戦勝報告①
ふと、指先に触れる布の感触に気がついた。
シーツとも衣服とも異なる目の粗い布地。
そこからじわりと滲むように意識が浮上していく。
いつの間にか目を閉じていたようだ。目蓋を開けると、視界が横向きになっている。
「お気づきになられましたか、お嬢様」
「ん……。ん? カステルヘルミか。何だ、わたしは寝ていたのか?」
「ええ、ほんの少しですけれど。急にお倒れになられるからビックリいたしましたわ、どこかお加減の悪いところはございませんの?」
深く呼吸を繰り返し、自分の体の隅々へと意識を向ける。
……頭痛はない。少し眠気と倦怠感が残っているが、これは疲労によるものだろう。
手足にも痛むところはなく、握ってみても指はきちんと動く。指先が冷えたので握ったまま胸のあたりへ抱き込んだ。そろそろ室内へ戻ったほうが良いかもしれない。
横向きから仰向けになって、そこでようやく、カステルヘルミの膝の上で寝ていたことに気がついた。
「ああ、膝を借りていたか。すまなかったな」
「いいえ。こんな軽装でなければ、もっと柔らかくて温かかったと思うのですが」
立ちくらみがしないよう、ゆっくりと起き上がる。柔らかな腿から離れると、少しだけ肌寒さを感じた。
カステルヘルミがくっついていてくれたお陰で、あまり体を冷やさずに済んだようだ。
「礼を言う。それと、聖句の手助けもな。見慣れないものに驚いたと思うが、途切れさせずよくやってくれた」
間近で目を見ながら労いを向けると、カステルヘルミは日が差すように表情を明るくしてから、すぐに眉尻を下げた。
情けない顔をしたまま、「うー、あー、」と唸りながら赤い唇をもごもごとさせる。
「お褒め頂けるのは嬉しいのですが。その、聖句を唱えている最中は、実は目を閉じておりましたの……」
「目を?」
「またとんでもないものを目の当たりにして自失するよりは、見なければいいかなって……思いまして……」
驚いてしまうことがわかっていたため、先手を打って目蓋を閉じていたらしい。それはそれで、自身の弱点を補う手段を明確に選び取ったわけだから、何も悪いことではない。
むしろ頼んだ詠唱を優先して、そちらをきちんとやりきってくれたのだから、褒めこそすれ叱るようなことはない。何をそんなに気落ちしているのか。
「……ああ、しっかり見ていろとわたしが言ったから、それを気にしているんだな。問題ない、お前はよくやってくれた」
そう告げると、カステルヘルミは再び眉をぱっと跳ね上げてから表情を緩めて笑った。
褒めるとぬるくなったジャムのような笑いかたをするあたり、少しだけフェリバに似ている。
ともあれ機嫌が直ったなら何よりだ。その手の助けを借りながら立ち上がり、衣服についた砂を払う。
空を見上げると、白い雲を透かして太陽が南の方向に見える。先ほど見た時よりも少しだけ位置が高くなっているようだ。昼の手前あたりだろうか。
「ええと、寝ていたのは少しだと言うが、襲撃者と屋敷のほうはどうなったんだ? アルト、何かわかるか?」
<屋敷の中は平常に戻りつつあります。どうやら襲撃者とやらを防ぎ切った模様、防壁も役目を為すことはなかったようです>
「そうか、キンケードがやってくれたのかな。何もないなら良かった……」
せっかく用意した防壁ではあるが、領主邸に攻撃が撃ち込まれるなんていうのは余程のことだ。あくまでもしもの時の備えであって、それが役立たないに越したことはない。
安堵とともに、積もった疲労感がどっと押し寄せる。体が重い。部屋に戻ったら温かい香茶を飲んで、昼食とデザートを食べてからしばらく休憩したい。
だが、まだやることは残っている。
襲撃者は何者だったのか。戦闘が無事に終わったのならもう捕らえることはできたのか。キンケードかカミロを捕まえてその辺のことを確かめてからでないと、ゆっくり休むこともできない。
侍女に頼んで聞いてきてもらうという手もあるが、できれば襲撃者のことは直に目にした者から話を聞きたい。
襲撃を未然に防げたという時点で、おそらく赤い髪の男ではなかったのだろうことは予測がつく。それでも、この屋敷を襲った危機を他人事のように遠ざけたくはない。誰が狙われていたにせよ、イバニェス家の一員である以上は自分も当事者だ。
