跳躍する小鳥の刃 3
港町ケヒルシュタイン。高度な都市計画により、建物の配置そのものが法陣術を構成する、プロアニア北の玄関口である。広大な海の中で北東に舵を切れば、ムスコール大公国の古都、サンクト・ムスコールブルクへと続く。北西に舵を切れば、北海の民と呼ばれる、古くからの民族の国、ノートルデンへと続く。そして、南東に舵を切れば、エルヴィンが向かう予定であるカペルの北部へと向かう。
尤も、往来する船の多くは北西、つまりムスコール大公国へと向かう。技術の流出を何よりも恐れるプロアニアは、カペルへ蒸気船が向かう事を規制しているのだという。過剰ともいえる対策のわりに、僕のことを厚遇しているのは、何か闇さえ感じる。
潮の香りに混じって漂う黄色の煤煙は、焼けつくような臭いを伴って立ち上げていく。息苦しくなって咳き込むと、フランは黙ってハンカチを出していた。僕が礼を言ってそれを受け取ると、彼女は静かに地面に降り立った。
「潮の匂いだ……」
煤煙の中に微かに感じた匂いに呟く。魚を満載した鉄の馬が荷物を運び、市場の前で馬車に商品を卸す。市場は都市を囲う城壁とは別の城壁で囲まれており、ここから中を確認することはできない。
「あの向こうには市場と外国人居住区があるのよ」
「外国人居住区……」
国家の入り口で外部の人間を足止めする、まさしくプロアニアらしい制限交易が成り立っていると言えよう。この城壁が守るのは、都市そのものではなく、文明を守るための城壁なのだろう。僕は気を取り直し、港へと向かう緩やかな坂の最中から、海の方へと目を向ける。閑静な住宅街と、本屋や魚屋、八百屋、パン焼き窯などが立ち並ぶ。その中を、背広を着た紳士や淑女が談笑をしながら通り過ぎる。
「さて、まずは何を見ようかしら?」
「俺は酒場探してくるわ。お前ら護衛宜しく」
ルプスは仲間たちに声をかけると、承諾も受けないまま駆けていった。男達は失笑しながら、その背中に手を振る。傭兵は羽振りがいいと聞いたことがあるが、どちらかと言えば単に貯蓄を出来ない体質なのではないだろうか。
「じゃあ、僕達は、少し町を回ろうか」
「と言っても、真新しいものは見られないと思うけど?」
フランは意地悪く笑う。空は黄色く澱んだ空気に阻まれているが、港町に訪れた時に感じる、高揚感は削がれなかった。プロアニア特有の低い空の下で、僕達はのんびりと歩き始めた。
ケヒルシュタインの街並みは、プロアニアの物よりはエストーラの街並みに近い。煉瓦造りの家々と、馬車が三台ほど通れる広い石畳の街路、プロアニア国旗を掲げた下に、店の看板が掲げられている。住宅街と市場を隔てる高い城壁の中身は、人がひしめき合う「単なる」大都会だった。
背広を着た人の他に、動きやすそうな薄手の服を着た人々が威勢よく客を呼び込む姿は、僕が慣れ親しんだ光景だ。カペルの宝石や服飾、ムスコール大公国の毛皮や工芸品など、北方世界の様々な商品が目にも鮮やかだ。フランは微笑みながら商品を覗き込み、店主には優雅に手を振って次の店へと移る。店員たちはぼうっとして客寄せの手を止め、その後ろ姿を追いかける。僕がその後ろにいる事を認めると、名残惜しそうに仕事に戻った。
暫く歩くと、魚の焼けるいい匂いが漂う。釣られて匂いを追いかけると、鮮やかなオレンジ色の白身魚が揚げられ、それをすぐ裏のパン焼き窯で売られるパンで挟んだ料理を出す露店に辿り着いた。
「安くしとくよ」
僕がのぞき込むと、店員は揚げたての魚を取り出して微笑んで見せた。黄色い煤煙にも負けないいい匂いが鼻孔をくすぐる。口の中に唾が溜まり、飲み込むと、店員は徐にパンを広げる。小麦色の綺麗なパンだ。
「買いましょう。買えばいいじゃない」
フランはすっと顔を覗かせる。僕が振り向くのと同時に、僕の旅費に手をかけて、極上の料理と交換する。ちゃっかり二人分を購入し、その一つを僕に差し出した。
「え、でも……」
僕が躊躇っていると、フランはそれを僕の手に押し付けて目を細める。
「いいじゃない、多分、こんな風にのんびりできるのは、今のうちだけよ。贅沢しておきなさい?」
僕は断るわけにもいかず、それを受け取った。湯気と共に訪れず耐え難い芳ばしい香りがふわりと浮かぶ。オレンジ色に塗された卵黄とパン粉がじゅわじゅわと油を溢れ出させる。あふれ出た油はパンに染み込み、パンを少しだけ黄色くする。僕とフランは露店の傍にある小さなベンチに座った。
「いただきます」
僕は恐る恐るそれを頬張る。脂が染み出し、オリーブの風味が口の中にすっと広がる。ぽろぽろと崩れるオレンジ色の魚体は、見た目に違わない華やかな辛みがあった。柔らかなパンにも、染み出した脂の味が映り、最後まで飽きさせない。余すことなくうまみを摂取できる逸品だ。
「これは、美味しいね……!」
フランは自慢げに微笑む。
「えぇ。北の方で獲れる魚だから、私は良く知らないのだけど」
プロアニアの食事はまずい、という噂を耳にしたことがある。実際、見た目にも鮮やかな食事と言うものは、貴族の食卓以外には見たこともなく、旅のお供は常に干し肉と黒パンだった僕にとっては、洗練された宮廷料理以外に惹かれる、と言うこと自体が珍しかったように思う。しかし、これは実に強烈な旨味があった。料理としては単純で、揚げた魚をパンで挟むだけである。しかし、それで十分なのだと納得させる料理でもあった。
フランを一瞥する。熱そうに口の中で料理を転がしながら、小さく息を吐いている。咀嚼して飲み込むと、口の端で微笑んだ。
「どうしたの?」
フランが僕に視線を送る。僕は首を振った。
「じゃあ、食べ終わったら、また何か見に行こうか」
「また虫とかは勘弁して頂戴」
「エルヴィンじゃないんだから」
澱んだ空気の中で、すれ違う人の笑顔。作り笑いの店員、目移りする貴婦人、煉瓦造りの街、蒸気を噴き上げる船が浮かぶ海。機嫌の悪い空でも、舌は素直に喜んでいる。僕は再び、魚を挟んだパンを頬張った。




