赤髭の王冠 9
霧雨館の四つの館は、いずれも城壁然とした壁に背を向けて作られていた。壁と建物の間に小さな濠を作り、窓と窓が板でつなげるように作られている。
南西方面の館は入り口に階段を持ち、傾斜のある三角屋根が高く聳える均整の取れた建物だ。階段の最上部、入り口の扉の前には青銅の騎士像が立ち、女性二人をその座に座らせて出迎える。中にはやや新しい絵画や彫刻が並び、最新のカペルやエストーラの宮殿文化を肌で感じることが出来る。
北西の館は外観に見られたドームの館で、古き世に東方の賢者たちが神々と戯れた大地に見られる丸天井と、教皇が愛する柱の美術が合わさった、美しい教会建築だ。この館には、大理石製の古代の像や、かつて教会を彩ったフレスコ画美術が並べられる。霧雨館で最も、教会と親和性の高い建物だった。
南東の建物は、最も古い建材が使われた建物で、ドームを中心として、神殿然とした無数の柱に支えられた方形の建物だ。多数の青銅の像に迎えられて入場すると、中には静かな玄関が広がる。中央にあるロタンダの部屋には、支柱と支柱の間に神々の彫刻を飾る。中央の天窓から差し込む光は、窓の少ない古き建物にヨシュアの威光を示し、偉大な神々を讃える部屋そのものが一つの芸術として成り立っている。それ一つだけで溜息が出そうなほどの力を持ち、人間が生み出した信仰の奇跡に時間を忘れそうなものだった。
そして、南西の建物は、横幅の広い安定感のある佇まいで、小さな三角屋根を擁する以外には最も地味な建物である。しかし、中に入ればそれが間違いであったと思い知らされる。
宮廷の美、教会、神々の威光、既に三つの芸術を目の当たりにした僕は、この建物にだけは危機感すら覚えた。
異端芸術とでもいうべきだろうか。僕達の歴史には存在しない、文化外の芸術品がこれでもかと並べられていた。砂の文明が生み出した、奇妙なほど精巧な像や、今となっては用途の分からない日用品の数々、壺のような置物や、彩色の施された壁の断片。未知の文明が生み出した、未知の美術品の数々。当然、僕達の知らない神々が示される。これを納めてもいいものかと僕が考えていたのを悟ったためか、エルヴィンはこの建物についてだけ口数が少なかった。
四隅の建物を観覧して、いよいよ霧雨館の中にあるエルヴィンの家に向かう。ここは会議場としても使われる建物であって、多くの人が往来していた。
「何と言うか、公共の建物だね」
僕が呟くと、フランが手を後ろで組んだままさっさと歩み出す。
「まぁ、霧雨館公会堂って呼ばれてるもの。みんな集まるわよ」
フランはいつもの調子でチラチラと人を見る。プロアニアの民族衣装を身に纏った人々は、やはりどれも同じ人に見える。昔の僕ならばとても惹かれたかもしれないな、などと考えていると、エルヴィンは恥ずかしそうに顔を掻きながら笑った。
「ちょっと騒々しいかもしれませんが、まぁ、余りお気になさらず」
広いエントランスにいは、ロビーイングに来たと思われる人々がこっそり袖の下に手を入れ合っている。高い天井から差し込む光も、明るいガス灯の光も、あの下までは照らせそうにない。
「さぁ、どうぞ。この先がプライベートルームです」
エルヴィンは手を左方に向ける。往来する人々に挨拶を交わし、時折明らかに政治的な暗号を交わしながら、少しずつ左方の奥へと進んでいく。
明るいエントランスと比べるとやや薄暗い、優しい灯りの灯る部屋の前で、彼は立ち止る。僕はどんな部屋だろうかと息を呑む。フランは軽く視線を逸らして、虫などが目に入らないようにしているらしい。
ドアノブの法陣に触れ、カチャカチャと金庫のようにパスワードを解除する。そして、さらに次の扉で自前の鍵と南京錠を外し、更に最後の扉で再びロックを解除する。彼はそれらをほんの一分足らずで終えると、最後の扉を開けて僕達に道を譲った。
