黒と白の境界 8
何日経過したかは判然としないが、看守が十回ほど入れ替わった頃、突然城内が騒がしくなった。
ド、ド、ドという鈍い行進音が響き、頭上を通り過ぎる。乱雑に扉を開く音は貴族のそれとは思えず、地下牢にも反響した。
ベッドの上に置かれた僕のガウンや、放置されたままの欠けた食器とスプーンなど、地下牢のものが小刻みに震える。時に激しく、時に微かに、スプーンが皿を鳴らす。それは一つの音階しか響かせない楽器のようで、時にはスプーンが皿の反対側に移動することもあった。
悲鳴と怒号のような叫び声が響き、時折勢いよく何かが倒れる音もする。やがてそれは階段を昇っていったのか、怒号と行進音と共に遠ざかっていった。
僕は牢獄の中で膝を抱えて震える事しかできない。それが一体何であるのか、敵なのか味方なのか、判然としないまま、頭上で行われる行進を遠くから聞いていた。
行進の音が止んで暫くすると、看守が憔悴した様子で戻ってくる。その手には鍵束を持ち、歩くたびにシャンシャンと群がる鉄の音が響いた。
暴動か何かが鎮圧されたのか、そう思った矢先、階段を下りる革靴の音に気付く。緊張に背筋を伸ばし、鍵束の音に視線を向けた。
「無事だったかい?エルド」
声の主はシーグルス兄さんだった。鍵束を持った看守が僕の牢獄を開錠する。大きな包みを持ったシーグルス兄さんが牢獄に顔を出して微笑むと、僕はそれが処刑ではないことに気付いた。体中の緊張がほぐれ、肩の力が抜ける。
尋問の時とは異なり、革靴の音が遥かに好意的に響く。看守はひきつった笑みを見せながら扉を開け、シーグルス兄さんに道を譲った。
僕は肩が抜けたかのように両腕をおろし、少しこけた頬に涙を落した。
しかし、次の瞬間にはシーグルス兄さんの腰に帯びたベルトに鞘が納められていることに気付き、震えあがる。恐怖によって殆ど声が出なくなっていた僕は、首を横に振って抵抗する。
シーグルス兄さんは穏やかな笑みで首を振り、手に提げた巨大な袋をおろした。
鈍い音が地下牢に響く。近くによってはじめて、袋の底に液体が滲んでいることが分かった。僕は部屋の隅に蹲り、頭を抱えた。震えは止めようとしても止まらず、命乞いの声は細切れになって空気を振動する。
シーグルス兄さんは血で濡れた衣を纏い、鮮血に手を染めている。
近づいてくる冷淡な笑みに、僕は首を振り続ける。全身の血の気が引き、脳が思考を停止させる。ぼろぼろと零れた大粒の涙は、シーグルス兄さんの笑みを滲ませる。兄さんは、僕が抱えていた頭から手を解くと、穏やかな口調で言った。
「君を救うためにはこのような不本意な結果を生むしかなかった。どうか、許してほしい」
シーグルス兄さんは僕を無理やり起こすと、嬉しそうに麻袋を拾い上げた。
ぼたぼたと僕の膝に血が滴り落ちる。恐る恐るその中身を確認し、声にならない悲鳴を上げる。恐怖を通り越した生存本能が働き、シーグルス兄さんを必死に払いのけようとする。
「君を殺したりはしない、さぁ、明るい離宮で、これからの話でもしよう」
心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動し、過呼吸になる。沈黙するスプーンと欠けた皿も、僕には湾曲して見えた。そしてそのまま、僕は意識を失い、頭から崩れ落ちた。
烏の鳴き声が響き渡る。けたたましい声に目を覚ますと、僕は見馴れたベルクート離宮の自室にいた。身を起こし、ひりひりとする背中を曲げる。
夕焼けの射しこむ床を一瞥し、僕は小さなため息を吐いた。
僕は背中の痛みに気を付けながら、そっとベッドに背中を委ねる。
ベッドの質感はベルクートの毛のようにごわごわしており、身を任せたシーツ越しに、転倒した背中の疼きが感じられる。ごわごわとした毛は、獲物を捕らえたように嬉しそうに騒めく。今までに感じたことのない焦燥感と、朧気ながら感じていた兄への恐怖心が、明確な形としてあふれ出していた。
僕は、ガウンを払いのける。キリキリと胃が痛むのを感じる。
