ビロードの毛皮を求めて 1
新章です。物語もそろそろ終盤に入ります。プロアニアとは違った魅力を味わっていただければ、と思います。
ケヒルシュタインを出港した蒸気船は、およそ三日ほどの航海を経て、プロアニア北西の国、ムスコール大公国へと至った。
ケヒルシュタインに至るまでに既に厚着であった僕らは、海上に流氷を認めるようになると、それが目に付くだけで身震いした。蒸気船に石炭を放り込む従業員が羨ましくなる日が来るとはとても信じ難かったが、事実、「軽装で甲板に上がると最悪指が壊死する恐れがある」というアナウンスと共に頬をかすめる異常なまでの冷気を前にしては、強がる余裕など消えてしまう。ルプスの防寒具も最早毛皮と言った領域を超えた、ファーの重ね着によって賄われ、二回りも大きくなった服の為に、プロアニアでの軽快な動きを鈍くさせていた。
僕はと言えば、毛皮やシーツ、布団を搔き集めた疑似的なテントを作り、その上でヤトを膝に置いて寒さをしのぐ。ヤトの生息限界がどのあたりにあるかは分からないが、勝手に換毛を始めた彼は、時折テントの外に出たがるので、僕はかなり強引に彼を膝に引き戻すことになった。
少なくとも、今生では寒さに打ち震える事のなかった身に染みるこの冷気は、かつての僕、つまり寒冷地で過ごす事に慣れていた、白黒の羽毛に纏われた太った僕を、初めて羨ましく思わせてくれた。
船内であっても白い息が漏れるようになると、ようやく船員たちが毎朝燃料を担いで暖房装置を付けるようになる。ケヒルシュタインですら肌寒さを感じた体には遅すぎる対応なのだが、ルプスもさほど文句を言うことなく、船員たちに礼など述べているのだから、プロアニア人もなかなかの猛者ぞろいだと言える。
流氷と白い息に怯えながら長い冬を耐え忍んでいると、窓の向こうに大陸が視認できるようになった。
やがて、薄氷と積雪、奇妙な玉葱型の建物、分厚い石の壁が目の前に広がる。甲高い汽笛の音に対応するように、対向する船が汽笛を鳴らす。ゆっくりと船体が斜めに動き、互いに右に逸れてすれ違った。
「長い船旅お疲れ様でした。えー、間もなく、サンクト・ムスコールブルク港に到着いたします。皆様、下船の準備を宜しくお願い申し上げます。繰り返します。間もなく……」
「おら、雪ん子、行くぞ」
ルプスが僕のテントを剥す。全身に冷気を感じた僕は身震いし、すぐさま目の前にある上着を重ね着した。
「うぅ……」
ルプスは分厚い皮のブーツを履き、銃を担いで万全の支度をして立っている。彼はため息を吐いて僕の荷物を全て担ぎあげた。僕はヤトを大切に抱き上げて重い腰を上げる。足先に強烈な寒気が漂う。
「もう、何でこんなに寒いのぉ……?」
僕の動きは緩慢なままで、新たなる門出を迎える事になった。
王都サンクト・ムスコールブルク。常冬の都と呼ばれ、古くからムスコール大公国と西方世界を繋ぐ玄関口として栄えた大都市だ。
四か国戦争以後長らく宰相を務める名門ローマン一族の下で、長きにわたり文明の窓口として栄え、遷都によって現在は首都となっている。首都防衛はプロアニアほど堅牢ではなく、城壁もそれほど高くはないものの、背後を海に、陸地を氷雪に守られた独自の防衛力は、この国と戦う事を非常に困難なものにしている。寒波が一度訪れればいかなる国も撤退を余儀なくされるという圧倒的な地の利は、ムスコール大公国が交易と技術開発に専念することを可能とした。
サンクト・ムスコールブルクに訪れたからには、一世紀前の大戦争に触れなければならないだろう。ムスコール大公国は教会が俗語聖典を後押しし、独自の教会勢力を作ることで、初めて完全な教会からの宗教的独立を達成した国と言われている。当時の教会との隔絶は、そのまま西方世界との隔絶を意味する。これ恐れたイワーノス家の長、女傑ロットバルトによって、プロアニア、カペル、エストーラ三国に対して世俗的な交流を継続するための親書が送られた。これに対して、あろうことか宣戦布告で返したのがプロアニアだったのである。緩衝国の分割と言う垂涎の獲物を提示されながら、プロアニアはそれを一蹴し、他三国の攻撃によって壊滅した、と言われている。
