ではないし、今日こうして屋敷の外へ出られたのも三年振りだ」
「三年って……」
呟いたノーアが赤い目を眇めてカミロを見上げる。
別に閉じ込められていたわけでもないから、この男を責めないでもらいたい。否定に手を振ろうとしたが、あいにく今は両手が塞がっている。代わりに首を左右に振った。
「安全上の理由だ。庭を歩いたりして気晴らしはできたし、そう不自由は感じなかったぞ。お前はどうだ、あの部屋は何だか息が詰まりそうだが、外出などはしているのか?」
「僕は、……たまに出ているよ。好きに移動できるわけじゃないけど」
「そうか、難儀なものだな。まぁお互い、もう少し大人になれば行動の自由も増すだろう」
聖堂のローブを纏う身の上と、領主の娘という立場。それぞれ成人をしてから一体どの程度の自由を手にすることができるのか、今はまだ想像することもできないけれど。
歩きながら振られる手に、少しばかり力を込める。
ひとまず今日のところは、この少年にめいっぱい美味いものを食べさせて帰そう。
急に詰め込んでは消化器官にも悪いから、まずは軽いものから入れて、ブニェロスの味を教えて、甘味で糖分を足して。その頃には満腹でも果物なら喉を通りやすいし、消化を助けるはず。葉物は屋台では摂取しにくいだろうか、何か適したものが見つかればよいのだが。
リリアーナは痩せ細った少年に可能な限りの栄養と熱量を摂取させるべく、外見上は物思いにふける憂い顔を浮かべながら、耽々と今日の食べ歩きの算段を練っていた。