ノックの音が響く。僕は背筋が凍り付くのを感じた。身震いする体を何とか持ち上げ、くすんだ夕陽に背を焼かれながら近づこうとすると、絨毯に足を引っかけてバランスを崩す。体勢を整え、深呼吸をし、扉に手を掛けた。
扉を開くと、シーグルス兄さんが普段通りの柔和な笑みを浮かべていた。僕は、一歩後ずさりして、兄さんの腰を見る。帯刀こそしていたが、手を背中で組んでいる辺り、害意は無いようである。
「落ち着いたかい?惨いものを見せてしまって、ごめんね。エルドを助けるためには必要だったから」
兄さんは礼儀作法を気にせずに、承諾さえする前に部屋に侵入する。僕は身構えるが、武器も一切与えられていない僕が手を向ける仕草は、兄さんには滑稽に見えたのかもしれない。普段よりリラックスした笑みを浮かべる。
不気味な夜の帳が空を包み始め、猫の剥製だけがガラスの目玉を光らせる。寝台の上に放り投げられたガウンは、静かに家主の肖像を見上げている。
ガウンを見下ろす肖像と同じ立ち姿を、兄さんは子供をあやす時のような穏やかな表情で見つめていた。
「今回の件を簡単に説明した方がいいだろう。これは、クーデターと革命が同時におきたようなものだ。僕は君を開放し、民衆は僕を支配者に選んだ。そして神がそれを導いてくださったのだろう。これからこの国は、聖典の言葉を準えることになるだろう」
兄さんは、僕と目が合うたびに、歪に目を細める。僕は、その度に、底知れない恐怖心を抱いた。暫く沈黙が続く。沈黙の中では、月光も鮮明であり、視界を奪う影は窓に近づくにつれて薄れていく。兄さんはその光を独占する為に、ゆったりと窓の前へと歩み寄った。
僕は緊張のあまり過呼吸になる。兄さんの優雅な立ち振る舞いは、今は猫が獲物を弄ぶ際の余裕に満ちた動きに見える。袋小路に追い詰められている僕が身動きを取れないでいる様を、楽しんでいるように思えた。
「……嘘ですね。初めから、兄さんは兄さんのためだけに仕掛けた」
震える唇から絞り出すと、兄さんは目を細める。そして、首を傾げて僕の言葉を促した。僕は絞り出すように続ける。
「兄さん、僕だって、いつまでも赤ん坊ではないんです。兄さんの腹に抱えた野望ぐらいは、分かります。ヤーコプ兄さんが神経質になっていたことも、分かります。兄さんが、僕のガウンに毒瓶を入れたのですね」
出来る限り棘のある言葉を選んだ。兄さんは振り返る。深淵の中に鋭く光る兄さんの目は笑っておらず、口角だけを持ち上げてみせた。
「……そうだね、君の言葉は概ね正しい。そして、同時に、君は僕の恐ろしさも心強さも理解しているはずだ。共により豊かな国を作ろう、君は二人とは違う。凝り固まった思考も、陰湿な猜疑心もない」
細めた目が月光を反射する。爛々と輝く瞳がゆっくりと僕に近づく。
「たとえ兄さんであっても、父さんや兄さんを殺した人、まして僕を貶めようとした人には、ついて行けません」
僕は出来る限りの虚栄を張って答えた。いつ殺されるかもわからない、そんな状態で、彼のもとに跪く事は出来ない。
兄さんは露骨に首を垂れ、鼻から大きなため息を吐いた。
「……それは、実に残念だ」
先ほどまで後ろに回されていた手が、瞬きをする間に剣を僕に突き立てる。正確に喉を攫うように向けられた剣には、なおも表情を崩さない兄さんの顔が映っている。
僕は慎重に首を持ち上げ、後ずさりをする。視線は剣に映った兄さんに釘付けになったまま、ゆっくりと距離を取ろうとする。兄さんはその度に僕の歩幅に合わせて近づいてくる。距離は保ったまま、扉の前まで追いつめられてしまった。
兄さんは目を細める。僕の頬を汗が伝う。一瞬意識が遠ざかり、件の白昼夢がフラッシュバックする。心臓の鼓動に合わせてその光景が何度も断続的に目前に現れ、僕は困惑する。過呼吸を必死に抑えると、腹がしきりに動く。
「兄さん、僕は、兄さんを信用できません」
「同感だ。私は君を利用できないことをとても残念に思うよ」
