赤髭の王冠 7
「あら、エルヴィン、ご機嫌麗しゅう?」
「これはこれは。フランチェスカ様、お早うございます」
私が答えると、フランチェスカは静かにスカートを持ち上げて挨拶した。
黎明のゲンテンブルクは美しき茜色の空を持ち上げ、霧の中に建物を隠す。牢獄のような城門の守りの前に立ち、フランチェスカは再度私に視線を向ける。
「今朝も霧が深いわ。これでは作物もしなびてしまうでしょうね」
陽光を遮る霧は魔女の魔術の仕業とも言われる。彼女の妖艶な笑みはその美しさも併せて、魔女の誘惑のようにも見えた。
「小氷期の混乱もイモの為に随分と落ち着きました。私達のプロアニアは、変わらず栄える事でしょう」
私はあくまで紳士的に答えた。久々の蝶ネクタイを締め直せば、燕尾服の尾がふわりと持ち上がる。
フランチェスカはつまらなさそうな空返事をし、私の服装を舐めるように確認する。そして、ネクタイをぴんと引き、持ち上がって皺を作った燕尾服を丁寧に直した。私はなされるがまま彼女を受け入れ、両手を肩と水平に持ち上げた。
「……昨晩、エルド様に何をなさっていたのですか?」
「あら、貴方はお詳しいのね。どうして私がそのようなことをしたと?」
フランチェスカはとぼけて手を唇に当て、空で視線を泳がせた。
私は彼女の姿勢に苛立ちを覚え、ややトーンを下げて答えた。
「……大火の件は同情いたします。しかし、貴方の行動は酷く彼を傷付けた。私の客人を苦しめるようなことはしないでいただきたい」
私の苦言を聞き、彼女は静かに靴を揃えて爪先を見る。手を後ろに組み、視線を泳がせる。
「……えぇ、私が悪いわ。どうかしていたのよ、ごめんなさい」
「いえ、お気持ちは分かるのです。しかし、やはりあのような……」
「いつから見てたの?」
「一部始終を」
敢えて法陣術を介したことは伝えずに私が即答すると、彼女は満足げに微笑み、「そう」と短く答え、目を伏せる。暫く爪先を見ていた彼女と並び、エルドの登場を待つ。
エルドは臆病であり、彼を守る為、またゲンテンブルクの良さを知ってもらうため、少しでもプレッシャーを和らげたいと考えている。彼女もまた、同質の目的を持っていることだろう。
霧はキラキラとオレンジ色の空に漂い、朧げな空は茜色を薄く町中に張り巡らせる。
「これは貴方の罪ですよ」
私の声に、彼女は静かに頷く。
「その通りよ。こんなことで償いになるとは思わないけれど、貴方に協力させて下さる?」
鼻からため息が漏れる。私が黙って頷くと、フランチェスカはゆっくりと首を持ち上げ、作業員室を指図をするように指先確認を始めた。
「そろそろじゃないかしら?」
エルドが気づいた。私はフランチェスカと同じように、軽く手を振って返す。空が青に染まる直前の輝く白さを、煤煙がゆっくりと黒に染め上げる。いよいよ朝は訪れ、ゲンテンブルクはエルドに優しい笑みを返した。
僕は急ぎ広場に出る。エルヴィンとフランは静かに佇んでいた。
「お待ちしておりました、エルド様」
「エルヴィン、と……フラン、おはよう」
ついフランに対して怪訝な表情を浮かべてしまった自分を恥じる。彼女は眉だけを下ろし、穏やかな微笑で答えた。
「えぇ、おはよう」
エルヴィンは二人の表情を見比べ、首を傾げる。彼には少し悪い気もしたが、僕たち二人の事情はできる事なら明かしたくない。僕は苦笑いで誤魔化した。
「……今日はもてなしてくれるんだって?」
「えぇ、お約束のコムラサキも待っています」
僕はつい飛び上がった。蝶や虫の収集を続けるエルヴィンの部屋は、一体どれほど好きに満たされているだろう。
僕の純粋な喜びは、フランとの関係への疑念を拭うだけの力があったらしく、彼は穏やかに微笑みながら、これまでとは比べ物にならない程豪華な馬車に僕を案内した。
二頭の白馬に牽かれる、浮ついた金枠の馬車だ。中に入ると小さな絵画が飾られ、そこには朝靄に隠されたゲンテンブルクの遠景が描かれていた。
「エルヴィンは、自分の国が好きなんだね」
「えぇ。エルド様には申し訳ありませんが、私達の国は、エストーラよりもずっといい国だと確信しております」
「……ううん、自分の国が好きなのはいい事だと思うよ」
