44.経験したくなかった緊張
西部のアレーニもそうだったのだけれど、北東部は都から4日ほどの距離の町までは大公の直轄領だそうで、この辺りはまだまだ治安が良いほうなんだそうだ。それ以降の北東部は以前行ったカラノーク、そしてフォークスと北の森までカラノーク公の管轄となっている。
『なあ、お前ら北東部には詳しいんだろ? 今のカラノーク公って、どうなってたっけか』
『前のスヴャトザール公がモルジに異動になってから、まだ代官預かりのままのはずだ』
大公の長男でモルジの領主であったスヴャトゴール公が亡くなり、同腹の三男であるスヴャトザール公が後を継ぐよう任命されたため、彼の後任であるカラノークの領主がまだ決まってないらしい。
『今のところ、スヴャトザール公のやり方を維持しているはずなんだよな。そろそろ目の行き届かない場所も出て来そうなもんだけどな……』
『いえ、決まったようですよ――セミョーン公だそうです』
トーリャさんとの会話の最中に別の声がかかった。低めのゆったりとした、特徴のある声。振り向くとデニスさんがにっこりと笑っていた。
『……本当か』
『ええ、寺院のつてから伺いました。もう間もなく赴任なさるとのことです』
『マジ?』
微妙に反応の悪い二人に話を聞くと、セミョーン公というのは現大公妃の息子で、マスリーナの王族の血を引くことになり……当然のようにバリバリの南の教徒だそうな。
『まだ子供って聞いてたけどな……』
『成人なさるのを待っていたようですね』
『無謀としか言いようがない』
『それだけ大公の期待が大きいということでしょう』
いや、どうなのよって思うよ……北東部が最も抵抗の強い場所って聞いてたし、レーナさんだってあんなに怒ってたしさ。ほんとにもう、変ないざこざが起きないように祈りますよ……
進むに従い、徐々に景色に占める森林の割合が増えていっている。『とにかく視界が利かないってのがな、いちばん問題なんだ』『弓の射程に入るだろうと思ったら警戒を怠らないことだ。あと徒歩で近づかれる時間、馬で駆けつけられる時間と、こちらの準備時間を把握すること。〈力〉を放つ場合などはその後すぐに次の準備に入れるように』などなど、実地で警戒ポイントを教わっている。うん、確かに、近づかれるってそれだけで何もかも厳しくなるね……
『風の流れとか、匂いとか、気配の読み方はいろいろあるんだけどね』
『俺は金気を感じ取るようにしている』
『あーそれは確かに獣と区別しやすいかもな、相性によると思うけど。マイヤちゃんの場合だと、どうかな』
「まだわかりませんが、おそらく……」
言いかけた瞬間、何かブルッときた! 寒気とはちょっと違う、頭のほうにくる気持ち悪い感じ!
「あ、あの……何かいます、前のほう……!」
頭を抑えながらもなんとか二人に告げると、彼らは顔を見合わせた。
『エーディク、どう思う?』
『可能性はあるだろうが……まだ、かなり遠いということにならないか』
『矢でも射かけてみるか……いいや、ちょいと揺らしてみる』
ローシャさんが道端の草をひと掴み千切り、頭上で軽く振り回してからその手を離した。ふわりとゆるい風が、それらの千切れた草を進行方向に吹き流してゆく。ゆっくりと、風は強くなって、前方の視界を遮る木々の茂みに届いたかと思うと、さらにひときわ強い〈突風〉となって茂み全体を揺らした。途端にまた頭にくる、あの変な感覚が――
『俺にもわかった』
エーディクさんがそう呟き、ふたりとも弓を構えた。ローシャさんはトーリャ氏に知らせに先頭のほうへ走る。わたしも、エーディクさんにもらっていた護身用の短剣を握り締めた。
同行している一同に話が伝わったらしく、各々、さりげない動きで携帯している武器に手がかかっていた。その様子を見回していたらデニスさんと目が合ってしまい、なぜかにっこりと微笑みを返された。彼は、武器を持っているんだろうか……?
ローシャさんは幌のない馬車の荷台に上がると、問題の方向を見つめ、矢を番えゆっくりと弓を引いた。見当をつけた場所は、狩りの時よりずっと遠いはずだ。あれで当たるんだろうか? それとも、威嚇して追い払うつもりなんだろうか……落ち着かない気持ちのまま、見守るうちにローシャさんが小さな声で呟いているのが聴こえた。歌の時のようにはっきりした言葉として聴こえない。そのうちに矢羽を掴んでいる彼の指先から鏃までの間に、うっすらと〈力〉の流れができているのがわかり――そして、それは放たれた。
ああ、これは当たるんだと直感した。解き放たれた矢の突き進んだ先で、くぐもった音、ついでざわついた音がして。私の脳裏にはまた気持ち悪くなる感触があって、思わず口を押さえた。それが始まりの合図となった。




