81.譲れない想い
「あ……あのですね、ほんとに大したことじゃないんですよ。事の起こりを話そうとすると学生時代にまで遡っちゃうんですが。なんとなく「付き合わないー?」て話になってですね、ほとんど友達感覚で一緒にいたんですけど。就活でちょっと連絡ご無沙汰になっちゃってですね、勤め出したらますます疎遠になっちゃってですね。向こうははっきり言ってなかったけど、どうやら他に気になる子ができたようでしてね……まぁそれ以前にわたしの態度がどうなのよって話もあるんですけどね。それでも誕生日の、まさにその当日に言われた時には「ちょっとそれはないでしょ」とか思っちゃったりしたもんででしてね……だから一人寂しくヤケ酒をかっくらってましたら、いきなりこちらの世界に呼ばれたことになるわけで――あぁああもう!!」
ぜーはーぜーはー。思いっきり吐き出しておさまった……でも、エーディクさんやローシャさんに伝わるように話せていた自信はない。ほとんど勢いだけで喋った。
『あー……うん、だいたいわかった。お疲れさま』
『学生……マイヤは何かの学者を目指していたのか?』
「いえ、仕事に就く前に受ける標準的な教育です……向こうの世界の話ですが」
『働き出す年齢がかなり遅いって話だったか。前にも少し聞いた気がする……ていうかそれ、野郎のほうがまだその気になってなかったパターンじゃないのかな。同い年とかだと、男と女でだんだん適齢期の年齢差が響いてくるってあるあるで』
ローシャさん核心を突いてきますね……身に覚えがあるのかな。いやそんな多少の補足はさておき、ですね。
「と……とにかくですよ。こちらに来てからは生活するのに一所懸命で、ほとんどまったく思い出してなかったことなんです。だから今更抉りに来られたところでどうってことないですってば!」
『ふむ。そこの立ち直りの早さが〈翁〉らの誤算だったというわけですか。いやもう本当に、意外に強固な精神の持ち主だったわけですね。そうなるとやはり、我々としては扱いやすいほうを選びたくなるわけですよ』
仮面の男がエーディクさんのほうに目を向ける。獣の蒼い瞳がすうっと細められた。僅かばかり、憤りの念が伝わってくる。
『舐められたものだな』
獣がゆっくりとわたしとローシャさんの前に陣取り、仮面の男と対峙する。静かな怒りを……感じる。
やっぱりあれかな。今までみんな遠回しに言ってたけれど、「お前そこの役に立たない小娘よりも豆腐メンタルだろ」って今はっきり言われちゃったってこと、わかっちゃいましたかね。それは怒れますよねー……。
『俺もマイヤも、お前の思い通りにはさせん』
ひときわ、獣が放つ光が強くなったかと思うと、彼は翼を広げつつ仮面の人影に飛びかかった。マントを翻し紙一重で躱そうとした男の胸元めがけ、さらに鋭い爪を突き出す。それを後ろに飛び退いて避けた仮面の男は、両手を広げ、以前にも見た黒い細い針のようなものをいくつも産み出したかと思うと、四方にそれを撒き散らした。
「エーディクさん!」
けれど、黒い針は獣の放つ光に届くか否かの場所でジュッという鈍い音とともに崩れ消え去った。獣から離れた場所に飛んできたもののいくつか――わたしやローシャさんのいる場所に届いたものは、わたしの〈氷と光の壁〉で弾き飛ばす。
『おーし、その意気だ。やっちまえよ!』
ローシャさんの彼らしい激励の声が届いたのか。翼をもつ獣はさらにいっそう光を強め、仮面の男の周囲を飛びまわっていたかと思うと、まわり込んだその背後から鋭い爪で男の背を切り裂いた。男の胸のあたりから、黒い靄のようなものが飛び散る。
心臓を潰されたはずの男は、その状態のまま、何故かうっすらと笑みを浮かべていた。
『やれやれ……どうやら、〈拠り所〉を見つけてしまった、ようですね……面倒なことに、なってしまった』
男の姿が、足元から黒い砂のように崩れてゆく。
『しばらく、退場させていただくことにします。隙あらばまた参上させていただこうと思っておりますが、当分、先の話になりそうですね。今は――さらば、と言っておくことにしましょう……』
一礼をしようとした格好のまま、黒い塵と化したそれは風で舞い上がり、春の陽射しに溶けゆくように消えていった。
獣の放つ光は弱まり、次第にその影も薄くなっていった。もっと小さく細長い姿形でまとまったそれは、赤い髪の、男の人の姿をしていた。
「エーディク、さん」
こちらを向いたその瞳は、琥珀色のよく見慣れた色をしていた。
「おかえり、なさい」
ただただ、涙が滲んできて。その姿に腕を回してしっかりと抱きついた。そして彼は――ちゃんと抱きしめ返してくれた。
『よかったじゃねえの。ちゃんとお前、自力で戻れたんじゃん。――なんとかなるさ、これからも』
ローシャさんが彼の肩を軽くたたいて、いつもの楽天的な口調でそう言った。
『帰ろうぜ、フォークスへ。俺たちの家に』
空は、春の陽射しで柔らかい空気をまとっていた。




