川向かいの同胞へ 9
一旦入城してすぐに町を抜けた馬車は、方向を変えてゲンテンブルクへと急ぐ。草原と森の道は長く続き、低い丘陵地帯に波打つ道も程よく整備されている。プロアニアらしい生真面目な通行の様子を眺めていると、ふと、エーゲンベルト伯爵の声を思い出した。
彼がここにいるという事実は、殆どエストーラに道程が筒抜けであることを示している。シーグルス兄さんの推理も手伝っているのだろうが、これ程迅速に動いていることに疑問を抱いた。
エストーラは害悪魔女の狂気に揺れ動くプロアニアと同じほどに、国内の混乱が起こっているはずだ。宗派戦争に関しては、プロアニア以上に深い対立が見られる。ハングリアとエストーラ間の確執も完全に消えたわけでもなく、現在も時折事件になっている。
そんな国がこれ程迅速に、「反逆可能性の極端に低い残党」である僕を、政府の要人を使ってまで追いかける様は、異様というほかない。
あるいは、最も恐ろしい想像が僕の脳裏を走る。シーグルス兄さんが聖言派から手の平を返すだろうことは、容易に予想できたことだが、これ程速く手の平を返すとは考えづらい。
つまり、政府の要人狩りを始めている可能性がないか、という事である。ハングリア側の不安分子はどうしようもないが、聖言派を一気に片付けていき、国家そのものの転換を図っている可能性がある。
そして、その狙いはプロアニアの技術者をエストーラに転向させるためであろう。近いうちに、プロアニアとエストーラ間で激しい争いが生まれるかもしれない。
杞憂であればいいが、そうであれば僕を排除する必要性はより高まる。つまり、エストーラの事情をプロアニアに流す危険性が最も高い人物だからである。できる限り内部の不安分子を排除したうえで、秘密裏にプロアニアから技術を盗み出し、同国との正面衝突の準備を進めていきたいと考えるのは、自然な考えであろう。
それは、フランやエルヴィンにも危害が及ぶ可能性が高い事を示している。
「貴方に拾われた命だもの。そんなものはあまり気にしないわ」
フランが独り言のように呟く。僕は不意にかけられた言葉に驚き、目を瞬かせながら彼女を見た。静かな草原の道を吹き抜ける風が、爽やかな新緑の香りを導く。瑞々しい若葉を揺らす音が、通り過ぎる対向車に消し去られる。彼女は鼻を一つ鳴らし、馬鹿にするように笑みを返した。
「プロアニアの対立も、エストーラの陰謀も、今の私には無関係だもの。羽を休める場所が欲しかった渡り鳥とは違うもの。私達は、地に足をついて生きていきたいだけでしょう?」
「僕は……どうだろう。良く分からないかな」
風が彼女の髪を攫う。御者台のエルヴィンが馬車の速度を緩め、交差点で停止する。車輪の轍は細々と続き、対向車線にも二重三重に重なっている。それは僕達の出会いを思わせるが、同じくらいに、交わった運命の分岐点も示しているようだ。
群れる事の恐ろしさを知ってしまってから、何かに縋りつく事も怖くなってしまった。殺伐とした一家団欒さえ愛おしく思えるほど、外の世界は恐ろしいものなのだと知ってしまった。地に足を付けて歩けるほど、自分が強くない事もわかっている。今つながりがあるものも、惨めな傷の舐めあいに過ぎないのかもしれない。
それでも、フランの微笑は確信をもっていた。
「貴方は素敵な人よ。少なくとも、二人が命を賭けるほどには」
風が吹き抜ける。僕の頬を暖かなものが伝う。煌めく新緑と、差し込む木漏れ日の匂いが満ちていく。
「僕はどうすればよかったんだろう。どうすれば、良かったんだろう」
もしも君に出会えたら、僕の命の重みが、君よりも重くなってしまう事もなかっただろう。もう出会えない君に、僕はどうしてあげればよかっただろうか。嘆いても仕方のない事ばかりが、僕の頭の中をぐるぐると回る。
「どうしようもないこともあるわ。それでも、貴方は助けてくれたじゃない。どうしようもないはずの命を、棄てても喜ばれたはずの私の為に」
「君は強いね」
僕は憔悴しきった笑みで返しただろう。それでも、彼女は屈託のない笑みで返してくれた。
どうなったって、逃げ切るんだ。そんな覚悟が、僕の中に沸々と湧き上がった。




