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川向かいの同胞へ 19

 薄明かりの茜色が、空を漂う雲に反射し、朧な雲海の輪郭を輝かせていく。夜明け前の旅人達の尻を追い、睨み付けていた春の出来事だ。

 香る紅梅の匂いは棚田の連なる人里から漂う。肌寒さに股引の上から足を摩る男と、米をよそう女房の喧騒が行き交う色の薄いコントラストは、背の低い茅葺の家々から今日も響き渡る。傾斜のある森の中から見下ろす朝焼けの美しさは、いつも気だるげな村人の肌にも微かな紅潮を差した。


 俺はこの町に住む家畜を狙っていた。猪が畑を荒らし、猿が柿を盗むのと同じように、俺は家畜を貪る。分かりやすく、狩りやすいのだから、当然のことだ。その日も何か獲物はないかと鼻をひくつかせ、目を凝らしていると、見馴れない服装の男が一人道を歩いているのを目にした。

 男は村人と何かを話しているらしい。俺はその時は気づかなかったが、それは害獣駆除の為に訪れた男だったのだろう。背には長い銃をかけ、傍らには猟犬を従えている。殆どの村人は簡素な一枚布の着物を着古していたのだが、その男は紺色の帽子に、黄色い襟袖を持った紺の服を身に纏っていた。腰には剣を提げていたが、刀などではない。

 その姿に本能的に危機感を抱いた俺は唸り声を上げ、一旦竹林の中に退避した。


 竹林を掻き分けて大地を蹴ると、風に驚いた猿が飛び上がり、木に登る。俺はそいつらを通り過ぎ、さらに風を切る。すると、毛づくろいをしていた手頃な猿の子供を見つけ、速度を緩めて様子を窺う。相手はこちらに気付いておらず、俺はしめしめと距離を詰めていく。穏やかな朝焼けに気持ちよさそうに目を細める二匹の幼い猿は、鋭い眼光の気配を感じ、即座に駆けだした。俺は飛び出して一匹に食らいつく。喉を貫く気持ちの良い感触に、俺は手ごたえを感じる。子猿の耳をつんざく悲鳴はまだ静寂に満たされた竹林を引き裂く様に響き渡った。


 力尽きた猿を貪り、腹から下を咥えて歩いていると、腐肉特有の嫌な臭いが強くなることに気付く。臭いを追いかけると、俺と同じ姿をした生き物が死んでいた。蠅にたかられたその死体は、毛が抜け始めており、青ざめた肌を一部露出させている。ひどい目やにと膿疱が見られ、悪臭を加速させる。俺は子猿の一部を鼻に当てるようにしてその場を離れ、臭いが消えると食事を再開した。


 その頃、俺は確かに似たような死に様を多く目にするようになっていた。腐乱臭は決して不快ではないが、食事を摂る際に蠅がたかるのは何故だか好きではなかった。それは概ね鬱陶しい、という一言で片づけられる感情で、深い意味があったわけではない。その日も直感的に、同じような症状の病だろうと判断した程度で、さっさと興味を失ってしまったのだろう。

 もし、この時少しでも心を痛めていたのならば、仏様もせいぜい俺に慈悲を掛けてくれたのかもしれない。……まぁ、俺がそんなことを考えたのは、こうして銃を提げる側になってからなんだがな。


 結局ご馳走をぺろりと平らげてしまった俺は、次の獲物を探してふらふらと歩いていた。

 どうにも日中は余り動く気がしないため、俺は概ね夕方や朝方のちょうどいい気温の時期を狙って動いていたのだが、その日は訳もなく腹が減り、少しテリトリー内をうろついていた。


 暫く彷徨うと、ざく、という嫌な足音が遠くに現れた。重厚なその音は自然界の中では珍しく、しかし直感的に危険を感じるものだった。

 つまりは、それが人間の足音だとすぐに分かったのだ。

 俺は歩みを止め、目を凝らす。足音は少しずつ俺に近づいてくる。俺が戦闘態勢に入り、その足音に意識を集中させると、足音は突然歩みを止める。そして、村人の草履の音でないことを悟った俺は、それが銃を構える音を聞き逃さなかった。


 正面から犬の鳴き声に、俺は激しい咆哮を上げた。牙を剥き、唸り声を上げる。

 相手も些か緊張しているのか、姿を見せない人間は息を殺してどこかに身を潜めている。俺は周囲に細心の注意を払い、犬の鳴き声に牙を剥く。

 悍ましい睨みあいにしびれを切らせた俺は、犬の鳴き声のする方にとびかかった。


 パンッ!火薬の弾ける音が響き渡る。鼓膜と同時に喉元に激痛が走った。

 俺は勢いを失い、地面に横たわる。姿を見せた人間は、先程村に現れた男と同じ服を着ていた。その男は、俺に再び銃口を向ける。俺は沈みそうな意識を何とか保ち、男に唸り声を上げる。ひゅうひゅうという空気の漏れる音が俺の喉元を通り抜け、肺に浸透する鉄の臭いと、襲い来る視界の湾曲に必死に抵抗する。


「さらばだ、害獣よ」


 男がはっきりとそう言い、俺の脳天に発砲した。俺の脳は潰れ、意識と共に吹き飛んだ。


「これで村も少しは平和になるだろう」


 安堵感に気を抜いた男の呟きを最後に、俺の意識は消え去った。



 ルプスは自嘲気味に笑う。

「な、自業自得だろう?あいつらもあいつらなら、俺らも俺らだ」


 狼は、古くから畏敬の対象として、大なり小なり狩猟の対象にされることがあった。彼はかつて信仰の対象として狩られていた頃とは異なる、何らかの変化の過渡期に撃ち殺されたのだろう。

