百合咲く中庭①
リリアーナの日常はまだ幼いその年齢ゆえに、だいぶゆとりのあるスケジュールを組まれているようだ。
……と、本人は認識している。
やりたいことならいくらでも浮かぶが、生育の途上にある体へ負荷をかける訳にもいかないだろうと、侍女や教師たちの方針、つまるところ扶養主である父親に全て任せていた。
朝の支度を済ませて部屋で朝食をとった後は、侍女のいずれかを連れて中庭を散策し少しばかり体を動かす。
お茶を飲んで一息つき、前日までの復習をしてからその日を担当する教師と部屋で勉強。
午前の勉学は文字の読み書きや聖王国の歴史を学ぶなど、座学が中心となっている。
昼食と休憩を取り、午後からは主に礼儀作法や話術など、実技をともなう授業にあてられていた。
途中でおやつ休憩をはさみ、さらに続けることもあれば早めに切り上げて夕刻まで自由時間となることもある。
それから部屋で夕食をとり、湯浴みなどを済ませて髪を梳かれた後は、就寝までをひとり読書する時間にあてていた。
特に用がない限り侍女たちは湯浴み後に下がらせるため、アルトと何か相談をしたりするのも主にその時間帯となる。
何かを急かされることも、強制されることもない。
勉学については知りたいことも多く、もっと時間や密度を増してもらっても構わないのだが、その辺は歳を重ねるにつれ順番に教えられるのだろうと気長に構えることにした。
何せこの屋敷には先達としてふたりの兄がいるのだ。教育手法については先例があり、それらを参考にしてスケジュールを組まれているに違いない。
漏れ聞こえる話ではそれぞれに優秀らしいふたりの兄を思い、ヒト歴四年目とはいえ自分も負けてはいられないなとリリアーナは気を引き締める。
……そばで見ているフェリバなどは口を挟む権限を持たない以上に、リリアーナのやる気を見て何も言わないことにしているが、どう考えても四歳児への教育スケジュールではない。
兄よりも優秀であったレオカディオの教育に熱の入った教師陣が、更に飲み込みの早いリリアーナの教育に調子づき、過程を巻きに巻いて雪だるま式に膨れ上がった結果であった。
平常であればいくら貴公位の実子であろうと、五歳に満たないうちからここまで教育に熱を上げることはない。しかも嫡男ならまだしも、いずれ嫁に出ることになる女児である。
父であるファラムンド伯の方針という訳でもなく、いわば教師らの独断専行に近いものではあるが、しっかりと侍従長のカミロがリリアーナの負担となり過ぎないよう目を光らせていた。
フェリバ同様に、本人のやる気と才覚を配慮し、やれるところまでやらせてみようと陰から見守っている次第である。
そんな過密スケジュール――本人的にはゆとりがあるのびのびとした日常――の合間、本日から大精霊への聖句詠唱というものが新たに加えられた。
これは勉学とも礼儀作法とも異なる分野、あえて言うなら道徳の授業にあたるものらしい。
ヒトの文化圏では精霊信仰が主教となっていることくらい知識にあったリリアーナだが、その中身へ直に触れられるとあって最初は喜び、興味津々でその教えに挑んだ。
どんな教義で、何を説いて、普段はどんな風に祈っているのか。
わくわくと聖堂から招かれた官吏の話を聞いてはいたが、そのうち氷の坂を滑るように興味の気勢は削がれていった。
一時間ほど話を聞き、指示通り聖句の詠唱というのも行ったが、この授業ばかりは今回限りでも構わない。
自身にその決定権などないことは明らかでも、次回があることを思うとやや憂鬱である。
思い返してみれば、生前を合わせても気の乗らない勉学というのは初めての経験だ。
何に触れても、自分の中に新しい知見や知識が増えていくことを実感できて、学びの時間はいつも楽しかった。
ひとりで本を読むとき、誰かから話を聞いている間、自ら調べものをする際など、いつだって心躍るような新しい知識への欲求がある。
だが精霊信仰とやらには、気鬱な部分が多々ある以上にリリアーナを満たしてくれるようなものはないらしい。
「あれ、リリィじゃないか。今日は聖堂のひとが来てたんだろう。もう終わったの?」
