39.埋まった溝と広がった溝
市中を通る河川に渡された橋の上は、〈水鏡〉に映る好条件でもあったようで、彼の気配は容易にとらえることができた。まさかこの力を、こんな時に使うなんて思ってなかったけれど。
「エーディクさん」
宿に戻るまで待っていようかとも思ったのだけれど、その前にすこしだけ二人で話をしたかった。――よく考えれば、ローシャさんの話は聞いたのに、エーディクさんのほうは聞いてないって不公平だなって思ったから。ホント、小さい頃に弟の友達が喧嘩した時みたいな、そんな気分だよ……
通行人の行き交う橋の上で何をするでもなく、佇んでいたエーディクさんはすぐに顔をあげてこちらにやってきた。
『ひとりなのか? 危ないぞ』
「大丈夫ですよ、すぐそこまでローシャさん達と一緒でしたから」
『……ローシャは?』
「先に宿に行ってるそうです」
『そうか……済まないな、気を遣わせた』
「大丈夫ですよ、このくらい何とも」
すぐに帰る必要はないことを彼も察して、ふたたび川縁に留まった。わたしも彼の隣で同じように、荷を載せた小舟の行き交う景色を眺めてみる。
「ローシャさんが、無理に聞こうとして悪かったって、伝えてくれって」
エーディクさんは緩く首を横に振った。
『そんなことはない。マイヤにも関係ないわけじゃないのに、今まで言葉が足らなさ過ぎた』
ひとつ、ゆっくりと細長い溜息をついて、エーディクさんがぽつぽつと言葉を続けた。
『本当に、面白くない話だからな――家は大公に倣って早々に改宗していてな。一族の連中は、早くから〈力〉を見せ出した俺を徹底的に忌み嫌ったから、早々に家を離れるしかなかった。司祭職は当然願い下げだったし、ミクラみたいな職に就いても南の文化圏の特色が強すぎる。兵役に就くほうがずっとマシだと思った。ドルジーナに志願するにしても、ここならメドヴェージの大公直属もあり得たんだが、とにかく北へとずっと望んでいた。ほとんど逃げるのも同然で。――だから、家の問題から目を逸らし続けてきたことは、事実なんだ』
エーディクさんにしてはとても長く吐き出した言葉の後に、彼はわたしのほうに向き直って、とても強い意志を込めた瞳で見つめられた。
『けれど、大丈夫だ。ここまで話せば本当に俺が家を継ぐ可能性は万に一つもないとわかってもらえただろうが、たとえ予想外のことになっても――家の問題に絶対、お前やローシャを巻き込まないから』
わたしも、彼の瞳をしっかり受け止めて、微笑むことができた。
「ええ——わたしは、エーディクさんを信じます」
「――って、エーディクさんの前では格好つけちゃったんですけどね。そもそも二人を巻き込んでる張本人が何言ってんのって感じで、内心自分で突っ込み入れてたんですよねー……」
その晩のお風呂上がりに、レーナさんに待っててもらって話をした。実は旅の間、どうしても二人のうちどちらかと一緒にいる状態ばかりなので、ひとりになれる時はこのタイミングくらいしかないんですよねー……あの二人は意外に長風呂なので、これがけっこう時間が空いてしまうこともあり。かなり高温の蒸し風呂なのに、なんであんなに長く入ってられるんだろうと疑問に思うこともあるのだけれど、ここの人にも江戸っ子気質的な何かがあるんだろうか。
「それで、やっぱりレーナさんにも、少しでも精霊の力とわたしに関係しそうなことがあったら、教えてもらいたいと思ってるんです。……何か、心当たりはないでしょうか?」
レーナさんが、女の私でも溜息が出るような相変わらずの美貌をわずかに曇らせる。
『ないわけじゃ、ないのよ……何かしら、あんたに注目してる輩がいるみたいよ。いちおう言っておくけど、〈水〉に関しては、あんたの敵にはならないと思う』
「〈水〉に関しては、ですか……」
『その辺は、あんたの使える〈力〉の傾向で想像つくでしょう。だから、つまりあんたが気をつけなきゃいけないのは――』
風に煽られて、レーナさんの波打つ銀髪が、さらさらと揺れ動いていた。
『――だぁら、そういう問題だけじゃねーって言ってんだよ! ったくよー……』
ちょうどローシャさんが、自分よりわずかに背の高いエーディクさんのこめかみ辺りを小突いているところが見えた。エーディクさんの動きは緩慢で、どこかぼうっとしている。もしかしてのぼせたんだろうか、ローシャさんよりも顔が赤い気がする。
『お待たせーマイヤちゃん』
「いえ……じゃ、ありがとう、レーナさん」
『……ん、じゃあね』
二人も二人で話し込んだんだろう、お昼に起きてしまった緊張した様子は、今やどこにも残っていない。ただ、わたしだけが、レーナさんが最後に残した言葉に囚われていた。
――わかるわよね? 敵になり得るのはつまり、あの男なのよ……




