黒と白の境界 6
エストーラ一族は、「家族の樹」を重視している。これは、我が家が繁栄を掴んだその理由にある。即ち、政略結婚によって多くの領土を獲得したことに由来する。
その為、エストーラ一族は「神に羊の代わりに愛を捧げる」という名目で、家族は可能な限り一堂に会して食事をしなければならず、結婚による縁者とは必ず子を設ける事、また、結婚自体が神の意思に適うものであることを確認しなければならない。
エストーラの結婚政策は現在まで概ね成功を収めており、父さんは未だにそれを真に受けているらしい。
僕が食卓に向かうと、既に一族は揃っていた。ヤーコプ兄さんがイライラしながら足を組んでいたため、僕は早歩きで席に着く。
席に着くと、直ぐに飼い猫を抱き上げたヤーコプ兄さんは、朝食の一部を猫に食べさせる。
朝食は塩気の強い豆スープと小麦のパン、クルトンの入ったサラダ、そしてベーコンだった。
猫はにおいを嗅ぎ、髭を揺らしてベーコンを食べた。暫くは普段通りに食事を続けていたが、突然食べるのをやめ、身を震わせ始めた。
一同が驚愕し、腰を上げる。猫はピクピクと身を震わせながら泡を吹き、やがてびくつかせた足も動かなくなった。使用人たちにもどよめきが起きる。
「誰が作った!謀反か!?」
ヤーコプ兄さんが叫ぶ。僕は自分の目の前にある食事を見る。特別に変わったところはない。普段通りの食欲をそそる外観をしている。真っ先に兄さんに睨まれたシェフは、大きく首を横に振った。
「そんな、私は何も……!」
ヤーコプ兄さんに睨まれることは、殆ど死罪と同義である。それだけに、シェフの血の気が引き、顔が真っ青になるまでの時間は一瞬だった。
「我々は彼が毒を盛る姿など見ておりません!」
他の料理人も悲鳴のように叫ぶ。配膳のために幾度か調理室を往復している使用人や、毒見をした執事長も同様に頷く。
ヤーコプ兄さんは彼らへ向けていた視線を直ぐにシーグルス兄さんに向けた。
「お前だろ!前から私の席を狙っていたのは分かっているのだぞ!」
父さんもシーグルス兄さんに視線を送る。ヤーコプ兄さんの物とは異なり、説明を求めるような視線であった。
「僕は執務室におりました。これは、同伴者もおりましたから、疑いようのないものです」
「はい、シーグルス様は確かに私から一度も離れておりません」
こう付言したのは使用人でヤーコプ兄さんが最も信用を置く、遠縁でもあるエーゲンベルト伯爵だった。
猫の死骸は尻尾を垂らし、ヤーコプ兄さんの膝の上で泡を吹いている。本心か否かは不明だが、彼が殆ど唯一愛情をこめて育てていたペットは、今は主人の膝を噴いた泡で汚す。慌てて使用人がこれを回収する。
次にヤーコプ兄さんの視線を受けたのは、当然僕であった。兄さんの驚愕の表情がゆっくりと僕に向けられる。目をひん剥き、顎を引き、怒りと興奮で真っ赤になった兄さんの表情を受け、僕は恐怖のあまり目を泳がせてしまう。
絶対にそんなことは無い。僕は小刻みに震える身を何とかヤーコプ兄さんに向ける。面倒な政争に巻き込まれるなど、普段からヤーコプ兄さんの緊張と猜疑心に満ちた視線を受けた上でしようとする方が、よほど頭がおかしいのだ。
「待ってください、兄さん。私はともかく、エルドがそんなことをするとは到底思えません。動物を愛するエルドが、猫が毒見を必ずさせられるヤーコプ兄さんの席に毒を盛るなどありえないことです。それだけではありません。よく考えてみて下さい。最後にここに到着したのはエルド、そして、最も臆病で幼いのもエルドです」
「他に誰がいるというか!お前でないならば、それ以外に私を殺して得する者など!」
ヤーコプ兄さんが机を叩く。豆スープが零れ、テーブルクロスに広がる。父さんがヤーコプ兄さんを睨んだ。
「落ち着きなさい。エルドが、というのは確かに信じられない。ヤーコプ、お前が咄嗟にシーグルスを見たのもその為であろう。エルド、潔白を証明するためにはお前の部屋の検査と身体検査をするのが一番だと思うのだが、どうかね……?」
「……えぇ、そ、それがいい、と思います」
僕にはやましいことなどないのだから、なにも恐れる必要はない。徐に立ち上がり、両手を広げた。
使用人が僕に恐る恐る近づく。それは、今朝ガウンを掛けてくれた、あの使用人である。
「失礼いたします……」
使用人はそっと僕の体を触る。こそばゆい程慎重に、また、申し訳なさそうに胸ポケットや、服の裾などを軽く押さえる。
緊張感に冷や汗をかく。僕の最も苦手な、「個人として視線を受ける事」だったからだ。しかも、万が一にもない事だが、もしもどこかに毒でも仕込まされていたのならば、僕は殺されてしまうだろう。殺されるのは御免だ。
冷や汗が頬を伝う。気味の悪い沈黙と共に、真実を見定めようとする父さんと、激しい激昂を露わにするヤーコプ兄さんの視線が僕を刺す。
降り注ぐ疑いの目の中、ガウンのポケットの上を触る使用人の手が、何か固いものを確認した。僕は固いものが僕の肌に触れるのを感じ、思わず身を竦ませる。
使用人は恐る恐るそれを取り出した。瓶に入った奇妙な粉が、僕のポケットから現れる。
食卓にどよめきが起こる。ヤーコプ兄さんはひきつけを起こしたように細かく区切った引き笑いをした。
「……バレるに決まっているのに、馬鹿な奴だ」
「違います、断じて、違います!」
僕は叫ぶ。しかし、既に一同の視線は僕に向けられ、シーグルス兄さんさえ、憐みの視線を送る。
混乱に合わせて回転する僕の視界は、懐を確かめた使用人に向かう。思わず嗚咽が漏れ、震えた体はいう事を聞かない。
「お、おま、え、か……」
使用人は視線を逸らす。
僕は確信した。この男はどちらかの兄さんに雇われ、僕のガウンにこの毒瓶を入れたのだ。そうでなければ説明がつかない。
「ヤーコプ兄さん、きっとこれは何かの間違いです。エルドがそのような卑劣な真似をするとは到底思えません。少し、エルドの話を聞きましょう」
シーグルス兄さんの言葉に、勝ち誇った顔のヤーコプ兄さんが頷く。
「着替えるために部屋へ戻るが、その前に弁明を考えておくことだな」
「……なん、で……」
僕は立ち上がるヤーコプ兄さんの背中を追った。離れていく兄弟が去り際に僕を一瞥する。父さんは、異端でも見つけたのかと思う程の剣幕で、一瞥すらせず去っていった。
「待って!だって……!」
近衛兵が僕を拘束する。その手はいつになく力強く、僕を抑えつけた。