失望とも落胆ともつかない気持ちを抱えながら、気晴らしに中庭でも歩こうかと階段を降りている途中だった。
上方から兄の声が聞こえ、リリアーナは足を止める。
振り仰いでみると、手すりから身を乗り出すようにしてレオカディオが手を振っていた。
「危ないぞ、レオカディオ兄上」
「大丈夫だよ、それよりリリィはどこか行くの?」
「少し中庭を散策でもしようかと」
「それなら僕も一緒に行くよ。いいよね?」
質問の形を取りながらも返答を聞くつもりはないらしく、足早に追いついてきたレオカディオはさっさと先導し始める。
別に嫌というわけでもないし、そもそも同行を断っても無駄だろうと判断したリリアーナは、大人しく次兄について行くことにした。
本邸の中庭は、リリアーナが自由に歩くことを許されている範囲の中で唯一の屋外と言える場所だった。
周囲を囲まれており上方にしか空は望めないが、体が小さくなっているためか、さほど窮屈さは感じない。
背の低い植木と煉瓦の花壇が並び、この時期には色合いのはっきりした花たちが各々茎を伸ばし咲き誇っており鮮やかだ。中央には小さな噴水も設えてあるが、水を噴いているところはまだ見たことがない。
窓から見える外の庭も見事ではあるが、普段の散歩としてぼんやり歩く分には充分に目を楽しませてくれる。
石で舗装された小道よりも、脇にそれて土と芝生の上を踏むのが心地よい。柔らかな、歩いてる実感、生きている実感。清涼な空気と一緒にそれらをまとめて吸い込んで、大きく吐き出す。
リリアーナは辺境伯邸の中庭を密かに気に入っていた。
出入口の辺りで互いの侍女が見守る中、リリアーナとレオカディオは花壇に沿うように歩く。
歩幅の短い自分に合わせて足を進めるこの兄は、まだ九歳のはずだ。一桁しか生きていないのに、この如才なさは一体どこでどうやって身につけたのか。
最近になって少し話す機会も増えたが、血の繋がった兄ではあってもリリアーナにとってレオカディオは未だに良くわからない子どもだった。
「リリィ、聖句の授業はどうだった?」
「特に問題もなく終了した」
「その様子だとあんまり楽しくなかったみたいだね」
今の短い受け答えからなぜそんなことまで分かるのか。リリアーナは表情を変えないまま、内心ではだいぶ驚きながら兄の顔を見上げる。
「まぁ、あのおっさんの長話を聞いていて楽しいと思う方が無理だよね」
「レオカディオ兄上もあの官吏が担当したのか」
「レオ兄」
「む?」
諾とも否ともつかぬ返答に、目を瞬かせる。
するとレオカディオは歯を見せて朗らかな笑みを浮かべながら、自分のことを指さした。
「僕のことはレオ兄って呼んでよ」
「……では、こちらのことはリリアーナと呼んでほしい」
「えっ?」
呼称の要望を返されるとは思っていなかったのか、藍色の目を丸くする。
その都度大きく変わる兄の表情に器用だなと思いながら、リリアーナは自分と少し似た造りの顔を見返す。
「リリィじゃだめなのかい、可愛いのに」
「リリアーナという名は、気にいっている。できれば略さずに呼んでほしい」
「ふぅん。わかったよ、レオ兄って呼んでくれるなら、僕も君のことはちゃんとリリアーナって呼ぶ」
「れおにい、レオ兄……、うん。こちらの方が短くて呼びやすいな。承諾した」
「……なんか、普通は愛称には愛称で返すと思うんだけどなぁ。……まぁいいか」
納得したのかしていないのか、レオカディオはしきりに首をひねっていたが、リリアーナとしては指摘したい部分だったのでちょうど良かった。
大陸中を震わせた魔王デスタリオラはとうに亡く、今はただの幼子でしかないが、あまり他者に自分の生得の名前を省略させるべきではないと思うのだ。
直接許可を下せばまた別ではあっても、今の名前を気に入っているという部分も嘘偽りはない。
ただの推測でしかなく効果のほどは知れないが、今後もその点についてはなるべく注意しておこう。
そして、愛称というものについても考えを巡らせる。
これまで使用したことはないが、略称とはまた異なるのだろうか。「レオ兄」と、心の中でもう一度呼んでみる。
……これはこれで、中々悪くはないかもしれない。