「さぁ、どうぞ」
質素な部屋だった。大量の資料、極秘資料や金銭、小切手などを入れるための金庫を三つも置き、民族衣装を三つだけかけたむき出しのクローゼット、そしてたくさんの図書と書棚、小さな窓の前に作業用デスクがある。狭いが整頓されており、何があるわけでもない。僕はもっと虫の標本をあちこちに飾っているものと考えていたので、暫く口を開けたまま立ち尽くしていた。
「何もないわね」
フランがはっきりと言う。エルヴィンははにかみがちに笑った。
暫くして、エルヴィンは思い出したように大きな引き出しを開ける。引き出しから幾つかの大きな箱を取り出したため、僕は直感的にそれが何かを察して近づいた。
「……少し、恥ずかしいですね」
「人の絵を横から見てるのによく言うね」
エルヴィンは困ったように笑うだけだった。僕は微笑んで返す。静かな部屋で暫く箱を持ったまま流れる時間は、とてもゆったりとしたもので、僕が描いた羊飼いの光景ともよく似ていた。
そして、エルヴィンは逡巡したまま箱を見つめ、ゆっくりと開くと、それを机の上に置いた。
モンシロ、キアゲハ、アカタテハ、シジミタテハ、クジャク、キバネセセリ……。一見地味だが、どれもこれも集めきるにはなかなか骨が折れる。エルヴィンが旅先で記念に持ち帰る姿が想像できる。
エルヴィンははにかみがちに笑い、箱を戻そうとした。
「待って。……これ、凄い。モルフォだ」
群青のモルフォチョウだった。モルフォは美しい模様でよく知られる蝶の種類で、虫の標本家が最も好む種である。しかし、近年ではすっかり見られなくなってしまい、森の奥深くへと彷徨いながら血眼になって探すハンターさえいるという。エルヴィンの表情が明るくなり、しかし、同時に苦しそうに眉を顰めた。
「いわないで、分かっている。エルヴィンは、これを買ったの?」
エルヴィンはきまりが悪そうに目を逸らす。
「……私は、生体を買い、虫かごで飼って繁殖させたりもしています。繁殖場は、あの、件の教会に預けていますが……。たまに成虫を外に放ってやる事もありますよ。繁殖できずに死んでしまった個体を、こうして……残しているのです」
「だから、数が少なめなんだね。売ったりはしないの?」
そう訊ねると、彼はクローゼットまで視線を泳がせた。
「売ることも、あります」
「……そっか」
美しい群青のモルフォには、白い線の模様が伸びている。崩れないように大切に保管された彼らの死骸たちは、丁寧に、丁寧にピンでとめられ、防虫剤と防腐剤と共に標本箱の中で眠っている。僕はほかの標本箱を手に取り、それを開いた。
たくさんのモルフォが眠っていた。エロス、タイヨウ、ヘレナ……。異教の地から運ばれ、並べられた美しい模様は、生きているかのようだった。
あぁ、そうか。僕を殺した誰かも、こうして僕を残し続けていたのかもしれない。
意味もなく涙が零れた。滴は硝子越しに物言わぬ者達の上を滑り落ちていく。僕の形は残っているだろうか。僕は、まだ、あちらの世界で生きているだろうか。
美しい、そう思ってしまった。姿を残してくれていたエルヴィンに、感謝してしまった。僕は、どうしたらいいのだろう?何が僕の心を、動かしてしまうのだろう?
元の世界には、君に会える人がいるのかな?せめて、会えたらいいのにな……。いや、きっと、会えないのだろうけど。
「……コムラサキ」
「え?」
エルヴィンは聞き返す。僕は両手をデスクにつき、涙声を隠すこともせずに繰り返した。
「コムラサキも、見せてよ」
どうして、こんなにも美しいのだろう。憎悪も確かに湧き出している。それなのに、もう出会えない君の、その面影を見せてほしいと願ってしまう。
こんな僕が、君に誇れる僕になれるのだろうか。




