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赤髭の王冠 19

「それで、承諾されたのですね」


 エルヴィンは何とも言えない表情で紙面を受け取った。僕はなんとか肩の荷が下りたためか、全身の力が抜けきってベッドに座り込んだ。

 嬉しそうに顔を赤らめた斜陽が、プロアニアの工場群を照らす。公会堂から覗ける民衆たちの洗濯物が茜色に染まり、それらを手際よく回収する身なりのいい女性たちが時折窓から顔を出す。


「エルド、私は、次の旅について行くことが出来ません」


「えっ?」


 僕はどんな顔をしていたのか、エルヴィンはきまりが悪そうに続ける。


「私は次にカペルへ向かう事になります。貴方に同行してくれるのは、貴方と、そしてフラン様だけです」


「……そっか。仕事なら、仕方ない、ね」


 いまいち情報を整理できないまま、反射的に言葉が漏れた。うまく発声できず、息の詰まる感覚が邪魔をする。脳に酸素が回らないのか、自然と息遣いが荒くなる。

 恐らく、寂しさと恐れの入り混じった感覚なのだろう。僕はエルヴィンに大いに助けられただけあって、彼がいない旅と言うものがいまいち想像出来ない。人間は未知の事実に恐れを抱く生き物だ。それが、責任を負わなければならないものであるならば、なおの事。


 太陽は沈みゆく。星は疎らに見え始め、洗濯物も見えなくなった。寝静まる寸前の町の中を、ガス灯が灯す。照らされた明かりにぶつかる蛾や蝶の群れが現れる。調子の悪いガス灯を調整する整備士の背中も照らし出される。工場の群れは、稼働を停止しただろうか。


「エルド様。どうか、一つだけ。もしも、ムスコール大公国で何かがあったら、兎に角生き残る事だけを考えて下さい。革命など、きっと時間が解決してくれるものです。ですから……」


「そんなにうまくいかないと思うよ」


 シーグルス兄さんのクーデターを思い出す。宗派戦争に疲弊した帝国の支配は盤石ではなかったが、少なくとも、貴族の間では、ムスコール大公国ほど、切羽詰まった息苦しさは無かった。帝国内での酸鼻極まる宗派戦争も、貴族連中の内では領主の信教の自由を整理すれば解決するだろうという、「限定的な」ものと考えられていた。問題を先延ばしにした結果、皇帝が殺され、聖言派の宗主はその求心力を一気に失っていく。エストーラの例に違わず、世の中に楽観視できるものは殆ど無い。

 革命は、権力と民衆との権力闘争だ。技術で遥かに進んでいたとしても、圧倒的な物量に勝てる者は、それ程多くない。


「だから、これは命がけで防がないと本当にまずい事になると思う」


「エルド様……」


「革命は伝播する。今対策しなければ、きっと、プロアニアも巻き込まれるよ」


 エストーラにとって好都合なことに、反乱軍が勝利した場合、真っ先に「抑圧された国家」として標的にされるのはプロアニアだろう。エストーラのクーデターは、彼らには美化されているに違いない。兄さんは、「旧体制を打ち破った英雄」となったのだから。

 勿論、杞憂で終わるならばいくらかはマシだろう。彼らの革命が成功したことに端を発し、プロアニアだけでなく、君主国家すべてで内部反乱がおこるのであれば、国内で火消しは可能なのだろう。それでも……。


「プロアニアでは、間違いなく内乱に発展する」


 魔女狩りの主たる原因は集団ヒステリーだ。元職人の工場襲撃も、何かの拍子で爆発するかもしれない。貧民街の人々がボイコットでも起こせば、経済は一気に混乱するだろう。僕が懸念する革命の危険性は、エストーラのクーデターと、プロアニア各地に散見される確かにある社会問題が確固たる論拠となり得る。そして、この内乱が起これば間違いなく、エストーラはその足元を見てくる。そうなれば、最早争いは免れない。


「……貧富の差は間違いなく広がりました。しかし、それによって莫大な利益も出ています。きっと、大丈夫ですよ」


 そういうエルヴィンの顔は、笑っていなかった。


「フラン、遅いね」


「何事かに巻き込まれていなければいいのですが……」


 今日は、僕の謁見と同様に、フランの保護に関する相談も行われている。こちらは厚生大臣‐ムスコール大公国の首都、ムスコールブルクの都市衛生課が発展して生じたものであり、一世紀前の大戦後、プロアニアでも組織された厚生省のトップ‐との会談とされていて、家なき子となった彼女の取り扱いについて話し合う事となっていた。

 エルヴィンも彼女の送迎用の馬車が出ていた事を確認していたため、安全ではあろうが、流石に夜が更けると、心配になってしまう。

 夕日はまさに地平線に沈もうとしている。遥かに聳える山岳の輪郭を暗く示しながら、境界へと消えて行く。


「厚生大臣であらせられるディートハルト・フォン・フランベルト卿は、信用に足る紳士ですから、きっと問題ありませんよ」


 エルヴィンは困ったような笑みを浮かべる。彼が僕に気を遣ってくれている。一日の緊張が程よく解けていく。不思議な事にフランは大丈夫だろう、と言う気持ちにもなった。


「そうだね。何せ、厚生省だもんね」


 僕は純粋な笑みで返した。エルヴィンも安堵の溜息を吐く。そんな話をしていると、鉄馬が地面を滑る音が、公会堂に響き渡った。


「帰ってきましたね。あの車輪はプロアニア政府のものです」


「そんなことも分かるんだね」


「慣れれば車種で大体わかりますよ」


 エルヴィンは実に嬉しそうに答える。僕は感心するというよりもやや呆れながら、乾いた笑いで返した。

 暫くすると、階段をのぼる音が聞こえ、フランの横顔が部屋の前を通り過ぎる。僕は急いで扉を開け、彼女の背中に向けて出来るだけ元気に「おかえり」と言った。彼女は立ち止り、一度鼻を啜ると、落ち着いた声で返した。


「えぇ、ただいま」


 夜の廊下には僕らの声がよく響いた。彼女はこちらを振り向きもしないが、その背中はどことなく丸くなっていた。僕は違和感を覚えて、彼女の名を呼ぶ。彼女は低めの声で聞き返す。昇り始めた月光が彼女の背中に影を作る。空はやっと疎らな星を輝かせ、ガス灯は益々その力を強める。長い公会堂の廊下に、フランの細い影が佇んでいる。


「……どうなった?」


「貴方について行くわ。保護者は父だけだからと断ったら、見舞金の手続きを済ませるだけですんだわ。プロアニア政府の庇護がある限りは、普通の生活が送れるだけの年金が入る。それだけ」


「それだけなのに、こんなにかかるものなの?」


 彼女の背中に違和感と共に不安を覚えた僕は、フランに聞き返す。ドアノブから手を離し、廊下に足を踏み出そうとすると、彼女は一歩前進した。


「……フラン?」


「何でもないわ、また明日ね」


 彼女は逃げるように自室へと戻る。僕は黙ってその背中を見つめていた。


「……どうして、君は」


 僕の事を信用してくれないのだろう。丸まった背中にかける言葉が見つからず、僕は廊下に佇む。月が少しずつ工場の群れから顔を覗かせて、白い煤煙の中に揺蕩っていた。


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