僕は僕自身の事すらあまり好きだと感じない。エルヴィンにとってこの国がよい国なのであれば、僕はそれを諫める事も出来ない。
エストーラ帝国の絢爛豪華な宮廷文化は、金と軍事力を一極化されることによって支えられてきたのも事実だ。ゲンテンブルクはある意味で、どの建物もあまり変わり映えしない。それ程切り詰めつつも、なお内装に力を込めて自らの存在感を維持しようという姿は、確かに見習うべき部分もあるかもしれない。
御者台を使用人に任せたエルヴィンは、僕と向き合っていかにも嬉しそうに窓を覗き込む。使用人は高貴な身分ではないようだが、その身なりはある程度整えられていた。
「エルド様、あれが霧雨館です」
「霧雨館……?」
「ゲンテンブルクの大貴族、ゲンテンブルク家が建立した離宮よ。巨大な時計塔と五棟の博物館が有名ね」
大通りを少し外れた道に沿って進んだ先に、都市の南北を分かつ虹色に濁った川がある。川を巨大な眼鏡橋で跨いだその先に、霧雨館と呼ばれた建物があった。僕は一瞬、それが本当にゲンテンブルクの建物なのかと目を疑った。
くすんだ灰褐色をした石積みの壁は、赤茶けた銅色のドームを支える。島一帯を全てゲンテンブルク家が私有している為か、エル字型をした建物が、城壁の如く川縁を一周する。エストーラの宮殿美術は明るい色と広い庭園によって優雅な印象を与えるが、霧雨館はより歴史を感じさせる、威圧感のある建物だった。
建物の隙間から覗く広場には煙突に存在感を奪われた聖堂よりも小ぶりなお抱えの教会があり、羊飼いのための放牧地が柵に囲まれているらしい。
馬車は古代の水道橋を思わせる巨大な眼鏡橋を進む。霧と煤煙に包まれた工業街の外れ、暖かな住宅街と繁華街の間を分けるように流れる川の中州に作られた人工物は、一つの砦のようにその迫力を見せつける。橋の半ばまで進み、全容を確認できるようになると、首都全体を監視するような「凄み」が全身を強張らせる。工場街の機械的な在り方も緊張感を覚えるが、それとは一線を画する類のものだった。
「えぇ、そうです。我がゲンテンブルク一族は、エストーラの世襲よりもずっと古くからこの町を見守り続けた、プロアニアの守護者なのです」
「二重統治にならないの?」
ホーエンハイム家の統治機構は全てあの宮殿の中に纏められていた。彼らとゲンテンブルク家が蜜月の関係であるとしても、これ程の規模があるのならば、新参のホーエンハイム家と戦争の記録など残っていてもおかしくはない。
僕の質問は聞きなれたもののようで、エルヴィンは愛想笑いを零した。
「ホーエンハイム家と我々は、そもそも住む世界が違うのですよ」
「住む世界が違う?どういう……?」
「私達は都市の財産である市民を管理する、市参事会の支配者なのです。一方、ホーエンハイム家はプロアニアの王、当地領域は同じくしても、私達はこの都を守り、ホーエンハイム家は国家を守るのです」
「……つまり、市長と王の関係ってことかな?」
「市長と言えど、我々がここに居を構える理由をよく考えて頂きたいのです」
国家を支配する王は国全体を統べるに足りる圧倒的な軍事力と支配者としての権威を手に入れる必要がある。例えば、エストーラは教皇の後ろ盾と大公としての財力、軍事力だ。
ゲンテンブルク家は恐らく、それと比較するとその影響力が局所的であり、しかし局所的には国王以上の影響力を持つのだろう。
エルヴィンは優しい眼差しで霧雨館の入り口の先を見る。その先には居住区があり、そこには、エストーラと代り映えしない、穏やかな日常の風景が広がっていた。
「ホーエンハイム家が王都ゲンテンブルクに居を構えた理由はその安定性にあります。そしてその下地を作ったのが、我々貴族議員を含む有力者達なのです」
エルヴィンにとっての愛国心の根源、それは自身とその血が紡いできた貴族としての誇り、そしてこの穏やかな暮らしそのものなのだろう。
女性が洗濯物を干し、子供が広場で遊びまわる。男達はぼんやりと仕事をし、女房に尻を叩かれて仕事に戻る。穏やかな町の光景を一望できる霧雨館は、ゲンテンブルクの本当の歴史を見届け続けていた。