僕は後ろ手でドアノブを開け、倒れ込むように駆けだした。兄さんは大声で増援を呼ぶ。玄関まで響く大きな声に反応した兵士達は、出口という出口を塞ぎ始める。
僕は窓をこじ開けて外に抜け出す。窓を外から閉め、桟を伝いながら慎重に壁を這う。心臓の鼓動と過呼吸は抑えられない程になっており、不格好に壁に張り付く姿を追いかけるように窓の向こうに兵士の影が映る。
ある程度階下へ降りると、僕は庭に飛び降りて屈み込み、薔薇園に隠れる。伝令兵が飛び出し、門の前に控える警備兵達に挨拶をして立ち去った。
呼吸を落ち着かせ、出口という出口に控える兵士達の姿を確認する。周囲を確認し、宮殿を囲う柵を見上げる。
柵は先端を槍のように鋭い剣山に囲われ、足場になりそうな場所もない。一方で、ある程度ゆったりとした隙間になっており、小柄でひょろりとした僕ならばなんとか通ることが出来そうだった。
意を決し、慎重に低木に身を隠しながら柵に近づき、横向きで隙間を抜ける。
頭がつかえて動けなくなると、再び心臓の呼吸が速くなる。数分かけて全体重を使い、強引に頭を引っこ抜くと、思わずバランスを崩して尻餅をついた。
門番たちが物音に気付く。僕は身を屈め、赤ん坊のように路地裏に這い出す。門番の一人が様子を窺いに来る頃には、僕の姿は柵の前にはなく、乞食が項垂れる路地裏にあった。
僕はそこから必死に走り抜け、泥酔者の臭いやアンモニアの刺激臭、ゴミ箱の中を漁る浮浪者の群れを掻き分け、何とか市場の裏に到着した。
重い足をゆっくりと減速させ、荒れた呼吸で壁にもたれ掛かると、不気味な烏の鳴き声が聞こえる。
これからどうしようか……。
この町にいる限り、見つかるのは時間の問題だろう。先程の伝令兵は明らかに関所の警備を強化するために送られたものであり、助力者なくしてこの町を抜ける事も出来ない。
夜の闇の中とはいえ、駆け抜けた路地裏の浮浪者達に顔を見られていないという保証もない。
狭い路地裏の黴臭さが僕の鼻孔をくすぐる。真っ赤になった眼で迫る外壁の間から空を見上げると、星だけが爛々と僕を見下ろしている。僕はただ、その迫り来る外壁にもたれ掛かる事しかできず、呆然としていた。
頭がはっきりとし始めると、疲労が一気に襲い来る。僕は深夜になったことを確認し、捜索者が現れる可能性を危惧し、大通りを避けて移動する。そして、一軒の宿の裏口をノックした。
「はぁい、何ですか?」
扉を開けた眠そうな主人に僕は飛びつく。主人は突然のことに驚き、目を丸くして僕を見た。
僕は彼の胸辺りがくしゃくしゃになる程強く服を握り、襲い来る動悸を抑えながら、途切れ途切れに訴えた。
「あの、商人が泊まってはおりませんか?珍しいものを買いたく思い、お忍びでやってきたのです……!」
僕のただならぬ表情に何かを察した主人は、僕を中に案内する。僕は、深く頭を下げ、案内されるままにロビーで待機した。
狭いロビーは決して広くはなく、つましい作りではあるが、不釣り合いな大きな暖炉があり、冬には有り難い作りであった。暖炉の向かいには受付があり、壁にぎっしりと部屋の鍵が掛けられている。
暫くすると、主人が一人の商人を連れて現れた。
僕はその顔をよく覚えていた。彼は普段から隣国プロアニアとエストーラの間を行き来する行商人であり、よく馬に独り言を呟く、馬面の男であった。
主人は僕がどのような事態に追い込まれているのかをかなり正確に把握しているらしかった。行商人は頭を掻きながら、僕の服装に驚く。
凡そ庶民とはかけ離れた姿の僕をみて、そのような反応をすることは致し方のない事ではあるが、僕は少々胸が苦しくなり、顔を伏せた。
彼は何故が嬉しそうに僕に歩み寄り、僕の顔色を窺う。期待される様な事を何一つ出来ない僕は、追い出される覚悟で彼の目を見た。
「助けて下さい。このままでは、殺されてしまいます」
沈黙がロビーを支配する。行商人はさほど驚きもせず、僕の手を握った。
「何とかしますよ、旦那様」
僕は余りにも簡単に答える男に、一抹の不安を覚えた。