中へ戻って顛末を確かめたいが、エーヴィとここを離れないと約束してしまった手前、勝手に移動するわけにはいかない。さてどうしたものかと思案していると、裏口から侍女がひとり足早にこちらへと近づいてきた。
「トマサ!」
「ああ、リリアーナ様、ご心配をおかけいたしました。お屋敷はもう大丈夫です、先ほどキンケードが知らせに戻りました」
緊張の抜けない面持ちのまま近くまで来たトマサは、屈み込んでリリアーナの衣服についた草や土を丁寧に払う。
その白い指が震えているのを見て取り、両手で掴んだ。外にいた自分よりもよほど冷えている。屋敷が襲われていると聞いて不安だったろうし、部屋に戻らない自分のことで心配もかけてしまっただろう。
温めてやりたいが、生憎とこちらの手も冷たい。両手で握り、白い手の甲をさすって熱を分け合う。
「心配をかけてすまなかった、トマサ。キンケードも無事なんだな、襲撃者のほうはどうなった?」
「お屋敷への侵入は防いだものの、取り逃がしたそうです。怪我人の収容と治療が先だと判断したらしく……。何でも相手は、最近付近を騒がせていた追剥ぎ強盗の犯人だったと」
「は? あの武器強盗が? なんでまたこの屋敷に?」
「申し訳ありません、未だ理由までは把握できておりません。もしかしたらお屋敷へ向かう途中の馬車を標的として追ってきたのでは、という話は聞こえてきましたが。詳しいことはまだ」
確かに、それなら有り得る話だろう。いつも道を行く馬車を獲物として犯行を重ねているそうだから、領主邸へ向かう馬車が狙われてもおかしくはない。屋敷の周辺で襲われたという話は聞かないから、今までとは狩場を変えたのだろうか。
様々な疑問はあれど、ひとまず剣の強化が間に合って良かった。
今日ここにキンケードが来ていなければ、剣の強化が間に合っていなければ、襲撃を防ぎきることはできなかったかもしれない。
「……ふむ。取り逃してしまったのは残念だが、犯人に打ち勝ったのはこれが初めてだろう。キンケードなら、きっと次こそは捕縛もできるに違いない」
「リリアーナ様が活を入れて下さったお陰で、少しはしゃんとした様ですし、そうだと良いのですが」
そう言うとトマサはさすっていたこちらの手を取り、肩や腕に触れてきた。間近で細い眉がぎゅっと寄せられる。冷えたトマサの手で触れても、冷たいことがわかったのだろう。
「長く外におられて肩が冷え切っております、お部屋へ戻りましょうリリアーナ様。先生も、すぐに熱いお茶をお淹れいたしますから」
「うん、確かにちょっと手足が冷えているが。できればその前にキンケードと話がしたいんだ。屋敷へ戻っているのだろう、まだ忙しそうか?」
「足を痛めたとかで今は治療を受けておりますが、お話くらいでしたら問題はないかと」
「足を?」
「軽い捻挫だそうです。見たところそれ以外に外傷もありませんでした、どうかご心配なく」
トマサは裏庭へ出る前に、屋敷へ戻ったキンケードと顔を合わせていたようだ。足を怪我しているのは気になるが、心配要らないと言うのであれば大丈夫なのだろう。
むしろ、これまで負け知らずの相手によく足の捻挫だけで済んだと言える。
いくら剣を強化したとは言っても、武器がひとりでに戦うわけではない。結局はそれを扱う者の腕次第だ。
刃物で打ち合うのは、ほんの一手を誤るだけで命を落とす恐怖を伴う。
剣の強度が増したところでそれが変わるわけもなく、ほとんど外傷もなく打ち勝ったのは純粋にキンケードの技量ゆえと言える。
護衛として働いている時は戦いが起きないほうが良いのだが、できればそのうちキンケードの戦いぶりも直に見てみたいものだ。
そんな必要はないようにと願いながらも、直接目にする機会を楽しみにも思う。この平和なイバニェス領では早々剣で打ち合うような諍いは起きないだろう。であれば、自警団の訓練場のような所を見学させてもらうほうが近道かもしれない。
詰め所はコンティエラの街にあるという話だから、もし近くまで行けたら見学を願い出てみようか。
リリアーナは胸中で、やりたいことリストにまたひとつ書き加えた。