ロットバルトは戦後処理において、現状維持を選択し、勢力の均衡を図った。その一方で、敗戦国プロアニアとの交流を図ったのである。
ロットバルトの思惑はプロアニアの技術をムスコール大公国だけが奪取することにあった。秘匿されたプロアニアのあらゆる技術を「共同開発」の名目で留学生に学ばせ、ムスコール大公国に技術革新をもたらした。
その象徴が、僕の眼前にある、雪の中にオレンジ色の明かりを灯すガス灯であり、近年建設されたムスコールブルク東西を横断する鉄道である。
雪によって視界を阻まれることの多いムスコールブルクでは、このオレンジのガス灯は一等美しく見える。雪が花のように色づき舞い踊る光景は、花弁舞うカペルの河川敷にも劣らない。石造りの西方風の建物に混ざった、独特の雰囲気を醸し出す古い建物も町の景観に華やぎを添える。ガス灯の温もりと、玉葱状の天井のドーム、古代文明を思わせる大学の支柱や、黒塗りの杉を使った木製の古い商館など、様々な文明の融合が見られる町は見ているだけでも実に面白い。しかしながら……
「さっむい……」
自然と体が震えるほど寒い。それでもここでは暖かい方なのか、薄着の人々が通り過ぎたりもするので、思わず目をひん剥いて凝視してしまう。皆が皆そうではないものの、コートを羽織った人は意外にも少なく、「今日は暖かい」などと談笑する声も聞こえる。
「それにしても、革命云々っていう割には、町は穏やかだな」
ルプスは頭の上で腕を組んで背伸びをする。体を動かす事の出来ない船内でも鍛錬は怠っている様子もなかったが、それでも運動不足だったらしい。フランが周囲を見回す。
「確かに、武力衝突なんかが起きた形跡もないわね。軍部の警戒が厳しくなって大人しくなったのかしら?」
確かに雪の積もった石畳で転倒する者、ゴミを拾って嬉々とする貧民と思しき人間など、武器を持っている様子すらない人々しか見られない。革命が起きた、などとは微塵も感じられないし、仮に先週暴動が起きたと聞かされても首を傾げざるを得ない程穏やかだ。
「おぉ、おぉ、おぉ!!もしやもしや、プロアニア政府の方ですか!?」
背後から声がする。振り返れば、港の方角から貴族らしき人物が汗をかきながら駆け寄ってきていた。
「いやぁ、申し訳ございません。船の到着時間には港にいたのですが、見つけられませんで……」
彼はハンカチで汗を拭いながら愛想の良い笑みを浮かべている。ルプスが僕達の前に出る。
「あの、失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「おぉっと!重ねて失礼いたしました。私、マトヴェイ・クサヴェリエヴィチ・ペトローヴナと申しまして、ここムスコール大公国の外務官をしております。等級は第四等官……まぁ、永世貴族という事では御座います。三等官以上の者達は只今暴動の処理で大変苦慮しておりまして……えぇ。勿論一代貴族の方々もですが。おっと、お寒いでしょう、立ち話もなんですので、どうぞどうぞ」
一方的に捲し立てるように話すと、マトヴェイは早足で歩き出した。僕達は顔を見合わせ、彼の後を追う。足元を雪で掬われないように歩くのも一苦労なのに、マトヴェイは待つ様子もない。足音も立てずにあちこちの小道を通り抜けていった。
「ちょっと、あれ、不親切じゃない?」
フランがそう言って雪に飲まれた脚を引っこ抜く。この寒さだというのに軽く汗ばむほどの速度で追いかけなければ追いかけられないのは、確かに不親切だ。
「文句言ってねぇで行くぞ、おら!」
ルプスがフランを担ぎ上げる。フランが小さな悲鳴を上げる。
周囲を気にする余裕もない僕は、木製の手錠でつながっているサクレを一瞥する。彼女は何とか雪に埋もれることなく歩いているらしい。ルプスは楽しそうに駆け出した。
「ちょっと、待ってよ」
僕が叫ぶと、ルプスは「おいていくぞ!」と楽しそうに叫ぶ。余程動けるのが嬉しいらしい。僕はサクレの方を見る。
「大丈夫そう?走れる?」
「好きにして」
彼女はそっぽを向く。疲労の色は見えていたが、まだ余裕はあるように思われた。僕は走るのはやめて、やや歩幅を大きくして早歩きをした。
ちょうど彼女の駆け足くらいの速度で、早足のマトヴェイに何とか追いつくことが出来た。