 静寂の野営地には蝶が集まり、炎の前で舞い踊る。鱗粉の甘い香りに誘われた蝶が続けざまに光に集い、舞い上がる炎にその羽を焼いていく。

 そして、隣にあるルプスの顔。暖かな赤の光が薄い霧の間に浮かび上がる。月の瞬きと彼方にあるゲンテンブルクの高い煙突群。低い教会の鐘楼は陰に隠れ、三つの角がアンバランスに突き出している。まるで円形の劇場に立つ歪なシンボルのようで、月明かりと共に霧に阻まれたままで影を残している。


 すべてを飲み込む霧の前に、僕達は無力だ。すべての物が薄らぐ水泡の膜は、張り付くことなくずっと向こうの景色を霞ませる。ゲンテンブルクは遥か彼方に見えるが、実際にはもっとずっと近くにあるのだろう。僕は目を凝らし、一筆一筆に力を込めた。

 空を猛禽の影が飛ぶ。鳴き声は空高く響き渡り、霧の向こうの首都へと消えて行った。


「……お前、何を描いてるんだ?」


 ルプスは怪訝そうに眉を持ち上げる。僕は、視線はそのままで筆を止め、一つ息を吐いた。


「貴方にとって、人間とは、どんな存在なのですか?」


「どんな、つってもな……。俺は今も昔も、奪い取るだけ奪い取る、搾り取られるだけ搾り取られる、だ。別に今も昔も、何も変わってねぇよ」


 変わらない?そうなのだろうか。人間は際限なく奪う。際限なく搾り取る。何故、同じと言えるのだろうか。

 ルプスは僕の筆を取り上げ、絵を覗き込む。その瞬間、彼は思わず息を詰まらせた。

 炎の周りを舞い踊る蝶。光に鱗粉が反射する。夜の暗さに反し、草原ははっきりと目に飛び込む。そして、その只中を炎越しに見つめる若き狼の横顔。茶色の体毛と、小柄な、しかししっかりとした体格の、狼だ。今にも落ちそうな月を不安そうに見上げるその狼は、葉をむき出しにしたまま立ち尽くす。何も成すことが出来ないまま、彼方の煙突の影に追われるように背を向ける。下げられた尻尾は、彼のこれまでとこれからの不安を全て物語っている。


「俺、か……?」


 フランも言っていた、仕方がないと。エルヴィンも、言葉を濁したままだ。それはきっと、ルプスも同じだ。


「僕は、何かを諦められるほど、強くないから」


 ルプスは目を見開く。僕はその視線から目を逸らしはしなかった。

 僕達は、それほど簡単に諦められるのだろうか?僕はここに来るまで、何度も幻を見てきた。それは、あの時の生を諦められなかったからだ。あの、海に放り投げられた君を、忘れられないからだ。


「ルプスさん、僕は貴方も同じだと、そう思うのです」


 僕に昔語りをしたすべての「人」が、昔を忘れられていないのだ。森林を駆け巡る風の匂い、牙を剥く細い猛獣と割れてしまった卵、無邪気に地を掘る鋭い爪、実った黄金色の麦穂の群れ、岩礁に打ち付ける波の音。全ての面影が蘇り、そして消えて行く。その後に残るのは、どうしようもない胸のざわつきと、やり場のない感情だ。僕達は、もうそこからは逃れられない。


「なんだよそれ。弱肉強食は、仕方ねぇだろ」


 ルプスが歯を剥く。眉を顰め、苦しそうに同意を求める。僕は即座に反論した。


「そう、思いたいだけなんですよ。誰も逃れられない」


 それはたぶん、人間も同じだから。

 僕はその絵に最後の仕上げを施した。ルプスの見開いた瞳が潤む。目を細め、鼻を啜る。


「なんだよ、それ。狡いだろ……」


 描かれた草原の向こう側、川の対岸に狼達が駆け抜けていく。月を見た狼の視線は、狼達を見送っているかのように映った。

 目の前の狼は奪い取った絵から視線を外し、空を仰いだ。厚い霧の向こうに星が瞬く。僕は、彼の背中を軽く叩く。彼の慟哭が伝わる。しっかりとつかまれた絵はくしゃくしゃに丸め込まれ、空になく遠吠えはゲンテンブルクの霧にかき消された。



挿絵(By みてみん)

ニホンオオカミ(学名:Canis lupus hodophilax)

 かつて日本に生息していた狼。資料においてはヤマイヌとの混同も見られるが、オオカミは信仰の対象、ヤマイヌは信仰の対象ではないなど、区別されていたともされる。いずれも恐怖の対象とはなっていたようである。

 体格は小柄であり、耳は短く、脚が長い。小規模の群れを形成して活動し、夕方や明け方に盛んに活動をした(薄明薄暮性)。

 絶滅の主たる原因は狩猟と伝染病(狂犬病)の流行による個体数の減少である。畑や家畜を襲うニホンオオカミは害獣であったうえ、民間信仰でその頭骨が用いられる事もあった。そのような経緯から徐々に個体数が減ったことや、生息域の分断などの原因もあり、一概に直接的な人間の干渉だけを原因とは出来ないが、西洋からの家畜が病原体を持ち込んだこと、明治時代の開発も原因の一端を担っていたなど、間接的な原因は多く見られる。中型犬ほどの体格しか持たなかったが、最終捕食者として君臨しており、減少・絶滅に伴ってニホンザルやイノシシなどが増加し、作物への被害が報じられるようになった。

 現在でも目撃情報を基に、生息している地域があるとされるが、現状では20世紀初頭に絶滅したものと考えられている。最後に確認された個体は剥製として現在も保存されている。

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